寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))

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  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784166602513

感想・レビュー・書評

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  • 一読の価値あり。再読の価値はない。 上っ面をさっと撫でたようなものゆえ、深みがなく面白くはない。簡単な紹介文のような感じ。

  • これ読めば大体の哲学の流れは抑えられる

  • 面白いけど、構造主義の解説ではないかな~。普通に好きだけど。

  • 結局のところ、あとがきの、

    レヴィ=ストロースは要するに「みんな仲良くしようね」と言っており、
    バルトは「ことばづかいで人は決まる」と言っており、
    ラカンは「大人になれよ」と言っており、
    フーコーは「私はバカは嫌いだ」と言っている…

    ということでいいと思うのですが(笑)。

    著者のエクリチュールは非常に説得力があるというか、
    要するに、分かった気にさせてくれるわけで。
    今回も、なんか分かった気になりました。

    ソシュール、ラカンくらいは齧ってましたが、
    その他の現代思想の知識は全くまとまりがないまま、
    頭の中でこんがらがっていました。

    本書は、構造主義だけでなく、近代思想の大まかな流れとともに、
    解説されているので、体系的な理解ができて助かりました。

    と、いう考え方がすでに構造主義的でないようですが(笑)。

  • フーコーを読もうとした。一ページも進まずに挫折した。それ以来「現代思想」アレルギーが発症してしまった。だが、本書が特効薬になった。

    構造主義は、「私」という概念を根本から覆す発想をしている。その論法を極端化すれば、「私」は存在しない、と言い切ることさえ可能である。ちょうど、安部公房の『第四間氷期』で、人間の性格は概念の組合せで定式化できる、とあったように。

  • 寝ながらは無理かな、くつろぎながら・・・

  • 構造主義と聞くだけで、とても難しい印象を受けるものですが、タイトルに勇気づけられて読んでみました。
    系統立てて、難しい文献をかみ砕いて解説されており、わかりやすくはありますが、ビギナーにはとても「寝ながら学べる」簡単なものではありませんでした。
    それでも、これまで全くピンとこなかった構造主義の流れが、漠然ながら見えてきた気がします。

    卑近な例を採り上げたわかりやすい例えが魅力的。
    『地球の歩き方』の新しい情報を引き合いにしたりしています。

    構造主義の源流の一つはマルクスだという意見には驚きました。
    全く違うジャンルかと思っていましたが、「属する階級によってものの見え方が変わってくる」ということを説いたという点では、確かに共通点を感じます。

    今でこそ、相対的価値観のもとに世界理解はなされていますが、ほんの50年前は、まだ絶対的価値観が主流だったと気付かされます。
    戦争に、絶対的正義はないものだということを、今でこそ人は理解できますが、1950年代のアルジェリア紛争時、フランスを動かす絶対的正義論に異論を唱えたのはカミュだけだったそうです。

    突然、狂言の話が出てきたことにも驚きましたが、例えの多彩さと柔軟さ。
    「ぶす」に登場する太郎冠者に焦点を当て、「『太郎冠者が嘘つきであることを主人は知っている』ということを太郎冠者は知らない」という点を、構造論的無知だと説明します。
    そう言われれば、なんとなくわかってくるものです。

    また、ニーチェは超人が何たるかをはっきりと説明していないという点にも驚きました。
    わかったつもりでいながら、雰囲気だけで定義をつかみ切れていないのは、そもそも提唱者が明確に論じていなかったためだというわけです。
    ニーチェの系譜学的思考がミシェル・フーコーに継承され、大衆嫌いの大衆たちによる「ポスト大衆社会」が形成されていったとのこと。
    ニーチェ→フーコーの「嫌悪する思想」について、系統立てて考えてみると、理解しやすそうです。

    明治維新まで、日本人は全員が右足を踏み出すときに右半身を前にするナンバ歩行をしていたということも、知りませんでした。
    明治維新後に軍隊行進をヨーロッパ化するために廃止になったものの、完全に消えるまで100年かかったということ。
    ほんの少し前まで、日本人の歩き方は、今とは違うものだったとは。

