- Amazon.co.jp ・本 (198ページ)
- / ISBN・EAN: 9784163915029
作品紹介・あらすじ
町枝圭吾、24歳。京都市内の観光ホテルで働いている。
圭吾は、恋愛をすることが怖い。自分の男性性が、相手を傷つけてしまうのではないかと思うから。
けれど、ある日突然出会ってしまった。あやめさんという、大好きな人に――。
圭吾は、あやめさんが所属する「お片付けサークル」に入ることに。他人の家を訪れ、思い出の品をせっせと片付ける。意味はわからないけれど、彼女が楽しそうだから、それでいい。
意を決した圭吾の告白に、あやめさんはこう言った。
「わたし、ポリアモリーなんだけど、それでもいい?」
ポリアモリーとは、双方公認で複数のパートナーと関係を持つライフスタイルのこと。
あやめさんにはもう一人恋愛相手がいるらしい。“性の多様性”は大事なのはわかるし、あやめさんのことは丸ごと受け入れたい……けれど、このどうしようもない嫉妬の感情は、どうしたらよいのだろう?
勤務先はコロナ禍の影響で倒産。お片付けサークルも、“ソーシャルディスタンス”の名のもと解散になった。
圭吾はゴミが溢れかえる部屋の中で、一日中、あやめさんに溺れる日々を始めるのだった――。
いま最も旬な作家との呼び声も高い大前さん。男らしさ・女らしさの圧に悩む大学生を描いた『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』は各所から絶賛され、大きな話題に。笑いの暴力性に切り込んだ『おもろい以外いらんねん』は、アメトーーク!読書芸人回でも紹介されました。ananの「いまどき男子」特集では、若者文学の担い手として紹介されています。
本作はジェンダー文学として「アップデートされた価値観」を提示する作品でありながら、恋の切なさと喜びを凄まじい解像度で描いた、剛速球の恋愛小説でもあります。
感想・レビュー・書評
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好きになった彼女はポリアモリーだった―――。
繊細な若者たちの、繊細な恋愛小説だった。
価値観の違い、ってよく言われるけれど、今現在、多くの人が前提としている一対一の恋愛が合わない人も、中には存在する。
ポリアモリーとは、双方公認で複数のパートナーと関係を持つライフスタイルのこと。
はじめてこの言葉に触れたのはNHKEテレでやっていた5分くらいのドキュメンタリーでのこと。
ふたりの男性の恋人を持つポリアモリーの女性を紹介していた。
新しい風を感じるような新鮮さでその番組を見ていたのを覚えている。
大前粟生さんの小説は二冊目。
恋にあふれた小説だった。
みんな誰かに恋をしていて、こちらまでフワフワきゅんきゅんしながら読んでいた。
辛さはちょっと分からないな、と思いながら。
でも、彼らが本気なのは分かる。
文章の構成?がちょっと変わっていて、登場人物の視点が次々変わる多視点の小説なのだけど、Aくん→Bさんへの視点移行が滑らかで、繋がっているような繋がっていないような不思議な読み心地。それがけっこう愉悦だった。
『きみだからさびしい』ってタイトルも好き。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
各所で話題になっているのは把握してたけれどしばらくスルーしてて、でもポリアモリーを扱う話だと知るやいなや飛び付くように読んだ。
複数愛を実行せんとするあやめさんに恋する圭吾くんのお話。
ただほかにもジェンダーやコロナ禍や、なんやかやテーマと思しきものがてんこ盛りだったので、もうちょっとどれかに絞って深掘りできていたら良かったのかなと思う。あと職場関係の人たちの視点がぶれすぎてて第三部までは読むのが大変だった。
それで肝心のポリアモリーだけど、あやめさんもまだ試行錯誤中のようで、ぴんとくる見解はみつからなかった。
浮気性とポリアモリーは何が違うのかを自分なりに区別してみると、浮気性の人は一人の本命がいながらつまみ食いしてしまうのであって、ポリアモリーはただ本命(もしくは好きの度合いがほぼ均衡してる人)が複数いるってことなのかなと。その全員と継続したオープンな関係を築いていこうとしている。不誠実ではないよね。
いや、その場合相手もポリアモリーじゃなければ本命が複数いる時点で不誠実なのか…??ん??
