- Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309462295
作品紹介・あらすじ
現代イタリア文学を代表し、今も世界的に注目され続けるカルヴィーノの名作。ヴェネツィア生まれの商人の子マルコ・ポーロがフビライ汗の寵臣となって、さまざまな空想都市の奇妙で不思議な報告を行なう。七十の丸屋根が輝くおとぎ話の世界そのままの都や、オアシスの都市、現代の巨大都市を思わせる連続都市、無形都市など、どこにもない国を描く幻想小説。
感想・レビュー・書評
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マルコ・ポーロがフビライ汗に旅してきた各地の街を語るだけなのだが、その語られる街の数々がとても奇妙。
おとぎ話のような空想都市の強烈なイメージの数々を聞いているだけでも面白い。
抽象的なものも多いのだが、語りの美しさもあって、あっという間に読んでしまった。
そして差し込まれるマルコ・ポーロとフビライ汗のやり取りも不思議なおかしみがあった。
イタロ・カルヴィーノ作品では『冬の夜ひとりの旅人が』の次くらいに面白かった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
イタリアの作家カルヴィーノの見えない都市。
1番のお気に入りに推してる人がいて読もうとして過去挫折。やっと読了。都市と記憶,都市と欲望。なんらかの都市についての短編がたくさん。マルコポーロがフビライに語る形で進んでいく。 -
初カルヴィーノ。カバーは単行本のほうが素敵。
マルコ・ポーロがフビライ汗に奏する諸都市の物語。征服を繰り返し版図を広げていく帝国を誇る一方、すでにその栄光も崩壊の過程にあることを察し絶望する皇帝の慰めがマルコ・ポーロの報告にある諸都市の様相なのだと、冒頭すでにアンビヴァレントな感慨が物語全体を立体化していく趣がある。あるいは過去・現在・未来を重ね合わせ一点に収束させる眼差しだろうか。
都市をそういくつも過ぎゆかないほどに、フビライ汗自身、マルコ・ポーロの報告はいずれも似たり寄ったりで交換可能と気づいてしまうところから、このお話が(もちろん)単に都市の描写を主眼とした幻想譚ではないのだとわかる。ではどこへ向かうのか。気にするともなく語りに身を任せてゆくほどに、都市の幻想性、事物と語る言葉との乖離、物語るという行為そのものが俎上に上がってくるのに驚かされた。両者の丁々発止のやりとりを交え、さらにいくつもの語りを鏤めてそれをやるあたり、飄々と知的で刺激的。いったい何を考えてこれを書いたんだろう。詩のようでもあり現代劇のようでもある。
忘れて思い出した時に繰り返し読んで、さらに面白くなる本かもしれない。 -
訳者も詩人ですね
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3.67/885
『現代イタリア文学を代表し世界的に注目され続けている著者の名作。マルコ・ポーロがフビライ汗の寵臣となって、様々な空想都市(巨大都市、無形都市など)の奇妙で不思議な報告を描く幻想小説の極致。』(「河出書房新社」サイトより▽)
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309462295/
冒頭
『マルコ・ポーロが派遣使として訪れた諸都市の様子を述べるとき、彼の語ることすべてをフビライ汗が信じているというわけでないにせよ、確かに韃靼人たちの皇帝は他のどんな使者や探検家たちの言葉にもましてこのヴェネツィア人の若者の言うことに一層の好奇心と注意をはらって聴き入っているのだ。』
原書名:『Le città invisibili』(英語版:『Invisible Cities』)
著者:イタロ・カルヴィーノ (Italo Calvino)
訳者:米川 良夫
出版社 : 河出書房新社
文庫 : 240ページ
メモ:
・死ぬまでに読むべき小説1000冊(The Guardian)「Guardian's 1000 novels everyone must read」 -
p69湖水の鏡の上にあるヴァルドラーダ「おのれの一挙手一投足が、ただ単にそのような行為であるばかりか同時にその映像ともなること、しかもそれには肖像画のもつあの特殊な威厳が与えられていることをよく心得ており、こうした自覚のために彼らは片時たりとも偶然や不注意に身をまかせることを妨げられておるのでございます。」
p21しるしの都市タマラ「人はタマラの都を訪れ見物しているものと信じているものの、その実われわれはただこの都市がそれによってみずからとそのあらゆる部分を定義している無数の名前を記録するばかりなのでございます。」
