言葉の外へ (河出文庫 ほ 3-2)

著者 :
  • 河出書房新社
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本棚登録 : 183
感想 : 12
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  • Amazon.co.jp ・本 (248ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309411897

感想・レビュー・書評

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  • 中盤ちょっと手強かったけど、言葉についてや書くことについて、ていねいに考えることができた。

  • あくまでぼくの私見になるが、保坂和志という人は批評家であり優れた読者でもある。でも、それ以上に彼は小説家として武術を極めるように日々、小説と取り組んでいるのだなとこの本から思う。彼の語る小説論はどこか神秘的というか、「小説を書かない人」には「ナンノコッチャ」ともなりうる密教的な響きがある。別の言い方をすれば、保坂の書くものに浮かされて小説論を「頭で」語ることは危険だ。彼にならって「ゆるゆると」でもあれ書くことで、筆がはらむ運動に身を任せる営為が必要となるだろう。そして、肉付けされるかたちで哲学が活き始める

  • 【読もうと思った理由】
    ブックガイドにこの本が載っていて、「読書とは第一に"読んでいる精神の駆動そのもの"のことであって情報の蓄積や検索ではない。」という一文が引用されているのを読み、この一文に魅了されたため。

    【読んで思ったこと、自分が認識したこと】
    自分的にはするすると読める本ではなかった。合っているのかは別として、なんとなく著者が言っていることのイメージをエッセイによっては、つかめたような気がする、、、と自分では一方的に思っている。笑
    短編のエッセイがいくつも収録されているので、理解が出来なかったとしてもすぐに何度も読めるため、心が折れずに読めた。
    精神の駆動が起きていたと思いたい。笑

  • 下記を読んで、積読しているカフカ『城』が読みたくなりました。

    カフカは書いている自分と一緒になって書くように読むこと、書くように読むことはなんとスリリングで楽しいことか!ということはまずは知らせてくれる。

    カフカは自作を「作品」とか「小説」でなく「ドキュメント」と、たしか呼び、書くことは「書く」でなく「引っ掻く」、引っ掻き傷の引っ掻く、スクラッチといった。
    つまりカフカは書いたというより、言葉を鳴らしたり、言葉で鼓動したりした。書いたものは、形跡とか痕跡だった。ダンサーの動きの残像にちかい。

  • 97年から02年くらいまでの間に様々な媒体に描かれた評論・エッセイを編んだ1冊。2012年に文庫化。まずは表1のデザインがいいなあと思う。

    P30 「カフカ的」と形容される小説は多いけれど、最近私が一番「カフカ的」と感じたのは、カズオ・イシグロの『充たされざる者』の上巻部分だった。どう読んでいいのか、この小説世界にどう親しんだらいいのか、わからなくて、ずうっと不安定な気持ちのまま読まざるをえなかった。ところが、この小説は長すぎるために、下巻に入って読む呼吸がわかってしまって、その途端につまらなくなった。あれがもし六割か七割くらいの長さで終わっていたら、本当に凄い小説だったのに……と思う。
     そのイシグロが『充たされざる者』の不評に懲りて(?)、再び構成をきっちりさせて書いたのが、新作『わたしたちが孤児だったころ』だ。好評で映画にもなるらしいが、私は計算が見えすぎて好きではない。『充たされざる者』を出版したときに、「一番書きたかった小説」と言っていたくせに、どうしてまた妥協してしまうのだろう。『日の名残り』等が世界中で翻訳されて、もうおカネの心配はないだろうに、まだそんなに褒められたいのだろうか。ちなみに私はデビュー作の『遠い山なみの光』が一番好きだ。(「産経新聞」2001年6月10日)
    →ちょうど少し前に『充たされざる者』を読み終えて、「カフカっぽい小説だなあ」なんて思っていたので、この文章に触れて嬉しくなった。

    P68 「『羽生』を書いているあいだ僕は羽生より羽生だった」なんて言うと、ウソばっかりと思うだろうけれど、「○○さんのことばかり考えていたから、○○さんより○○さんになってしまった」ということは本当にある。→保坂さんの小説にすっかりハマってしまった、ストーカーっぽい女性の話。 P69「ごめんなさい。私はいままで誤解していました。『よう子ちゃん』だけが私なのではなくて、保坂さんの書いた小説全体が私だったのですね」

