- Amazon.co.jp ・本 (493ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167913304
作品紹介・あらすじ
「ええ声」を持つ「なにか」はいかにして「悪声」となったのか――ほとばしるイメージ、疾走する物語。著者入魂の長編小説。「なにか」は、ある重みをもって、廃寺のコケの上にそっと置かれた――京都のはずれの廃寺に捨てられたみどりごは、コケに守られながら生をつなぎ、やがて犬のブリーディングと桜の剪定を生業とする花崎さんに引き取られる。「なにか」の声は、居合わせた誰もがはっと振り返るような特別なものだった。長じて歌うことを覚えた「なにか」は、アムステルダムからやってきたサックス・プレイヤーの「タマ」と「あお」の父娘といっしょに、生駒の方舟教会でライブを行う。奔放な想像力が魅力の、現代を代表する物語作家いしいしんじ。そのいしいさんが、筋立ても分量も、あらかじめ何も決めずに想像の赴くままに書き進めた、少年の一代記。第4回河合隼雄物語賞受賞作。解説・養老孟司
感想・レビュー・書評
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京都の廃寺のコケの上に捨てられていた赤ん坊は、コケに守られ、やがて拾われてある夫婦の養子となる。コケの声を聞き、瞬間移動のようにコケのある寺に戻ってしまう不思議な子供。彼の名は「なにか」としか書かれず、他の人たちからは「オニ」「オニちゃん」と呼ばれ、養母亡きあとは桜と柴犬を育てる花咲のじっちゃんと、キヌばっちゃんに育てられる。人を惹きつける良い声で泣く赤ん坊だった彼は中学生になりその音楽の才能を女性教師に発見され美声の寵児として楽しい日々を過ごすが、教師の退職とともに居場所を見失う。中学生ながら飲んだくれ再び廃寺に入り浸るようになった彼を救ったのは、廃寺に居ついたホームレスのような「寺さん」。やがて寺さんの双子の兄弟で世界的サックスプレイヤーのタマとその娘「あお」がアムステルダムから来日し、なにかの運命は動き始める・・・。
いしいしんじの文庫でこの分厚さは『ポーの話』以来かしら。わりといつも薄めの印象なのでずっしり重くて驚いた。それはさておき、小説ゆえ文字でしか表現できないにも関わらず音楽の描写が素晴らしい。主要登場人物の大半は特殊な音楽の才能を持っており(技術的な話ではなく、もっと根源的なもの)その音楽によって、聴く人の人生そのもの、細胞レベルからの記憶の喚起、壮大なスケールの物語が展開される。語弊があるかもしれないが他に例を思いつかないので言うと、音楽の視覚化(映像喚起力)という意味ではディズニーの『ファンタジア』が感覚的に近いかもしれない。とにかく全編にわたって音楽がもたらすイメージの洪水のようだった。生駒山の方舟教会でのライブが最大の山場。
「なにか」が捨てられていた廃寺の名前は「ぶっしょうじ」=たぶん漢字で書くと仏声寺。美声のお坊さんが悪声になるまでの伝説(寺の縁起)がある。その伝説をなぞるように、良い声の「なにか」が、あおと出逢い、恋に落ち、あおを救うために悪声となる。恋人のために声を引き換えにする・・・って、何かに似ていると思ったら、そうだベタだけど「人魚姫」。何百年も生きている花売り女アヤという老婆はさしずめ「人魚姫」における魔女。あおを救うのと引き換えになにかから声を奪い悪声に変えてしまう。悪声となったなにかは、時間も空間も自在に超えて駆け巡り、球体(泡)は消滅する。
マジックリアリズムというか南米文学的というかフォークナー的というか(序盤では影の薄かった養父の話を終盤やや唐突に数十ページにわたって繰り広げるあたりフォークナーぽい)、なんだかすごいスケールの話と、個人の人生が複雑に絡み合ってなんともいえない余韻。読むだけでかなり消耗したので、書いた作者はもっと消耗したんじゃなかろうか。スピリチュアルとは全然違うのだけれど、何かそっち系の特殊な体験をさせられたような気持になる。壮絶な1冊だった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
