- Amazon.co.jp ・本 (189ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167545178
作品紹介・あらすじ
うつ病に苦しみ、老父の介護に疲れた家主のもとへ現われた野良の子猫、トラ。子供たちの懇願でしぶしぶ家に入れてから十五年、家主が病いと折り合いを付けたのを見届けたかのごとく逝った-。共に生きのびた愛猫への想いを綴りつつ、ある家族の、ささやかだけれどかけがえのない苦闘と再生の年月を描ききった名作。
感想・レビュー・書評
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あんまりにも引きずり込まれるので、言葉がなかなかでない。
やさしく、やはり疾患特有とおもわれる病的な繊細さとか細さと、芯のつよい先生の文学者としての文章が、ものすごくしみた。まがりなりにも同業者なので、病院のなかの南木先生が、読んでいるうちにあたまのなかで動きだし、しだいにそれが自分にのりうつってきて、うつ病の患者になんどとなく死にたいと言われ必死に理解しようとして結局ひきずられるだけでほとんど助けられない研修医だったことや「四十代前半の男性」の「醜悪な腫瘍」をみつけたときのたおれこみたくなるような気持ちやその人びとの検討外れの笑顔やら、死に様やら、ごっちゃになってしまってぐるぐる頭がふりまわされるしまあ息はつまるし非常につらかった。
だけどだからトラに癒されてきた先生の心はものすごく染みた。よい先生だなあと思いました。偉くはないけどこんなに一生懸命で。
まとまらないけど。 -
1990年、著書『ダイヤモンドダスト』で芥川賞を受賞した翌年から、南木氏はうつ病と診断される。同じころ、氏の家に住み着いた子猫、トラとシロ。
病に苦しむ父親の放つ重苦しい雰囲気に満たされた家の中、子猫たちは氏の二人の息子たちの格好の遊び相手となる。時に、自殺の衝動にとらわれて、台所で包丁に手を伸ばす氏の足元にからみつき、無心に餌をねだることもあった。
例えば足の指をなめる、小さな舌の感触。カリカリと口を左右に振りながら餌を咀嚼する食いっぷり。腹や胸の上に乗ってくるぬくもり。二匹の行動は氏やその家族の抱えていたものを慮ってか、ただ、本能に従っただけものなのか。
しかし南木家の人々は猫たちによって様々に救われ、教えられる。シロはじきに姿を消してしまうが、最期まで一家の元で過ごしたトラとの日々を綴るエッセイ。
内科医としての冷静で論理的な目で観察される、自身のうつ病の症状とそれがもたらす身体の変化と苦しみ苛まれる日々を、文学者としての確かな筆力をもって淡々と記す。いつしか病を克服し、しかし歳月の分だけ年齢を重ね、老いの坂を緩やかに下っていく南木氏夫妻と、その間に人間の何倍ものスピードで成長し、老いていくトラとの日々は、後半は涙なしには読めない。
猫好きな人に是非お勧めしたい。
昔、私の母が子供の頃、家に一匹の野良猫が居ついて、そのまま家族の一員に迎えたことがあるそうだ。その事を知った小学生の頃の私は、祖母に猫を飼いたいと頼んだが、祖母は許してくれなかった。「猫が死ぬと辛いんだ」そう言って。
昨夏、実家に一匹の子猫が来た。祖母の言葉の意味と気持ちがわかる。居ついた野良猫。居ついたから、仕方なく受け入れた野良猫。しかしそれでも祖母は、家事と仕事、育児の忙しさのなかで、猫を愛していたに違いない。猫の存在とその後の不在はとても大きい。 -
時が心身を変容させてくれます。というか、生きているかぎり人は変容せざるを得ないのだと思います。ぼくの話が嘘っぽく聴こえたら、死なないでみてください。そうしてご自分でたしかめてみてください。
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医師であり、作家の南木佳士のエッセイ。
南木は医師という職業の重圧から、心の病になってしまう。
そんな時、南木一家のも元に出入りするようになったのは、一匹の猫だった――。
家族の再生と「トラ」のお話。
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愛猫トラとの日々と別れといった物語らしいので、猫好きのわたしとしては読まない訳にはいかない。
物語というよりも、作者自身のことを綴ったエッセイとでもいうべきだろうか。
医師として暮らす中、あるときから鬱病で苦しみはじめる。
そんな折り、野良猫のトラを子供の願いによって飼いはじめる。
そのトラとの日々と、鬱病が落ち着いていく様が描かれる。
物語としてはこれだけ。
病と闘って劇的に回復もしない、猫も普通の猫。
