百年の孤独 ニッポンの小説

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (451ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163686103

感想・レビュー・書評

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  • 『うわさのベーコン』
    フリッパント

  • なるほどねえー、という感想

  • 今まで100年間の「ニッポンの文学」のありようを紐解きながら、これからの「ニッポンの文学」について考える。以下、覚書。

    死と文学についてのくだりは、僕には難解に思えた。ここであつかわれている「死」というのは、戦争や作者も参加した学生運動のような、横のつながりにいる人々に多大な影響(生きることへの責任みたいなもの)を与える、そういった特殊な「死」なのではないだろうか?
    だとすれば僕に実感が伴わないのは当然のことだが。

    「ニッポンの文学」は死について語る時、「遺言執行人」の言葉として語ってきた。死者を生きている者と同等のようにあつかい、生きている人間と同じ言葉を喋らせて……そうして作者の都合のいいように「死」を語ることで、「ニッポンの文学」は羽振りをきかせてきた。…そこにはかなり痛烈な批判があるように思える。

    でもって「ニッポンの文学」が都合のいいように書いてきたものは「死」だけではない。それは例えば…

    「彼の一日一日は総て同じだった」という文章に潜む、極端な誇張やデフォルメ。
    こういう文は読むとなるとすんなり入ってくるんだ。でも同じように書こうとすると、そこに「ひどい誤魔化し」があることに気付く。けど、こう書くのはとっても簡単。みんなそう書いているから。考えだすと本書のような迷路に迷い込むことにもなる。作者はこの文を「人間の言語表現の基本となる貨幣のようなもの」と表している……それってどういうことだろ? これはすごく大事なことだと思うんだ。

    言葉は「名状しがたいなにものか」と、自分の身近なものとを繋ぎ合わせる。しかし「名状しがたいなにものか」と身近なものを結んで、それでわかった気になっているのは、なんだろう? 「木」はあくまで「木」だし、「死者」はあくまで「死者」だ。

    『異邦人』の冒頭でも言いあらわされているように、「死」は無意味である。
    無意味なものを意味のあるように見せているのが、「遺言執行人」であり今までの「ニッポンの文学」だ。
    「ニッポンの文学」は何でもわかっているように自信たっぷりだし、そこでは「木」はいつも何かの暗喩として存在したりする。
    なにかを本当に存在させるように書くこと=「リアリズム」=「存在論の語法」=「権力の語法」=「暴力」。

    でもって現代の若者あるいは「これからのニッポンの文学」は「遺言執行人」の言葉を聞きながら、「そんな昔のことは自分には関係ない、だいたい、自分がなにかをしたわけでもないのに、責任などあるはずもない」と思ってる。
    それどころか、『「戦争」も「死者」も「自由」も「内面」も、自分には関係ない』『あるいは、「愛」も「文学」も、自分には関係ない』と思ってるのかもしれない。

    そういうわけで、この頃の「ニッポンの文学」は話を聞いていない読者の存在にも気付くこととなる。「俺の話なんか誰も聞きたかないだろ」と思ってる。
    それじゃ「自分には関係ない」と思ってる読者に語りかける語法とは?

    そんな時、往々にして「アメリカ」が用いられる。みんな「アメリカ」が好きだし、主題とは何の関係もないけどなんとなく気になるから。
    その「アメリカ」は時として、「暴力」であったり「セックス」であったり「変態」であったり「強姦」であったりもするのかもしれない。
    この頃の「ニッポンの文学」にはそういったおかずが多すぎるようだ。というより逆転が起って、主題よりもおかずのために文章を書いているのでは?

    しかしそうまでして「自分には関係ない」と思ってる無関心な相手に語りかける必要なんてあるんだろうか?

    文章を書くことに意味なんかないし苦痛でしょうがないと書くのが中原昌也だ。小説を書くことも、コンビニでレジ打ったり商品を補充するのとなんら変わるところのない単なる労働だと言うのだろうか。

    高橋源一郎が言うのはきっと、「わからない」ことは「わからない」でいいじゃないか。「わからない」として語ればいいじゃないか。…ということだろう。
    〈無意味〉は〈無意味〉として書かれるべきだ。

    「死」は「無意味」であり、それを「存在の語法」を使わず語ることは、すなわち「死者」をはっきり分かつことをしない、ということで…
    つまり「死者」に対比して「生者」をおくことができない、
    「死んだ人はお経やお祈りを聞くことができますか?」という質問に対して、「いいえ」「わからない」「はい」がはっきり三等分したように、
    死も曖昧ならば生もその境界線の淡いに置かれることとなる。
    境界線の淡いで、僕たちはこう考えることになる。…僕たちは本当に生きているんだろうか? 生きていると言えるのだろうか?
    本当は、なにもかも無意味なんじゃないか? 
    この頃の「ニッポンの文学」に「展開がない」のは、実生活にも「展開がない」からで、それってやっぱり生きているって言えるの?