これは、唯一無二の物語。
時間、空間を自在に行き来して語られる。
なかなかストーリーをまとめることが難しいタイプの物語ではある。
主人公の「なにか」は、仏声寺に捨てられた赤ん坊。
普通の人間のように十六歳まで育っていくのに、寺の庭のコケの声が聞こえ、音が目に見え、美しい歌声を持つ、普通の人間ではない存在だ。
彼は流れ者の僧侶「お寺さん」の唱える経の中で、無数の生き物の生死を体験する。
そして、奇縁で結ばれた少女「あお」(お寺さんのふたごの弟、タマの娘)を救うため、固有の姿・形を失い、仏声寺に封じられた「悪声」、音そのものとなっていく。
たぶん、十代の頃とか、いや、十年前に読んでいたとしたら、この本を受け入れられなかった気がする。
でも、最近、思う。
自分もあと数十年もすれば、この世から消える。
今の姿は仮のもので、いずれ元素に戻って世界に散らばっていくのだろう。
その中で、また、いずれ別の何かの形をひょっととることもあるのかもしれない。
歳をとっていくと、自分の中にたくさんの年齢の自分がいることにも気づく。
そんな風になっていくと、一見カオスのようなこの作品の世界も、なぜかすんなり受け入れられるのだ。
悪声となった「なにか」は、「かなし、かなし、かなし」と歌う。
命は生まれ落ちた時からすでに死を内包している。
どういう形であれ、この世界に置かれた状態で生きていかなければいけない。
そのような命のありかたが「かなし」と表現されるのだ。
仏教的ともいえる生命観だが、この作品では命は「歌」でもある。
そのためか、非常にイメージ豊かに、融通無碍の形をとるいのちの在り方を美しく描いている、と感じる。
読み返すなら、どのページから読み返してもいい。
自分の感覚が解き放たれるような気がする。
でも、この作品を知人が読むとしたら、何度中断しても、最後のページまで読むことを勧めたい。 -
初めて途中で読むのを諦めてしまった。。
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決してつまらなくはない。
けれども、壮大すぎて不思議で難しい。
一気に読み切るのはすごく疲れる。
少しずつでないと読み進められなかった。
この物語をいつか理解できる時が来るんだろうか?
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一つの命のもとには二人の両親がいて、その二人の両親にもそれぞれ二親がいて、それぞれの二親にもまた、それぞれ両親がいて・・・と遡っていくと、とてつもない人数になっていきます。それらの人々が、長い時間の中で繋がっていると思うと不思議です。
もっと時間をさかのぼって、この星に生命のもとが誕生したころまでさかのぼってみると、すべては繋がっていると思いたくもなりますネ。命だけではなく、この星の上で起こった出来事までも全部。そう考えると、不思議を通り越して神秘です。
この物語の中に描かれている〝声〟とは、宇宙誕生以来ずっとそこにある、宇宙の意思そのものなのかなぁという気がします。
でも、いま日々の暮らしを生きている人々、人だけじゃなく、いまを生きている動物も植物も無生物でさえみんな、そんなこととは関係なく、ただこの世に生まれたから生きている。ここに在るから、ただ在るのです。この世にまれたことに意味はあるのか?なんて問いかけは無意味です。いくら考えても答えは見つからないし、個人の問題ではないのですから。
いろいろ考えながら読んだので、読み終えるまでにずいぶん時間がかかりました。
べそかきアルルカンの詩的日常
http://blog.goo.ne.jp/b-arlequin/
べそかきアルルカンの“スケッチブックを小脇に抱え”
http://blog.goo.ne.jp/besokaki-a
べそかきアルルカンの“銀幕の向こうがわ”
http://booklog.jp/users/besokaki-arlequin2 -
【河合隼雄物語賞を受賞した、著者入魂の一代記】「ええ声」を持つ赤ん坊〈なにか〉はいかにして「悪声」となったのか。ほとばしるイメージ、疾走する物語。命の連なりを記した長篇。