- Amazon.co.jp ・本 (307ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309462851
作品紹介・あらすじ
ルイス・キャロルからストア派へ、パラドックスの考察にはじまり、意味と無意味、表面と深層、アイオーンとクロノス、そして「出来事」とはなにかを問うかつてなかった哲学。『差異と反復』から『アンチ・オイディプス』への飛躍を画し、核心的主題にあふれたドゥルーズの代表作を、気鋭の哲学者が新訳。
感想・レビュー・書評
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[ 内容 ]
<上>
ルイス・キャロルからストア派へ、パラドックスの考察にはじまり、意味と無意味、表面と深層、アイオーンとクロノス、そして「出来事」とはなにかを問うかつてなかった哲学。
『差異と反復』から『アンチ・オイディプス』への飛躍を画し、核心的主題にあふれたドゥルーズの代表作を、気鋭の哲学者が新訳。
<下>
ドゥルーズの思考の核心をしめす名著、渇望の新訳。
下巻では永遠回帰は純粋な出来事の理論であり、すべての存在はただひとつの声であるという「一義性」論から言葉、性、幻影、セリーへと、アリスとアルトーと伴走する思考の冒険は驚くべき展開を見せる。
ルクレティウス論、トゥルニエ論などの重要テクストも収録。
[ 目次 ]
<上>
純粋生成のパラドックス
表面効果のパラドックス
命題
二元性
意味
セリー化
秘教的な語
構造
問題性
理念的なゲーム
無-意味
パラドックス
分裂病者と少女
二重の原因性
特異性
存在論的な静的発生
論理学的な静的発生
哲学者の三つのイマージュ
ユーモア
ストア派のモラル問題
出来事
磁器と火山
アイオーン
出来事の交流
<下>
一義性
言葉
口唇性
性
善意は当然にも罰せられる
幻影
思考
セリーの種類
アリスの冒険
第一次秩序と第二次組織
付録(シミュラクルと古代哲学;幻影と現代文学)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
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貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784309462851 -
ルイスキャロルの小説に描かれたパラドックスや言葉遊びから、言葉や事物の次元に収まりきらない別の次元として「表面」を描き出す小説的哲学書。
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第14セリー
死は、私や私の身体と極限的ないし確定的な関係にあるもの、私の内で設立されるものであり、同時に、私と無関係であるもの、非身体的で不定で非人称的なもの、それだけで設立されるものである。
―「出来事としての死の二つの面」 p265 G・ドゥルーズ
『意味の論理学』は、二つのパラドックスを提示している。それは「意味作用」に関わる言語のパラドックス(静的発生のパラドックス)と、「意味」に関わる身体のパラドックス(動的発生のパラドックス)である。前者は、感性的な秩序としての対象性の領域から時間的な出来事性への移行を強いるものである。後者は、深層の身体が備える質料性の齟齬そのものを露呈させる。・・・
考えられるべきことは、言葉自身はつねに同一性を軸にした「表象」の次元において、つまり指示や意図や概念(これらのドクサ的な同一性)と結びつけられてしか提示されないのに、しかしその「意味」を問うならば、出来事という別の水準に移行せざるをえないことにある。(『瞬間と永遠』p163〜) -
再読。ジョー・ブスケに関する二章を中心に。
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もうすぐ下巻を読み終えるが、読了を待ちきれず、哲学初修者としての素直な感想をここに書いてみたくなった。
