- Amazon.co.jp ・本 (421ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309464275
感想・レビュー・書評
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ミステリ作家だと大好きなのはチャンドラーくらいしかいなかったんだけど、ハイスミスは『キャロル』に続き読了二作目の本作で完全に好きになってしまった。
主人公のリプリー、やってることも考えてることもは最低ゲス野郎のはずなのに心理描写の丁寧さとヨーロッパの様々な国の風景の美しさもあって(他にも理由はたくさんあるだろうが)なんでか読んでいて上品で質のいいツイード生地を眺めているような、落ち着いた気分になる不思議な作品だった。この、文章の端正さがハイスミスの魅力の一つなんだろうな。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ちょっと、三島由紀夫さんのような。
水面下に脈々と流れる、異常で変態な、ぞくぞくぬめっとする不安感というか。足下の地面がぐにゃっと軟化しそうな味わい。この本には、それが上手くマッチしていていました。
若くて才能があるのに、努力してもどうにもならない境遇の自分と。
なにもしなくても親の巨額な財産で、優雅に文化的に恋愛と芸術を謳歌する友人と。
物凄い格差を挟んだふたりの若者の、うたかたの交流と愛憎。
「格差の葛藤」という、まさに今現在の世の中の仕組みの脆さを突きつけて、突き刺し貫くようなキケンな小説でした。
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嫉妬。軽蔑。
絶望。羨望。
屈辱。怒り。
そんな主人公の心の襞を、舐めるようにねっとりと眺めていく、殺人の記録。
財産、金のために、友人を殺すんです。何が起こったか、だけで言うと。
でも、きっと違うんですね。
プライドのため。人生のため。
これは、リプリーの戦争なんですね。
戦争に善悪があるのか?
超・一級品の、犯罪小説。悪人小説。でした。
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「太陽がいっぱい」。1955年出版、アメリカ。
女流作家パトリシア・ハイスミスさん、34歳くらいの作品。
1992年河出書房、佐宗鈴夫さん訳。
佐宗さんは、僕の知っている範囲では「メグレ・シリーズ」も翻訳してます。
20年来の「メグレ・シリーズ」ファンなので、メグレを訳してる人、というだけで無駄に親近感(笑)。
まあつまり、佐宗さんと言う方は、仏語も英語も翻訳できる、ということですね。
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1960年のフランス映画「太陽がいっぱい」の原作です。
多くの人と同じく、僕もまず映画を知っていて「ああ、あの映画の原作か」という興味。
更に映画ファンとしては、ヴェンダース監督の傑作(というべきか、デニス・ホッパー出演の傑作、と呼ぶべきか)「アメリカの友人」(1977)の原作も、同じパトリシア・ハイスミスさんで、どうやら原作小説世界では「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンの後年の姿が「アメリカの友人」のデニス・ホッパーである!、という驚愕の事実から原作への興味を持った、というのが実情です。(更に言うと、「原作に興味を持った」というのがそもそも20年くらい前のことだったんですが...)
映画のことは置いておいて。
小説「太陽がいっぱい」の備忘録、概略。
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舞台はニューヨークから。時代は恐らく同時代、つまり1950年代でしょう。
まだビートルズ前です。まだまだ世の中は保守的で、アメリカは強く、ただ世の中の勝ち組・負け組構造は、もうかなりがっちりできて来ていました。
主人公はトム・リプリー。イケメンの若者。ただ、貧乏です。
どうやら孤児みたいな生まれ育ち。郊外で伯母さんになんとか育てられたようですが、その伯母さんともしっかりした愛情で結ばれているわけでもなくて。要は、ほとんど天涯孤独。
恐らく田舎のハイスクール出たくらいの学歴で、大したコネもなくニューヨークにやってきたのでしょう。
今の日本風に言うとアルバイトや契約社員みたいな仕事を転々としています。真面目につましく暮らしていこうにも、とにかく目先のお金が足りない。筋の良くない友人のアパートを転々としたり。当然、若いし面白くない。そういう仲間たちとくだを巻いたり。
ただ、このリプリーさんは、あることに、ちょいと才能と度胸があります。それは何か。犯罪です。
保険や税金関係の事務仕事をしていた経験から、税務署員と偽って税金と称して小銭を巻き上げる。そんな詐欺を働いています。
いつ警察に捕まるか?みたいな、不安なその日暮らし。そんなリプリーさんに降って湧いたのが、「イタリア行きの仕事」。
リプリーが浅く広く、ぐだぐだ付き合っていた若者たちの中に、ブルジョアの息子がいたんです。自称画家。金持ちニートです。ディッキー・グリーンリーフ。
そんなに仲良い訳でも無く、知り合い以上友だち未満くらいの関係。
このディッキーのお父さんが、突然現れて主人公トム・リプリーに声をかけます。
「息子の友だちなんだよね?息子が、画を描くって言って、イタリアに行ったきり何カ月も何カ月も戻ってこないんだ。イタリアに行って、説得して連れ帰ってくれませんか?当然、あご、あし、まくら、プラス諸経費一切、出させてもらうんで」
という夢のような依頼。
ディッキーの父親は、造船所のオーナー社長。紛うことなき億万長者。そして、トム・リプリーがケチなフリーターの軽犯罪者だとは思っていません。サラリーマンだ、くらいに思っているんですね。信用しています。(信用されるように細かく嘘を積み上げる技術が、リプリーにある、というのもあります)
まんまとアメリカ脱出。太陽がいっぱいのイタリアへ。
ディッキーと出会う。同じ年頃。同じ背格好。ふたりは一見、異国で肩を寄せ合って楽しく過ごします。
けれど、渦巻く格差の意識。底に流れる不信。そして怒り...。
この心理は、もう、絶品の小鉢のような極上の味わい。ピリリ山椒。
映画でも活かされていますが、リプリーが、ディッキーの服を勝手に着て鏡を見ていると、ディッキーが不意に帰宅している場面。このやりとり。
まさに、「小説」が「物語」から離陸する快感。
そして、リプリーは人生初の大犯罪に。
ディッキーを殺し、ディッキーになりすまし、財産を我が物にする...。
果たして、捜査の手から逃げ切れるのか?