    P115 …というわけで読書とは第一に〝読んでいる精神の駆動そのもの〟のことであって情報の蓄積や検索ではない。ということをたまに素晴らしい本を読むと思い出させられる。

    P219 『プレーンソング』ではじめてやってみた、テンションの低い、だらだらした書き方は普段の私のしゃべり方とまあほとんど同じだったので、書いていて意外なほど楽しかった。だらだら、ゆるゆる書いていると、知っている顔が〝文学〟の顔じゃなくて、普段の知っている顔のままで小説に入ってきたり出ていったりしはじめた。〝文学〟の顔じゃなくて、普段の知っている顔のままで、それで小説になるなんて素晴らしいことだ。もちろん彼らは不幸でもなければ悲壮でもない。深刻さのかけらもない。世界とはいつでもどこでもそのようなものであってほしいものだ。不幸じゃなければ小説にならないなんて、みっともない。おかしい。くだらない。

    P236 小説家は自分に先行する偉大な小説から力をもらっているんです。これはもう絶対間違いない事実で、そういう心性を持っていない小説家は一人もいないはずです。その偉大な小説を、小説家は職業作家として読むんじゃなくて、つまり、「ここを使ってやろう」とか「今度の小説で自分もこういう風に書こう」なんて自分のレベルに落とし込んで計算しながら読んでいるわけじゃなくて、小説家になることを夢見たきっかけを与えてくれた小説に出会ったときのように読んでいるんです。

  • 「言葉」はなぜこんなにも自由で、そして不自由なのだろうか?

    小説の、それ自体の存在の意味から考えるという感覚は今まで盛ったことがなかったが、作者は自分の小説を通じてその存在を問い続けているようだ。複雑な世界を複雑なまま受け入れて描写する、という作業が小説の大切な要素なのかもしれない。物事を要約して、効率よく進める、というやりかたとは対極にあるのが小説というものなのだろう。

    小説を読む、という時間を読者は実は作者と共有し、考える。結果を受けとるためのものではなく、その考える時間の中にこそ読書の意味がある。

    願わくばその小説を読み終わった自分は、読む前とはなにかが変わった自分でありたいと思う。

  • 基本的にはかなり考えさせられる内容で、保坂さんの思考で自分も考えさせられざるを得ない状況になる、しかもそれがけっこう続くから、必然、思考のほうも影響を受けないわけにはいかなかった。
    これもいつかまた再読しないとと思う。

  • 読みやすい文章なので、一気に読んでしまうけれど、この本はそういう読み方をするとハッと気づいた時には何が書いていたかわからなくなる。
    行ったり来たり、じっくり考えながら読むことで、著者と時間を共有するような贅沢な体験がある。
    それでもやっぱりわからないことも多いけれど。

  • 読んでいて勇気が湧く、という体験を久々にした。
    本書で書かれていることは、著者が子供の頃に感じた疑問に発しているというのもうなずける。
    自分も同じような疑問を抱き続けてきた。例えば、アリの世界にも、人間にとってのアリのようなものはいるのか、とか。いるとすればそれはどんなものか。
    世間で口にすればばかばかしいと一蹴されてしまうような問いばかりだ。自分もそのような環境にいる。だからいっそうそういった問いの価値を噛み締めることができる。
    そういった問いを気軽に口にできる世界がまだ、この社会にも存在しているんだ。そう思えることが、何よりも勇気の源。

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著者プロフィール

1956年、山梨県に生まれる。小説家。早稲田大学政経学部卒業。1990年『プレーンソング』でデビュー。1993年『草の上の朝食』で野間文芸新人賞、1995年『この人の閾(いき)』で芥川賞、1997年『季節の記憶』で平林たい子文学賞、谷崎潤一郎賞、2018年『ハレルヤ』所収の「こことよそ」で川端康成文学賞を受賞。主な著書に、『生きる歓び』『カンバセイション・ピース』『書きあぐねている人のための小説入門』『小説の自由』『小説の誕生』ほか。

「2022年 『DEATHか裸(ら)』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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