p113「思い出のなかの姿というものは、一たび言葉によって定着されるや、消えてなくなるものでございます」「恐らく、ヴェネツィアを、もしもお話し申し上げますならば、一遍に失うことになるのを私は恐れているのでございましょう。それとも、他の都市のことを申し上げながら、私はすでに少しずつ、故国の都市を失っているのかもしれません。」
p118「もしも二つの柱廊のうち一方がいつもいっそう心楽しく思われるとするならば、それはただ三十年前に刺繍もみごとな袍衣の袖をひるがえして少女がそこを通ったその柱廊に他ならないからでございますし、あるいはある時刻になると日射しを浴びるその様が、もはやどこであったかは思い出せないあの柱廊に似ているというだけのことなのでございます。」
p167「世界はただ一つのトルーデで覆いつくされているのであって、これは始めもなければ終りもない、ただ飛行場で名前を変えるだけの都市なのです。」
どこにでもあり、しかしどこにもなく、そしてそれは既に見た記憶かもしれないしこれから見る予感のものかもしれない。蜃気楼のように何もないのに、読んでて脳裏にシルクロードの、異国のイメージが浮かび消える。幻想文学。言葉と概念を弄んでいるだけかもしれないけど、端端の単語に幻想と脳のどこかに情感を呼び起こさせるひらめきがある。構成や意図などを、計算的に読み取るほどじっくりは読まなかった。 -
カルヴィーノ作の中でも、『くもの巣の小道』や『まっぷたつの子爵』といった初期の作品がわりと好きだが、ときどき無性に読みたくなるのは、その後の作品となる本作、そして軌を一にする『宿命の交わる城』。
カルヴィーノの作品は優しい。決して声高に自己主張することはない。その代わりどこかしらに寓話のようなものが挟み込まれている。いやいや全体が寓話かもしれない。物語や寓話の純度が高すぎて一見するとよくわからないが、運よくみつけたとしても、そう思っているのは果たして私だけかもしれない。それでもまったく構わない、そんな勘違いさえ愉しめる美しい幻想譚。
元王朝フビライ・カンの寵臣になったヴェネチア商人のマルコ・ポーロ。世界中の都市をカンに紹介していくその語り口は、まるで彷徨するオディッセウスの哀愁奏でる吟遊詩人のよう。行間から音楽まで流れてきそうな雰囲気に満たされて、カンとマルコの淡く繊細な交流は白眉だ。内へうちへゆっくり沈んでいくような清閑にうっとりしてしまい、もはや長編の散文詩といってもいい。
「確かなことは、清掃人夫は天使のように歓迎されているいうことでございまして、昨日の生活の残りを運び去るという彼らの務めは、あたかも敬虔の念をかきたてる儀式のように、無言の敬意に取り囲まれておりますが、あるいはそれもただ、一旦ごみを捨ててしまえば、そのあとはもうだれ一人そんなことを思い出したくもないというだけのせいなのかもしれません」
マルコが描いてみせるどの都市も、一つとして同じものはない。猥雑なのに繊細で、破天荒なのに柔弱、暗澹とした地下都市かと思えば、地に足のつかない中空都市、ひどくさびれて朽ちていく都市、かたやアメーバのように増殖して溢れていく……それらはどこかにあるように示唆的で、どこにもない都市。どれもがセピア色に染むような悲哀にみちている。
それらは都市という名の人間(存在)なのかもしれない。そうであれば、都市という名の人間(存在)に、どれ一つとして同じ物語はない。それぞれの人生や生きざまに、一つとして同じものがないように。ユニークで、矛盾だらけで、唯一無二、そこにはいずれにも替えがたい真実と哀切が秘められている。
「好きなように読んで、遊べばいい」そんなふうに「マルコヴァルドさん」は、いやいや作者はつぶやきながら、いつのまにか物語の森の奥へと姿を消していくようだ。きっとまた静寂なこの森に遊びにこよう……そんなに遠い話ではない。
『……実現されなかった未来は単なる過去の枝だ、枯れ枝だ。
「お前は過去をふたたび生きるために旅しておるのか?」
というのがこのとき発せられるカンの問いであるが、それはまたこんなふうに言ってもよかった
――「お前は未来を再発見するために旅しておるのか?」と。
そしてマルコの答えは
――「他処(よそ)なる場所は陰画にして写しだす鏡でございます。旅人は自己のものとなし得なかった、また今後もなし得ることのない多くのものを発見することによって、おのれの所有するわずかなものを知るのでございます」(2020/5/16) -
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