ディッキーの恋人の眼は、ごまかせるのか?
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小説が、正直に言うと、事前の予想より面白かったんです。
このぞくぞくした、人間のダークで異形な部分の味わいは、只者ではありません。
リプリー・シリーズを全部読む(と言っても3冊か4冊でしたが)、というのが人生の楽しみに新たに加わりました。嬉しいことです。
と、いうハイスミスさんへの敬意を踏まえて。
それでもやっぱり思ってしまうのは、
「いやあ、映画もよくできてたよなあ」ということです。
原作ではアメリカ人なんですが、それがフランス人に。
そして原作と、細かくは言いませんが「終わり方」が圧倒的に違います。これはほんと、映画サイドの英断だと思います。
(映画の終わり方の方が素晴らしい、という訳ではありません。「映画にとっては」、映画版の終わり方の方が素晴らしい、と、思います)
そして、原作に存在する、ぬめっとした存在の不安のような味わいは、映画版では明確には描かれていないのですが、「アラン・ドロン」という異様なイケメン俳優のどきどきする危うい存在感が、それを十分に補てんしていると思います。
(原作では、50年代のアメリカで商業小説に許されるぎりぎりくらい、「同性愛っぽい匂い」というか「同性愛者だと思われることの屈辱とか偏見、恐怖」みたいな通底音が流れています。これだけで、つまりは「健全なる社会の構成員」であることへの皮肉な、そして暗い疎外感と敵対感がぬめぬめと醸し出されるわけです。
その要素は、映画版ではかなり排除されているのですけれど、排除しても排除しても、アラン・ドロンという人間の肉体と存在感から、同様の寂しさとか緊張感がだだ漏れに漏れてくるんですね。素晴らしい。これはまあ、ヘルムート・バーガーさんとか、やはり「ヴィスコンティの眼鏡に叶いし者たち」の持ち味というかなんというか…)
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映画版を褒めてばかりいてもナンなんですが、映画の題名、Plein Soleil「太陽がいっぱい」。これ、素晴らしいですね。脱帽。
原作にもはちきれんばかりに描かれる、くらくらする地中海の太陽の暑さ。若者の噎せ返るような不満と恍惚。そんな空気感をざっくりと表した題名だと思います。これだけは、うーん、ハイスミスの原題Talented Mr.Ripley 「才能あるリプリー氏」よりも、わくわくしますね。
ほぼ直訳だけど、日本語としてのセンスもいいなあ。やっぱり、洋画をカタカナタイトルで公開するのは、何かしら堕落を感じてしまうんですよね。まあ、興行業界には興行業界なりの、事情があるんでしょうけれど。
(とはいえ、じゃあStarWarsを、宇宙戦争、にしかなったのも英断だと思うので、まあ作品によるわけですが…) -
うーん、これを読んでなかったのは不覚だった。
見事なプロット、淡々としてるのに華やかな描写。 -
アラン・ドロンの映画で知って、ずっと気になっていた作品。
まず印象的だったのは、リプリーのゲイ的視点。
ライバル的女性への感情や人間の観察具合がとてもゲイゲイしい。
そしてこの作品の読みどころは、自分がだんだんリプリーなんじゃないかと感じるくらいの心理描写だろう。
昔のサスペンスらしく、
たまたま運がよかっただけでは?
と感じるところがいくつもありながら、どこか洗練された印象を受けるから許せてしまう。 -
改訳新版ということで、この機会を逃すと一生読まないだろうから購入。