- Amazon.co.jp ・本 (180ページ)
- / ISBN・EAN: 9784255006772
感想・レビュー・書評
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ちょっと、見城徹的な表現への情熱が
迸っている。
この哲学を知った上で、映画の作品を観てみたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
テレビの印象だと当たり外れのある人だけど、基本的に反体制的なロックな人。へそ曲がりといえばいいのかな。変わり者もここまでくれば天晴という感じで、話を聞いていると元気が出てくる。本という形にしているので、全体として本人が言いたいことがちゃんと伝わるようになっていると思う。自分に素直にやりたいことをやるってことはどういうことなのかわかると思う。
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・たとえば、シネフィル(映画通)の人たちが「いやあ、今日のゴダール映画の夕陽ってすごいよかったよね」と言って、目の前の夕陽は無視したりする。でも、大切なのは映画の中の夕陽ではなく、現実に輝いている夕陽のほうです。映画はそもそも自律的ではないし、それを定義する枠組みや自明のルールが定まっているわけでもない。だから僕は「映画的」や「映画史」といった言葉が好きではないのです。
・「夕陽が血のように赤い」という詩があったとします。では映像でどう「血のように赤い」ことを表現するか。あるいは「傷ついた心から血が流れる」といった比喩。それを血そのもので表現するのです。『自殺サークル』で女子高生たちが電車に轢かれたときに打ち上げ花火のように血が噴き出しますが、これも詩的な比喩として血を登場させています。ポエムなんです。今でも血糊の準備とそれを付けるのは自分でやっています。詩で使われる比喩の表現を文字通り、映像に叩きつけるのです。
・企画は営業の最中にも即興的に生まれていきました。MTVの副社長に会っても、正直1時間も話がもたない。当然「もっと企画はないのかね?」と訊かれるはめになり、これは企画があるふりをしなくちゃ!と焦って「実はとっておきの企画があります」と切り出す。「ふむ。じゃあそのストーリーを言ってくれたまえ」「ストーリーですか!?」と引き返せなくなって、でも何か”つかみ”がいると思って出てきた言葉は「ナンシーという名前の若い女の子が、小さな田舎町で、15人くらいいっぺんに死体で見つかります」「なるほど、それで?」「それで、ですね...」と、その場しのぎで脚本を作っていきました。
・ある種、不可能を可能にするような無謀な挑戦でした。それを可能にするのに必要なのは「この映画を傑作にする」などと思わない態度です。「これを撮ったら死んでもいい」なんて思ったら、荷が重すぎて精神的にもビジネス的にも必ず行き詰ってしまう。むしろ「とにかく進めば、その先のステップがある」くらいに考えたほうがいい。未来における作品の精度よりも、未来のために自分の今を大事にする。何事も常に「次」への足がかりでしかなく、永遠の過程なのです。
・もしかしたら、12テイク目か23テイク目に良い演技があったかもしれない。だけど、とことんテイクを重ねることによって、「どこまで行けるんだろう」という可能性を僕も見極めたいし、役者も「今までならこれくらいでOKだった」という限界を消去できる。過去の自分を一度ぶっ壊してしまうと、今までの映画監督の前ではやらなかった芝居をするようになります。そこで初めて「OK!」と叫ぶわけです。
・僕の現場ではまず、この場面ではどうしたいのか、役者に自由に動いてもらいます。それを見たうえで、僕が照明や撮影などのプランをその場でスピーディーに立てていく。役者に判断を預けると、与えられた自由の中でもがいて新しい芝居を見つけてくれることがあって面白いのです。
・紀子だけでなく、旦那の目を盗んで売春にハマる妻や、実の子に首吊り台を用意する親など、壊れた家族の特殊な主人公たちが数多く僕の作品に登場します。しかし、彼女・彼らは本当に「特殊」な人たちなのでしょうか?僕の実感は、特殊じゃない人はいない、というものです。