まあ定義とかルールなんてないから、みんな各々の主観でやってるんだろうけど。私はこの恋愛の在り方がいずれはもっと市民権を得られたらいいなと思ってる。
「別に僕は、常に複数人とつきあってたいとかでもないし、恋愛が得意な方でもないです。今の暮らしがわりと好きだったりもします。僕はひとりでそこそこ充実できる。でも、ふとさびしくなるときがある。そのさびしさは、そんなに大きなものではないんです。心が、たとえばこう、スイカくらいの大きさだとすると、今のさびしさはちょうどこのひとさし指くらい。たいしたことないんですよ。でもどうしても目に入っちゃうし、どうしても、ひとりだと埋められない。さびしさの穴はいくつも空いてるんです。別の穴は親指だったり、小指だったり、薬指だったりする。ひとりだけとつきあったら、たとえばひとさし指の穴は埋まっても、親指の穴がどんどん広がっていっちゃうかもしれない。心の大きさを超えて、僕自身を呑み込んでしまうかもしれない。僕は臆病なんです。臆病だから、それぞれの穴を埋めてくれそうな人を見つけると、つい好きになっちゃう。僕は、窪塚さんのことが好きです」 -
ポリアモリー、初めて知りました。多様性の社会において、何でもかんでも認められることに違和感を感じていましたが、自分にしっくりくる節があったので、このような恋愛スタイルの概念があることを知り、嬉しくなりました。話の内容的には、主人公の男性の想いがストレートに描かれていて、純粋な恋愛小説でした。私は人間の複雑な思考が、文章で描かれているのが好きだけど、これはさっく書いてあったので、想像を膨らましてもっとゆっくり読んだ方が良いのだろうなと思いました。
好きな人が2人いて、同じくらい好きなんだけど、それを相手が許容してくれるとは思えなくて。。複数の人を愛して愛されたらきっと満たされるんだけど、寂しさは消えるわけではない。何なら一対一の関係よりも永続的ではないから、不安定な心は常にあって寂しさとはずっと一緒にいると思う。
ドラマとかの不倫現場で、どっちも同じくらい好きなんだという言い訳はクソだと思っていたけど、ポリアモリーだと自覚して、恋愛関係を築いていたら、裏切られ•裏切るもなかったかもしれないってこと? -
主人公の圭吾は、自分が抱く性欲にも嫉妬にも後ろめたさを感じている。
絶対的に自分が挿れる側、相手が挿れられる側である不均衡。
恋人のあやめはポリアモリーで他にもパートナーがいるが、その事実に向き合うも目を背けるも苦しい。
違う身体・恋愛スタイルをもつ相手と、どうしたら「対等な」恋愛ができるのか。
心の底から相手を尊重できないなんて、それは「本当の」恋愛ではないのでは。
いわゆる恋愛小説って二人の間のすれ違いや距離感の変化、心が重なる瞬間に重きを置いたものが大多数だと思うけど、この小説は違っていて。
ひたすら圭吾が自分自身の心と対峙してる。
こうありたい自分と、それに追いつけない自分。
何をどこまで主張あるいは我慢して、どう折り合いをつけたらいいのか。検討もつかず途方にくれて、だんだんと消耗していく自分。
こう書くと独りよがりな人みたいだけど、決してそうではない。
自分にも相手にも誠実だからこそ、恋愛してる自分をここまでじっと見つめられるんだと思う。
流れ、勢い、フィーリング、そんなものに身を任せてしまう雑さがない。
とはいえ二人のときはひたすらフニャフニャ甘えてて、こちらが気恥ずかしくなるほど。
「あやめさんといると俺はいくらでも気を許して子どものようになってしまう」
変な踊りもふざけ合うノリも、二人きりだととびきり輝いて、特別になる。
大前さんの小説、やっぱり大好きだ。
対社会用に身綺麗にする前の、ねぐせ頭とスウェットのままみたいな人間をそのまま描ききれるところ本当にすごい。
このご時世、先の楽しみなんて奪われ果てたけど、次回作にワクワクする気持ちで一日を繋いでいけるかもしれない。 -
ここが良かった、このセリフが胸を打ったとか、そういうものを残しておけないくらい引き込まれて読んだ。
あやめの不自由さや孤独、そのおもてにあるような快活さが好きだし、圭吾がお化けから始まり葛藤をじっくり炙るように燃させながらひとつ結論を得るまでが好きだし、青木の「おまえが幸せにならないと私は……」とか元木の「誰だって自分の信じたい考え方に洗脳されに行っているだけ」とかは手を固く握りたい衝動を得た。
ポリアモリーという言葉が出て、それについてもじっくり扱っているが、それに限らずとにかく愛についての話。ひとがひとを愛そうとすることをとにかく言語化した物語だった。 -
“そんなん、そりゃそうでしよ。恋愛感情と性欲ってはっきり分けられるもんじゃないでしょ。そんなん、普通のことでしょ。好きって気持ちは、一方的で気持ち悪いもんでしょ”
ランニングで知り合った、あやめさんに憧れてる圭吾。同僚の金井くんに好きだと言われた。僕はゲイではない。けど、金井くんのことは友達としてとても好き。
あやめさんに勇気を出して告白した。ポリアモリーだと言われた。ポリアモリーとは、同時に複数の人と恋愛関係を作れる人だという。僕はあやめさんに他に彼氏がいてもいいのか?あやめさんは僕のことを好きだと言ってくれる。僕は、あやめさんを独占したいのか?自由な雰囲気を持つあやめさんのことが好きなんじゃないのか?好きって?付き合うって???