    割と馴染んできたバルトについての箇所が一番読みやすかったものの、それでも知らないことが多く、驚きが随所にありました。
    『零度のエクリチュール』を経て、彼は日本の「空」や「間」の感覚に向かい、最終的には俳句に行き着いたとのこと。
    ラカンは難解で全く理解できない箇所が多々あるため、研究書がとりわけ多いのだと書かれており、(やはりそういうものか)と思いました。

    私には、深い理解は無理だろうと諦めていた構造主義ですが、一般的にも「邪悪なまでに難解」と思われていたとのことで、なんだかほっとします。
    最後に、まとめとして構造主義の四銃士の主張を
    レヴィ=ストロース「みんな仲良くしようね」
    バルト「言葉遣いで人は決まる」
    ジャック・ラカン「大人になれよ」
    フーコー「私はバカが嫌いだ」
    と書き切った、その潔さに感服しました。

    専門書のように狭く深くではなく、幅広い視野を持って、そのものの質を壊さないままわかりやすく伝えようとする著者の意図が伝わってくる一冊。
    途中でギブアップするかと思いましたが、興味を引かれる内容のもと、最後まで読み通すことができました。

  • ものすごい荒い個人用メモ。


    マルクス的な史的唯物論と、ニーチェ的な「歴史の名においてすべてを裁断する権力的・自己中心的な知」(p.150)である実存主義に対して、構造主義が現れる。

    フロイトの精神分析、ソシュールの言語学から始まる。

    フーコーは「人間主義」に異論を唱え、その歴史主義と理性主義が語らなかった「狂気」の誕生を発見する。「カタログ化し、一覧的に位置づけ」る方法としての「権力」を批判する。
    ここでは制度化された狂気を、それは権力によるものだとしてフーコーは批判しているんでしょうか?捉えきれませんでした。

    バルトのシニフィアンとシニフィエ。ラング、スティル、エクリチュール。ソシュールを引き継ぎ、言語という現象を分析する。テクスト。小説家に自分の書いた小説の解説ができるなら小説なんて書かない。

    レヴィ=ストロース。実存主義と構造主義は、本質など無いのであって、個人から表出されたものが初めて自己を規定する、という点では同じ。しかしサルトルは、そうして「政治的正しさ」に近づけると考えた。一度手放した「神」を、「歴史」に置き換えて裏口から入れてしまう。
    『野生の思考』、数理的分析による親族モデル、贈与。ここから人間関係に存在する、しかもそれまでには見えなかった構造を見出す。

    ラカン。自我、私、主体。この章はイマイチよくわからなかった。
    ラカンが「フロイトに還れ」と言った、というのは覚えている。


    読み終わった感想として、構造主義のフンイキはつかめたような気がする。ただ、結局それが何なのかと聞かれても多分説明できなそう。現代フランス思想を知るにはいい本だとは思うけど、構造主義を知るには片手落ちな気がする。ラカンの章を読み終わって、「んで?」ってなってしまった。
    なぜかと言えば、フーコーとバルトとレヴィ=ストロースとラカンが何で構造主義者と呼ばれていて、この4人に共通することは結局何であるのか、それが書いていなかったからだと思う。この4人の共通項に「構造主義」があると思うのだが、それが知りたいんだ。まとめをあと1章書いてくれれば、もっと綺麗に落ちたと思うのだが。

  • 「構造主義」という言葉。

    この言葉には大学入試の国語、現代文の試験問題で出会ったのが最初だった。「記号」とか「文化相対主義」とか、そんなキーワードに導かれて、行きついたところは「構造主義」。
    大学浪人をしていて、試験勉強もしなければならないのに、内田樹先生の『寝ながら学べる構造主義』を手にとった(内田先生が哲学者、エマニュエル・レヴィナスの敬称を略せないように、俺も内田先生の敬称を略すことはできない。以下、内田先生と記述することにする)。
    高校を卒業したばかりだったけれど、内容はなかなかわかりやすく(といっても当時の理解力ではまだちゃんと理解していない部分もあっただろうけど)、数回読んだ。
    この本を読んでからというもの、自分の考えや学んでいることを可能な限り相対化するように努めてきたように思う。それがどれだけ徹底出来ているかはわからないけれど。