ただ、こういった普通の日々を穏やかで淡々とした文章で描くことの上手い作家さんだと感じる。
そういった文章だから、トラをなくした寂しさも余計に伝わってくる。
この作家さんの書く文章が沁みてくる理由は、わたしにはもうひとつある。
わたし自身が鬱病だからだ。
今はもう随分落ち着いて、殆ど日常にも支障はない。飲めば満腹になる程だった薬の量も、随分減った。
でも、この作家さんのように、そうなるまでには十年以上かかった。
南木さんにとってのトラは、わたしにとってのジュリーだった。
今思うと、どうしてあんなに死にたいと思ったのかわからない程に、何かと理由もなく死にたくなった。
踏切のカンカンという音を聞けば、飛び込んだら楽になれるかなと思ってしまうので踏切には近づかない。
包丁を見ると、これで首を切ったら楽になれるかなと思ってしまうのでキッチンに入らない。
それでも自分でもわからないうちにスカーフを捻りながら、どこに吊ろうかと天井を見上げていたりすると、ジュリーが脚に顔をこすりつけてきたりした。
そんなジュリーは、夫にわたしを託すと安心したように眠りについた。
そう感じた。
ジュリーがいなかったら、一体何回死んでいたかわからないくらいに彼はわたしを救ってくれた。
ジュリーが19年も生きてくれたのは、自分が死んだらどうなってしまうかと思うと、死んでも死にきれなかったからじゃないかと感じる。
夫がジュリーをなくして沈んでいるわたしに、今の愛犬を買ってくれた。
猫と迷ったけれど、猫だとジュリーを思い出して余計に辛いかと思ってと。
我が家の愛犬は、ジュリー同様に不安定なわたしを支えてくれる。
おかげで少し元気になった頃、野良猫を保護したかたから譲り受けた。
ジュリーとはまた異なる猫らしい猫。
南木さんの本を読むと、そんなことが思い出される。
嵐のようというより、長く雨がつづいたような日々だった。
雨ばかりで気持ちが塞いで、周りを見ることもできなくて、雨音で何も聞こえない。
そんなときにジュリーは無理矢理にでも存在に気づかせてくれていた。
ボクここにいるよ。ひとりじゃないよ。
そう言っていた気がする。
今年もジュリーのなくなった日が近づいてきている。 -
引用元である『ノラや』が老境のペーソスをユーモアに昇華させる栄養剤であるのに対して、本作は悲しみに触れることでしか癒されない、どうしようもない痛みへの処方箋のように感じられてしまった。医者として多くの死に触れた著者が欝となり、老父の介護にも疲れきった中でふと迷い込んだ猫と暮らした日々を描いたエッセイ。それは老いや死を受け入れながらも、ひび割れた生を何とか肯定しようとする繊細な優しさに満ちていた。「永遠の不在は、遺された者の内に不在というかたちで残る。そして、それも遺された者の永遠の不在によって消滅する」
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猫好きにはよくわかる。本能のようでありつつ、ネコの生き様からは教訓や慰めが得られる。切なくも心地よい読後感。
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書店でなにげなく手に取り開いたところ、「内田百閒」「ノラや」の文字が目に入り、「南木佳士」ということもあり、勢いで購入。
期待に違わずというか、むしろこの本を読むまで南木さんの背景を知らなかった年月が悔やまれるほどで、再読も含め、しばらく南木さん作品にはまる予感です。
人は何があれば救われるのか、自分以外のその何かとどういう関係で結ばれればいいのか、考えさせられました。
vilureefさんは信州(の病院?)に勤務して...
vilureefさんは信州(の病院?)に勤務していらしたのですね。この本の冒頭で出てきた千曲川や、南木先生がながめていた自然に接していらしたのかとおもうとなんだか羨ましいような…
この作家さんの本のなかでもこの物語は私小説の傾向がつよいのでしょうか、、
こんなに繊細な人が自分を保つために書いていらした物語たちなんですね。
それにしても、たしかにいっかいくらい風邪ひいたりしてでも先生にお会いしたかったかも…(笑)
お返事遅くなりました(深々と)
インフルエンザでヒーヒー言いながら受診したのに・...
インフルエンザでヒーヒー言いながら受診したのに・・・
わたしは病院勤務ではありませんが、病院はすぐそばで懐かしい思い出です。
すぐに先生にお会いできるならどんどん患者さん集まりそうですよね先生のとこに…笑
いいですね、なんだか心が豊かに...
すぐに先生にお会いできるならどんどん患者さん集まりそうですよね先生のとこに…笑
いいですね、なんだか心が豊かになりそうな思い出ですね。