「…したがって、今日、意味は決して原理や起源ではなく生産物であるという善き知らせが鳴り響くのは愉快である。意味は、発見されるべきものではないし、復元されるべきものでも再-雇用されるべきものでもない。意味は、新しい機械設備によって生産されるべきものである」(本書上巻第11セリー「無-意味」p136)
ドゥルーズはフロイトの正当な後継者である、と思う。ほんとうにそう思う。上巻は『不思議の国のアリス』についての文学的および言語論的分析によって、指示、表出、意義のいずれの次元にも属さない第四の次元として「意味」の地平が仮定されるが、はて、それがなぜ、下巻では、性や「パパ-ママ-わたし」のオイディプスや無意識の話へと大転換を遂げたのだろうか、一体いつ話の脈が狂っていったのだったっけ……(「尿道のテーマを肛門のテーマと同じ平面に置くことはできないと思われる」…「失望の経験、自己に退去し本質的に失われた善き対象についての経験は、抑鬱態勢に属する」…「言葉の形成の第一段階を保証するのは、抑鬱態勢の高所の善き対象である」…)。
でもでもでも、読了間際にいまになってだからわかる、ドゥルーズはこの書において、「客観的な意味」を、その内側から食い破り、もはや主観的な意味でもない、”意味-生成”のまさにその瞬間を、言い換えるなら、物体や身体(=唯物論)から、意味や言葉(=唯名論)、そして理念や神(=超越論)が立ち現れ、生成されるまさにその瞬間を、彼は取り押さえようとしているのだ。そして、単純な物質としての身体からは〈欲望〉が放出され、性的リビドー、脱性的リビドーを経て、意味が生産される。
ここでドゥルーズは、脳について真っ正面から思考した、はじめての哲学者ではないだろうか。脳は、身体と、意味とを分かつ、境界であり、表面である。アリスの冒険はこの表面を滑走し純粋な意味、いまだ人間の認識や権力に捕われて歪曲されていない”純粋な出来事”としての冒険であった。
この純粋な意味の地平において、矛盾は、もはや片方に正当性が付与されもう片方が吸収されることでも、弁証法によって両者が統合されることでもない。この出来事が発生する表面において、矛盾は矛盾のまま、むしろその二つの項の”差異”そのものを、そのそのものにおいて、前-対立的な差異そのものにおいて調和している(離接的総合)。
「意味の論理学」というテーマが設定されているにもかかわらず、そこで論じられているのはアリスの冒険であり、無意識とその探索手法である精神分析であり、乳房(善き対象=高所=命題)と糞便(悪しき対象=深層=身体)に口と肛門を貫かれ宙づりにされたあの子どもである。そして「すべての意味は性的でもある」。この、哲学の初心者でも驚く素朴な意外性と、何より面白みの妙こそ、哲学史におけるドゥルーズ哲学の革新性を表す証拠が、ほかにあろうか?
彼のこのテクストは1969年に書かれた。その後ドゥルーズは、精神分析学者ガタリとともに「無意識の欲望」を謳うことになるだろう。彼が哲学史に与えた深刻な影響はすでにこのテクスト、195,60年代での彼の諸哲学者のモノグラフィー研究(スピノザ、ニーチェ、ベルクソン…)に裏打ちされた、この『意味の論理学』において準備されていたことは明らかである。したがって、この書物はその表題から一見われわれが連想するような言語学の教科書ではなく、むしろ文学と精神分析学、アリスと表面(トランプの兵士)、糞と乳房、躁鬱病と精神分裂病、そして、何よりも、脳とフロイトについて書かれた教科書にほかならない。
したがってこの書物は、フロイトが哲学の形而上学をその根底から脅かした仕事を、正当に引き継ぐものである。
「哲学は存在論と混じり合う。ただし、存在論は存在の一義性と混じり合う(類比は、いつでも、神・世界・私という諸形態に適用された神学的な見方であって、哲学的な見方ではなかった)。存在の一義性とは、唯一の同じ存在があるということではない。反対に、存在者は、つねに分離の総合によって生産されるから多様で異なっており、存在者自身が、分離し発散していて、解体された体である」(本書下巻第25セリー「一義性」p13)
ほんらいじぶんは、こうした書評において、満点をつけることなどありえなかった。天才的な書物のみが☆五つに相応しいからで、すなわちドゥルーズは、わたしたちと同じ時代に属するわたしたちの天才であった。
(以上、政策科学部SNSのMyレビューよりぃ〜)