・「一つだけの花」の言わんとすることは、かけがえのない、その人固有の幸せを誰もが噛み締めることができるということで、その人固有の毒や不幸や呪いや、人の道に非ざる非道の考えなんかはその「花」には含まれていない。「一つだけの花」は特別ではあっても、特殊ではないのです。特殊な花はもはや個性として扱われず、異端として、平和や幸福のルールから外されてしまう。それが僕の小学校時代から延々と繰り返されてきた、踏み外しの道=非道の道でした。
・報道やドキュメンタリーでは取材する相手をカメラに収め、彼らの言葉を収めていきます。しかし、その言葉はすべて過去形で語られます。「あのとき、何が起きたか、どうだったか」-決して、現在進行形で「その刹那」が語られることはありません。
いま現在の体験を描くこと。これが、実話を基に僕がドラマを作る理由のひとつです。
ドキュメンタリーに絶対に不可能なのは、「その刹那を生きること」。ドキュメンタリーは、他者の声を聞き、その情報を他者のモノとして認識し、人に理解させることはできても、それを受け取る人自身の経験にすることはできないのです。
・社会学者・宮台真司さんの言葉を借りて震災以前の日本を「終わりなき日常」と表現するとすれば、震災以降そのような「日常」は終わり、僕らは「終わりなき非日常」に突入したのだと、そのとき思いました(実際は、その後さらにとって代わる新しい「終わりなき日常」が始まったのですが)。
・大事な人を亡くし、直接に大きな被害を受けた人たちは、その現実を忘れたくても忘れようがないと思います。かつて家があった場所は更地になり、やがて国が買い取ってセメントが入り、永遠に住めない土地になるかもしれない。自分が住んでいた愛する土地を記録に残しておきたいし、人々の記憶に留めてもらいたい。被災された方がそう思うのは自然ではないでしょうか。
「思い出すからやめてくれ」というのは、被災の映像を見なければ思い出さないということでもある。被災地ではなく、たとえば東京で報道を見て、そう言う人もいる。
しかし本当の被災者は、自分は被災者だと声高に叫ぶ人ではないのではないか。僕はそう思いました。10年後、20年後と歳月が経った後に『ヒミズ』を見た人が「やっぱり、あのとき撮ってくれてよかった」と言ってくれることを願っています。
・震災以降の日本を人間の体になぞらえれば、「五体不満足」です。特に健康に問題がない時代には、僕らは絶望に浸ることも可能でした。しかし、津波で多くの人が亡くなり、原発が爆発して放射能の雨が降り、多くの人が愛する土地を追われ、政府はもはや信用できず政治も機能しない、原発再稼働や瓦礫処理をめぐって国民に分断が生じている。そんなときに、のんびりと倦怠や憂鬱に浸っているわけにはいかないはずです。日本がこれから色んな意味で衰退を迎えるときに、自分だけ免れているなんてことはあり得ないのではないか。他人に「頑張れ」と言っている場合ではなく、自分で自分を励まさないと生きていけない時代になったのではないか。
・『希望の国』とは言いながらも、僕は「これが希望だ」と提示するつもりはありません。この映画に描かれたものを希望だと思えるならそう捉えてもらってもいいし、希望じゃないと思うのであればそれでいい。こちらから一方的に何かを「希望」だというのは強引です。僕は映画が「答え」を出してはダメだと思っています。映画は巨大な質問状です。「こうですよ」という回答を与えるものではないと思うのです。
・映画に込めるべきは「情報」ではなく「情緒」です。整理整頓された言葉を仕入れたいだけなら、本を読めばいいし報道を見ればいい。セリフのボキャブラリーにしろ、シーンの持つ意味にしろ、映画の中の言葉は市井の人々の肉声でいいのです。
震災直後に被災の当事者が何度も思ったのは「寒い」だったろうし、その最中は寒すぎて「この寒さの原因は東電のせいだ、けしからん」なんて論理的なことを考えている暇はなかったと思うのです。出来事の追想ではなく、出来事の真っただ中にいるときの気持ちや情感を、貧弱な言葉でもいいからそれで綴ること、それがドラマ映画にあるべきスタンスだと思います。映画は「事実の記録」ではなく「情緒の記憶」なのです。
・前の項目で述べたことですが、僕は物語の中盤くらいまでは取材を基に積み上げていきます。そして、目標とする地点が見えてきたときに、想像力を使います。『希望の国』の場合、自殺した人の声が聞こえてくるときが、そ想像力を使うときです。それはすでに、想像力という言葉を使うことすら必要ないくらいの必然の帰結ですーまるで、砂鉄が磁石にくっつくのと同じように。
