新装版 義経 (上) (文春文庫) (文春文庫 し 1-110)
- 文藝春秋 (2004年2月10日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (490ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167663117
作品紹介・あらすじ
みなもとのよしつね-その名はつねに悲劇的な響きで語られる。源氏の棟梁の子に生まれながら、鞍馬山に預けられ、その後、関東奥羽を転々とした暗い少年時代…幾多の輝かしい武功をたて、突如英雄の座に駆け昇りはしたものの兄の頼朝に逐われて非業の最期を迎えてしまう。数奇なその生涯を生々と描き出した傑作長篇小説。
感想・レビュー・書評
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読みやすくて面白い。
鎌倉殿の13人を見ているので頭の中を整理したくて読み始めました。
歴史って面白い。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
父は源氏の棟梁「源義朝」、母は皇妃侍女の「常盤」、 幼名「牛若」から「源九郎義経」「九郎判官義経」と呼ばれた数奇波乱の伝説的英雄「源義経」の生涯を中心にして、登場人物の思想と言動が克明に再現された長編歴史小説。 上巻では、保元・平治の乱後の平家の権勢下の様子、鞍馬寺に「遮那王」の名で預けられた後、関東奥州を転々とする源九郎、平泉の藤原秀衡の庇護、 武蔵坊弁慶との邂逅、源氏の再興をかけ挙兵した異母兄・源頼朝との合流、木曽義仲による京での平家討伐の模様など、息も継がせぬ緊迫感で刻々と語られていく。
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邪道かもしれませんが、大河ドラマを見てから読むと、人物に現実味が出て面白い。鎌倉殿の13人、結構忠実にこの流れに乗ってるなと。昔から気になってた木曾義仲やっぱり切ない。勿論義経もだけど。わかっていても後半が楽しみ。
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面白かった。感想は下巻で
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機動戦士ガンダム。アムロ・レイ。zガンダム。カミーユ・ビダン。シャア・アズナブル。
うーん。彼らの原型が、「源九郎義経」だったとは。
ガンダムファン、必見、必読の作品だと思いました。
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司馬遼太郎さん「義経」(文春文庫、上下)。1968年発表だそうです。
これは、面白い。
つまり、司馬遼太郎版の「平家物語」なんですね。
平清盛の栄華から。
少年義経の放浪。
頼朝の挙兵、木曽義仲の挙兵。
富士川の戦い、宇治川の戦い。木曽義仲の敗死。
一の谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦い。義経の絶頂。
義経と頼朝の対立、腰越状。
そして、義経の没落まで...。
いわゆる「源平」の美味しいところをわしづかみにした、上下巻です。
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この小説と、「街道をゆく 三浦半島記」を読むと、立体的に判ってくるのが、司馬さんの解説する「鎌倉時代」というものです。
平安時代までは、基本の土地所有の仕組みがどうなっていたかというと。
つまり、日本全国の土地は全て、「政府=朝廷」のものだったんです。
ただこれは当然、徐々に形骸化していきます。
どうしてかというと、朝廷という言葉の中身が、実力者が、徐々に藤原一門にスライドしていきますね。
そうすると、藤原一門は、簡単に言うと私有財産が欲しい。私有地が欲しい。
そこで、新たに開発した新田などを、「荘園」として、一部貴族が所有できるようにしました。
これが味噌で、特殊例外以外は、「土地私有」が認められていなかったんですね。
さて、東国、関東を中心に、徐々に技術が進み、新しい田畑が増えていきます。
これを新田開発した、開発農民たちは、地域でのいざこざを日々乗り越えるために、たくましく武装します。
そして、一族で新たに開発した土地に執着します。必要なら戦います。「一所懸命」。
これが、武士の誕生です。
ただし、この武士たちは、頑張って新田開発しても、制度上、土地を私有できなかったんですね。
自分たちの親分にお願いをする。
お願いされた親分は、京都の貴族たちのところに行って、召使のような奉公をする。それも、ノーギャラで。
そうやってぺこぺこして、ようやっと、自分たちの田畑の、管理権みたいなものを認めてもらう。
かろうじて、「管理権」な訳です。
ところが、もう実際に現地で武力を持って土地を守って、耕作して収穫まで、一切は土地の農民=つまり武士、が経営している訳です。
なんだけど、貴族に、つまりピンハネされる。
みかじめ料みたいなものです。
それも、相手は物凄く威張ってて。見下される。
これは、おかしいなあ、と。改革が、革命が必要なんぢゃないか。
不満が溜まっていたわけです。
(恐らく、平将門の乱なども、こういう現象の延長にあるのでしょう)
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大事なのは、この不満を取りまとめた英雄が、「朝廷=京都=貴族」というシステムと、決別することなんですね。
平清盛がそうですが、武士の大将が京都で実権を握っても、「貴族化」してしまったら、意味が無い。
「藤原」が「平氏」に代わるだけで、仕組みが変わらない。
仕組みを変えるためには、「朝廷=京都=貴族」というシステムを壊さないといけない。
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これを痛いほど自覚していたのが、源頼朝。北条政子。北条時政。北条義時。このあたりだった。
と、言うのが司馬さんの説です。
この人たちは、圧倒的に革命家な訳です。
何しろ、「日本史上、全く前例のない、世の中の仕組み」を作らなくてはなりません。
平氏を武力で滅亡させるんだけど、「朝廷=京都=貴族」に、どれだけ誘われても、そこに参加しない。
圧倒的な武力で実力を握っておいて、「各地の土地所有の割り振り権限」を朝廷から奪って。
「幕府」という新しい政治の仕組みを作る。それも中心地を近畿ではなくて関東、「鎌倉」に置く。
これは全て、ずっと「朝廷=京都=貴族」に虐げられ、理不尽に搾取されてきた、「東日本を中心とした開発農民団体=武士」たちにとって、ついに訪れた「自分たちの時代」だった訳です。
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というこの辺が、「地球に残った人類」「スペースコロニーの民」「コロニーの民の権利」「ニュータイプ」と言った、ガンダムの世界に良く似ていますね。
まあ、当然、過去の歴史的な葛藤から作られたフィクションな訳で、当たり前なんですが...