今どきって、色んな嗜好や、付き合い方、性的なバリエーションがあって、それは自由でいいと思う。けど、自由であるがために、相手の自由を理解できないこともあるのかも。そもそも相手の全てを理解できる、ということ自体が幻想ではあると思うけど。
恋愛だけじゃなく、コロナという新しい感染症に対する考え方や、仕事を選ぶということ、どんな服を着て、どんな本を読み、どんな考え方をするのか。自由度が増えていくことは、自分で決めることが増える。子供の時は、いかに自分で考えないかという教育を受けてくるのに、大人になったとたんに自分で考えて自分で決めろと言われる。そんな時代の新しい恋愛、というものを考えさせられる。 -
他の誰でもない「きみ」が好きだからさびしい。そんな少し歪な感情を抱きながら恋愛をする男女達の物語。主人公の圭吾は自分が性的マジョリティだと自覚し過ぎているがゆえに、マイノリティに過剰なまでに配慮する。しかし、圭吾が「対等に」接しようとすればするほど逆にマジョリティ側が「普通じゃない」ように見えてしまった。むしろ、ゲイであることをさらっと告白し、圭吾に思いを伝えた金井くんや、ポリアモリーであることを最初に伝えたうえで、圭吾に最大限向き合おうとしたあやめさんの方がもっと自然に恋愛を楽しんでいるように見えた。圭吾は自分は完全なるニュートラルな生き方が出きると過信しているようだった。どんな相手とも対等に接し、相手を尊重し、自由にしたい。立派な願望だけれども、それをやろうとしてやるのは違う気がする。結果としてそういう態度になるのが正解ではないだろうか。最初からそんな綺麗な生き方を望んだからこそ、それに一度綻びが出るとどんどん自暴自棄になり堕落していく。きっと世の中にいる全ての人に平等に配慮するのは不可能で、自分が付き合っている人々の中だけでも、優先順位や向ける感情の種類はバラバラだ。でも、それが人間で、全ての人間を同じように愛そうとするのはおこがましいことだ。それに最後の最後で気付き、あやめさんのことが好きだという単純で強い気持ち1つを持って、一人立ちすることを決めた圭吾は大きく人として成長したのだろうと思った。私自身にも耳が痛い話だった。
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そうか〜、そうなのかあ。と、思った読後。
自分自身とか、常識になってしまってるおかしなこととか、それに嫌悪感を抱きながら同時に全部抱えて苦しくなる。
いま、おかしいのにスルーされてきた色々に声をあげられるようになったからこその苦しさだと思う。
差別とか一方的な思いとか男とか女とか、確かにおかしくてグロテスクだ、でもそれは自分の中にも存在していて、簡単には消せない。
恋愛面では誰にも共感できないなと思ったけど、そもそもこんなに人を好きになったことがない。
ポリアモリーでもいい?と言われていいよと言える自信もないけど、誰か一人だけを好きでいるのも難しいなと思うな〜。
人にはいろんな寂しさがあって、それを埋めてくれる存在はいろいろだったりする。
誰も傷つけたくない、イコール、誰にも傷つけられたくない。
作者の書く小説を読むたびに、優しくて弱くて苦しむことがつらいけど、この苦しみをやめたら自分を許せなくなるんだ、というループに陥っている人がいることに勝手に安心する。
安心するし、しんどいなと思う。