    本書では「構造主義」の“四銃士”として、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、クロード・レヴィ=ストロース、そしてジャック・ラカンが紹介されおり、さらにその「始祖」ということでフェルディナン・ド・ソシュールについても軽く触れられている。
    これらの人物については、各人毎に何冊もの解説書などが出版されている。
    なので、新書1冊ででは扱える情報量にものすごく制限があるが、この本では「構造主義」についてのとっかかりになる彼らの考えをピックアップして、うまくまとめていると思う。
    書名の「寝ながら学べる」に偽り無しと言っていいだろう。

    それでは「構造主義」とは何なのか?
    この問いだけで本が1冊書けてしまうものだろうが、本書の第1章では次のようにまとめられている。少し長くなってしまうが引用する。


    「私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものごとを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に『見せられ』『感じさせられ』『考えさせられている』。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。」(25頁)


    人は自分が思っているほど自由に物を考えているのではなく、属している社会的集団や使用する言語等によって、実はその考え方がかなり規定されているという考えなのである。

    この思想が自分の脳内に入ってくるときの感覚は今でも忘れられない。
    今でもちゃんと理解しているかと問われたら答えに窮するかもしれないが、「構造主義」との出会いは間違いなく自分の価値観が変わった一つの出来事と言えると思う。
    (別に実生活においてはそれほどの影響があるわけではないけれど。)



    テクストのほうが私たちを「そのテクストを読むことができる主体」へと形成してゆくのです。


    この1文はロラン・バルトについての章のものである。

    バルトはあらゆる文化現象を「記号」として読み解いた人物である、と本書では紹介され、そのバルトの」エクリチュール「と」作者の死「という概念について解説している。
    そして引用文は「作者の死」について書かれている箇所の記述である。

    「作者の死」とは、作品の起源に何か「言いたいこと」をもった「作者」がいて、「作者」はその「言いたいこと」を伝えるために「作品」を創造するという図式を否定するものである。
    これまでは、「作品」を創ったのは「作者」であるから、「作者」は自らの「作品」については熟知しているべきだし、さらにそこには明確な「メッセージ」や「言いたいこと」があるものだと思われてきた。
    今でもそう思っている人も多いだろう。
    ある文章を批評する際、「作者」がなぜその「作品」を書くにいたったのかということを論じる批評家は数多いる。
    そのときに語られるのは、その「作者」の「起源=初期条件」である生い立ち、イデオロギー、宗教性等々。

    だが、バルトはそもそも「起源=初期条件」というものは存在しないとする「作者の死」を唱え、これまで主流であった近代批評の原則を否定する。


    テクストのほうが私たちを「そのテクストを読むことができる主体」へと形成してゆくのです。


    ここで」テクスト「という言葉に着目したい。
    内田先生は、バルトがここで「作品」ではなく、敢えて「テクスト」にしたと述べている。
    「『テクスト』(texte)とは『織り上げられたもの』(tissu)のこと」であり、この「織り物」は無数の要素が絡まり合って成り立っている。
    それらの無数の要素は、それぞれに固有で別々の振る舞いをしつつ、絡まり合って、一遍の「テクスト」が出来上がるのである。
    そのような「テクスト」を目の前にして、「作者は何を表現するためにこれを織り上げたのか」と限定的に問うことはそれほど意味のあることなのでしょうか(130頁)と疑問を投げかけている。
    内田先生は、バルトが「起源=初期条件」というものは存在しないという意味で「作品」という言葉を使わず、「テクスト」という言葉を使用したと述べる。

    最後に内田先生が引用したバルトの言葉を引用しておこう。


    「テクストの統一性はその起源にではなく、その宛先のうちにある。(略)読者の誕生は作者の死によって贖われなければならない」(バルト「作者の死」)


    上記では個人的な興味から主にバルトについて述べたが、その他フーコーの系譜学的思考、レヴィ=ストロースの贈与、ラカンの精神分析についてもわかりやすい語り口でコンパクトに述べられている。

    「入門書」としてはこれ以上ないくらい最適と言える1冊。

  • 日本のKindle Storeで購入。
    フーコー、バルト、ラカン、レヴィ=ストロースと一気に理解した(ような気になる。)もう一度、悲しき熱帯を読み直そうっと。

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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