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頼朝なぞは、挙兵した瞬間は、信じられないことに、総勢20名くらいだった訳です。
それも、「やばい、このままではどのみち平家に殺されるから仕方なく挙兵」だったそうです。
それが、連戦して割と連敗するんだけど、どんどん豪族たち、武士たちが味方についてくる。膨れ上がる。
それは全て、頼朝に「朝廷に隷属しない、新しい仕組み」を期待していたからなんですね。
それを、頼朝は判っていた。
判っていなかったのは、義経だった。
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義経は、父を平氏に殺されて。(まあこれは当然、頼朝も同じなんですが)
幼かったから、色々苦労をして育ち。
ある時点で、復讐=平家の滅亡、だけを夢見て成人し。
あとは若いながらに戦争の現場に入ってしまったので、政治や土地所有の仕組みが判っていない。
単純に、平氏を滅ぼして、源氏が入れ替わりに京都を、朝廷を、我が物にすればそれで万々歳だと思っています。
なにより、兄・頼朝もそう思っている、と、思っている。
そして、平氏と、藤原氏と同じように、「血縁」であるがゆえに自分も尊重されるべきだ、と思っている。
これはこれ、京都的にはその頃の常識なわけです。
だけど、東国では、違いました。
まだ、長子相続すらちゃんと決まっていない。
兄弟でも武力で戦争が当たり前。
さらには、頼朝に求められているのは、「第二、第三の平氏や藤原氏になって、一族でウハウハになる」ことではなくて。
「東国の開発農民団の利益を誘導してくること」なんです。
東国の開発農民団=武士、からすれば、義経が弟だからって、重宝されて、領地とかばんばんもらったりしたら、噴飯ものなわけです。
このあたりの機微を、頼朝は痛いほどわかっていた。
そして、義経は笑えるほど、判っていなかった。
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ただ、問題は。
その義経が、「戦争の天才だった」ということなんですね。
その天才ぶりが、哀しい輝きという感じですね。
なんかもう、機動戦士ガンダムのアムロであり、鉄腕アトムであり。
つまり、強い、かっこいいんだけど、それが幸せに繋がらない。却って疎まれたりする理由になる...。
そういう、「哀しい不器用な、強すぎる戦士」というヒーロー像の、元祖なのではないでしょうか。
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とにかく、強い。
圧倒的に強い。
数年はかかる、かかっても無理かも、と思われた、「平家を滅亡させて、三種の神器を取り返す」という難行を、
またたく間に達成してしまう。作戦は常に電光石火。独断専行。天才の技。
そして、イッキに武士たちの間でその才は認められ、貴族平民の間ですらヒーローになってしまう...
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その有様を、描くのに、司馬遼太郎さんはうってつけですね。
鎌倉時代、という分析や、物語能力に加えて。
何と言っても司馬さんの個性は、なんだかんだ言って「元軍人」ということだと思います。
凄くゆがんだ形で、結局は「戦争行為」というもの事態に興味があって、ある種の愛着があって。造詣が深い。
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この「義経」が、小説として素晴らしいのは、
「鎌倉時代、という新しい、革命的な動きの中で。義経というのは貴種でありながら、野盗風情の仲間しか居ない、という、革新の動きの中でも、更に例外で異例な存在だった」
という、二重構造、入れ子構造が凄く、判りやすく面白く描かれます。
さらにもはや、善悪とかモラルではなく、
「新しい時代を判っている男」=頼朝
「判ってない男」=義経
という、ほぼ抱腹絶倒なすれ違いが、はっきりくっきり判ります。
もう、これは殺しあうしかないんですね...
(この延長線上に、頼家や実朝の悲劇があります。そのあたりは「街道をゆく 三浦半島記」が実にすばらしい。)
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という視点がありながら、平家物語の美味しいドラマチックな名場面がてんこ盛り。
これは、たまりません。
最後、義経の没落の始まりで筆をおいて、死の場面までは描かない。
そんな手法が実に、司馬さんらしい合理性。つまり、もう司馬さんの描きたいドラマは終わってます、ということなんでしょうね。(あるいは、司馬さんが、飽きたのか)
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実はこの「義経」上下巻。
多分、10歳の頃に生まれて初めて読んだ司馬遼太郎さん作品。
個人的には思い入れがあります。
それからもう30余年になりますが、多分どこかで一度は再読していたんだと思いますが、今回、初めて舐めるように魅力を味わえた気がします。
歳を取るのも愉しいものですね。 -
久しぶりの司馬遼太郎。知らん事をそれっぽく書くなと思ってしまった。なので歴史小説なのか。
義経には子供の頃から興味を持っていたので「へー。」と思いながら読めた。 -
この著者の文体に引き込まれる。義経と義仲の対峙直前までが描かれている。ようやく表舞台に現れた義経。小さな頃の記憶では僕の中でヒーローだった彼の生い立ちに同情し、頼朝を毛嫌いしていたが、この年になって読み返すと、頼朝の大局観と政治力、そして既得権に左右されない、武家社会の樹立を志した偉大な人物に映る。義経の死生観は復讐心に見えてしまう。
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下巻に感想。
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大河ドラマの平清盛を見終わった後だし、登場人物を頭に思い浮かべながら読めてよかった。鞍馬にいる時は辛かったんだな。
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んー、すげー面白い。なんか、司馬さんってこんなだったっけ?と思うくらい面白い。後編につづく!