・大谷直子さんが演じる智恵子の口癖は、家にいながらにして「家へ帰ろう」というものです。実はこれは、認知症を少し患っている僕の母親の口癖でもあります。夕方になると母があまりに「帰ろうよ」と言うので、僕は一度、彼女を車に乗せ、実家のあった所から小学校、中学校など、彼女と関わりのある場所を回って「ここ?」と尋ねていったことがあります。それでも「ここじゃない」と言うので、「帰る先」は家でもなければ、この現実の世界のどこかでもないのだと気づきました。帰るべきは時間、それも過去の時間だったのです。夕暮れになると母はなぜか、記憶の中の世界へと帰りたがっているようでした。
・時代にはっきりとした色があれば、それに対して目立つ色を塗り重ねて尖っていくこともできる。しかし、地色がはっきりしないときに、それを土台にして作品を作ってもあやふやな色合いのものしか出てこないと思います。この問題に対する僕の戦略は、はっきり言ってありません。戦略を立てる対象が曖昧模糊としているときには、もう四方八方にハリネズミのごとく尖るしかない。リサーチやマーケティング、とにかくそうした類のものから作品を発想しないこと。それが自分の「戦略」といえば戦略なのかもしれません。
・「非道」と言いますが、本来、人間は生まれながらにたった一人で、自分の道を切り拓くために生まれたわけです。そもそもが、道なき道を行く宿命なんです。他の人とおなっじ考えをするために生きるのなら、生まれなくてもよかったとさえ思います。少しでも面白くないと自分が思うことは一切やらない。それを他人が「非道」と呼ぼうが、知ったこっちゃない。
・とにかく自分を疑わないこと。面白いと思ったことを断念しない。自分を信用しない自分なんて、哀しすぎる。『自殺サークル』という映画で「あなたはあなたの関係者ですか?」という謎のメッセージを描きましたが、まさにそれです。自分が自分のより良き理解者であること。でないと、自分は自分と無関係になっていきます。 -
映画じゃない、その反骨精神のようなものが魅力。
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園子温監督の映画、好きです。
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矢沢永吉・「成り上がり」以来の興奮。彼の創造の原点や、311以降の作品への取り組み方の変化など非常に興味深くて、共感する。特に、はちゃめちゃな宣伝手法にはかんどうすら覚える。
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そうだったのか...。
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私は人に嫌われるのを恐れてしまうほうだ。
むしろ嫌われる道を行く園子温さんは、なんというかキラキラはしてないけど光ってると思う。
そういう道、いわば「非道」をわざわざ通って行くのは、「他人はどうでもいいから」ではないし他人を敵視しているのとも違っていて、「信念があるから」というほどかっこいいものでもなくて、きっと「自分を信じているから」であり、嫌われる云々なんて全然大事じゃないって知ってるからだと思った。
「自分」がこんなにも頼りになる、自分の支えになってくれる存在だなんて知らなかった。
自分に信じてもらえさえすれば、結構強く生きていけるのかもしれなかった。
私は今、安定していると思われる道と、不安定だし怖いけどもしかしたら良いところに続いているかもしれない道とでとても迷っているので、園さんの言葉がぐさぐさ突き刺さり、勇気をもらった。
このタイミングでこの本を読んだのすごいな、と思ったけどそうではなくて、非道の道を進む勇気が欲しくてこの本を自分で手に取ったのかもしれない。
どちらの道を選ぶかはまだ分からないし、別に園さんに憧れるわけでもなし。
だけど園さんの全く美しくない非道人生を知れて、素直に受けとれたことをなぜか誇らしく思うし、苦しいことが山盛りであろう中でも彼がとても楽しそうなことがなんだかとても嬉しかった。
非道は、人間らしい道だ。
自分がどんな道を歩いてるのかなんて、別に考えなくてもいいんだと思ったら、少し泣きそう。
(余談)
この本のデザインとても好き!本文の紙までピンクなのが、園子温の奇妙な魅力をまっすぐ表してくれてて気持ちいい。 -
メジャーに立つまでの闘い方が凄くて、小学生時代からのエピソードはエンターテイメントに溢れている。満足度10