    しかし小説は完全に〈無意味〉にはなれない。
    『無意味に包囲されながら、「ない」表現で包囲されながら、ただ一つ、「小説」が〈意味〉として突出する』
    中原昌也の「意味のない」小説を読みながら、切実に感じるのはその〈意味〉のためだろうか。

    〈memo〉
    高橋源一郎の小説に「ヘーゲルの大論理学」という名の人物が出てきたと思うが、それが彼女からの贈り物(差し入れ)の本だったというエピソードにちょっとほんのりしてしまった。他者にとっては意味のわからない言葉の羅列に思える小説でも、そこには作者にとってのっぴきならない過去があるのだと思って。

    『時代から自分を「切り離したい」』という想いから『「ともかく次々に旺盛に雑多に、猥雑に、その身を動かしている人」』として橋本治が紹介されているのを見てなんだか嬉しかったな。やっぱり。ふたりは似てると思ったんだ。

  • 書評のカテゴリーに入れてしまったけど、文学論。これこそがまぎれもなく高橋源一郎の文章。

  • 日本の小説に対する根源的な問いについて。文学とは何か、小説とは何か、言葉とは、意味とは。
    世の中には数多くの小説があって、いろいろな読まれ方をされているが、現代の小説は真剣に向き合って読まれるものではないらしい。雑誌の片隅にひっそりと掲載され、気が付かないような小説もある。
    小説のテーマとして、よく「死」が取り上げられる。子供は「死ぬと何も残らない」と認識していて、その意味をよく知っている。しかし、大人になるにつれ、「死」は意味を持ち、小説の中には死んだ人がいろいろな形で登場する。大人の世界における「死」は、生きている人に影響を与える。大人はそう考えるというのは面白い考察だった。
    また文脈の繋がりの無い素人小説の事例だとか、昔の小説家が書いた文章が、現代の読者にいかに無意味なものかといった面白い事例を挙げて考察している。
    とにかく小説の本質が、この100年でどのように変化してきたかを、様々な事例を挙げて著者の考えを述べていますが、正直、面白いけれどやや読みにくかった。著者がこの本で言いたかったことが、自分には少ししか理解できなかった。また日を改めて読み返してみたい。

  • 文学と、死者の関係。この主題にふれるときの高橋源一郎は、日本一だと思う。死んだ人はお経をきくことができますか。これを小説論として扱える、その視線の確かさ、射程の遠さ。必読だと思います。

  • 小説の優れた読み手としてもっとも信頼する人である。
    また、これを読んで石原吉郎を知り、自分にとって大事な作家となった。

  • ひさしぶりの源ちゃん。評論を超えて、テツガクしてます。おもしろかった。ニッポンの小説は「死者」のための「遺言執行人」。人が増えるとシステムができてしまうのは、自然発生的で人間の習性みたいなものかしら。

  • 源一郎さんの新しい文芸評論です。この人の作品は出るとすぐに買って読んでいます。小説も好きですが、文芸時評もさらに好きなので読むのを楽しみにしてました。

    源一郎さんは、以前より「書く」ことについてセンシティブであることを隠していませんでした。今までは割りと単発であったり独特の表現の中でオブラートで包まれていたりしていたのですが、今回そのことについて非常に正面から取り上げています。

    副題の「百年の孤独」は、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』を取り上げているからではなく、もちろん明治以来のニッポンの小説の「百年の孤独」について書かれているからです。通して読んだ後、源一郎さんが少し前にやたらと明治の文学者に拘って小説を書いていた理由が少し明確になった気がします。もしかしたら「小説」が生まれたその場所にいた明治の文豪をうらやんでいるのかもしれません。
    明治期に小説の起源を求めたものとしては、柄谷行人の初期の評論集「日本近代文学の起源」が(自分の中では)有名ですが、小説を生産する立場の人間として、書くことへの畏れと驚きを持ちながら小説の起源と根源について突き詰めて、そして至らず、という想いを抱かせます。
    自分がここに書かれていること全てをわかるわけではないですが(もちろんそれでいいのです)、これもまたやはり素敵な「小説」だと思います。

    星5つ

  • 陣野俊史が選ぶ 小説のことを考え始めるための10冊:文藝(2009冬)より

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著者プロフィール

作家・元明治学院大学教授

「2020年 『弱さの研究ー弱さで読み解くコロナの時代』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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