太陽がいっぱい (河出文庫 ハ 2-13)

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (421ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309464275

感想・レビュー・書評

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  • ミステリ作家だと大好きなのはチャンドラーくらいしかいなかったんだけど、ハイスミスは『キャロル』に続き読了二作目の本作で完全に好きになってしまった。
    主人公のリプリー、やってることも考えてることもは最低ゲス野郎のはずなのに心理描写の丁寧さとヨーロッパの様々な国の風景の美しさもあって(他にも理由はたくさんあるだろうが)なんでか読んでいて上品で質のいいツイード生地を眺めているような、落ち着いた気分になる不思議な作品だった。この、文章の端正さがハイスミスの魅力の一つなんだろうな。

  • ちょっと、三島由紀夫さんのような。
    水面下に脈々と流れる、異常で変態な、ぞくぞくぬめっとする不安感というか。足下の地面がぐにゃっと軟化しそうな味わい。この本には、それが上手くマッチしていていました。

    若くて才能があるのに、努力してもどうにもならない境遇の自分と。
    なにもしなくても親の巨額な財産で、優雅に文化的に恋愛と芸術を謳歌する友人と。

    物凄い格差を挟んだふたりの若者の、うたかたの交流と愛憎。

    「格差の葛藤」という、まさに今現在の世の中の仕組みの脆さを突きつけて、突き刺し貫くようなキケンな小説でした。

    #
    嫉妬。軽蔑。
    絶望。羨望。
    屈辱。怒り。

    そんな主人公の心の襞を、舐めるようにねっとりと眺めていく、殺人の記録。

    財産、金のために、友人を殺すんです。何が起こったか、だけで言うと。

    でも、きっと違うんですね。
    プライドのため。人生のため。
    これは、リプリーの戦争なんですね。
    戦争に善悪があるのか?

    超・一級品の、犯罪小説。悪人小説。でした。

    #

    「太陽がいっぱい」。1955年出版、アメリカ。
    女流作家パトリシア・ハイスミスさん、34歳くらいの作品。
    1992年河出書房、佐宗鈴夫さん訳。
    佐宗さんは、僕の知っている範囲では「メグレ・シリーズ」も翻訳してます。
    20年来の「メグレ・シリーズ」ファンなので、メグレを訳してる人、というだけで無駄に親近感(笑)。
    まあつまり、佐宗さんと言う方は、仏語も英語も翻訳できる、ということですね。

    #

    1960年のフランス映画「太陽がいっぱい」の原作です。
    多くの人と同じく、僕もまず映画を知っていて「ああ、あの映画の原作か」という興味。
    更に映画ファンとしては、ヴェンダース監督の傑作(というべきか、デニス・ホッパー出演の傑作、と呼ぶべきか)「アメリカの友人」(1977)の原作も、同じパトリシア・ハイスミスさんで、どうやら原作小説世界では「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンの後年の姿が「アメリカの友人」のデニス・ホッパーである!、という驚愕の事実から原作への興味を持った、というのが実情です。(更に言うと、「原作に興味を持った」というのがそもそも20年くらい前のことだったんですが...)

    映画のことは置いておいて。
    小説「太陽がいっぱい」の備忘録、概略。

    #

    舞台はニューヨークから。時代は恐らく同時代、つまり1950年代でしょう。
    まだビートルズ前です。まだまだ世の中は保守的で、アメリカは強く、ただ世の中の勝ち組・負け組構造は、もうかなりがっちりできて来ていました。

    主人公はトム・リプリー。イケメンの若者。ただ、貧乏です。
    どうやら孤児みたいな生まれ育ち。郊外で伯母さんになんとか育てられたようですが、その伯母さんともしっかりした愛情で結ばれているわけでもなくて。要は、ほとんど天涯孤独。
    恐らく田舎のハイスクール出たくらいの学歴で、大したコネもなくニューヨークにやってきたのでしょう。

    今の日本風に言うとアルバイトや契約社員みたいな仕事を転々としています。真面目につましく暮らしていこうにも、とにかく目先のお金が足りない。筋の良くない友人のアパートを転々としたり。当然、若いし面白くない。そういう仲間たちとくだを巻いたり。

    ただ、このリプリーさんは、あることに、ちょいと才能と度胸があります。それは何か。犯罪です。
    保険や税金関係の事務仕事をしていた経験から、税務署員と偽って税金と称して小銭を巻き上げる。そんな詐欺を働いています。
    いつ警察に捕まるか?みたいな、不安なその日暮らし。そんなリプリーさんに降って湧いたのが、「イタリア行きの仕事」。

    リプリーが浅く広く、ぐだぐだ付き合っていた若者たちの中に、ブルジョアの息子がいたんです。自称画家。金持ちニートです。ディッキー・グリーンリーフ。
    そんなに仲良い訳でも無く、知り合い以上友だち未満くらいの関係。
    このディッキーのお父さんが、突然現れて主人公トム・リプリーに声をかけます。

    「息子の友だちなんだよね?息子が、画を描くって言って、イタリアに行ったきり何カ月も何カ月も戻ってこないんだ。イタリアに行って、説得して連れ帰ってくれませんか?当然、あご、あし、まくら、プラス諸経費一切、出させてもらうんで」

    という夢のような依頼。

    ディッキーの父親は、造船所のオーナー社長。紛うことなき億万長者。そして、トム・リプリーがケチなフリーターの軽犯罪者だとは思っていません。サラリーマンだ、くらいに思っているんですね。信用しています。(信用されるように細かく嘘を積み上げる技術が、リプリーにある、というのもあります)

    まんまとアメリカ脱出。太陽がいっぱいのイタリアへ。
    ディッキーと出会う。同じ年頃。同じ背格好。ふたりは一見、異国で肩を寄せ合って楽しく過ごします。
    けれど、渦巻く格差の意識。底に流れる不信。そして怒り...。
    この心理は、もう、絶品の小鉢のような極上の味わい。ピリリ山椒。
    映画でも活かされていますが、リプリーが、ディッキーの服を勝手に着て鏡を見ていると、ディッキーが不意に帰宅している場面。このやりとり。
    まさに、「小説」が「物語」から離陸する快感。

    そして、リプリーは人生初の大犯罪に。
    ディッキーを殺し、ディッキーになりすまし、財産を我が物にする...。

    果たして、捜査の手から逃げ切れるのか?
    ディッキーの恋人の眼は、ごまかせるのか?

    #

    小説が、正直に言うと、事前の予想より面白かったんです。
    このぞくぞくした、人間のダークで異形な部分の味わいは、只者ではありません。
    リプリー・シリーズを全部読む(と言っても3冊か4冊でしたが)、というのが人生の楽しみに新たに加わりました。嬉しいことです。

    と、いうハイスミスさんへの敬意を踏まえて。

    それでもやっぱり思ってしまうのは、
    「いやあ、映画もよくできてたよなあ」ということです。

    原作ではアメリカ人なんですが、それがフランス人に。
    そして原作と、細かくは言いませんが「終わり方」が圧倒的に違います。これはほんと、映画サイドの英断だと思います。
    (映画の終わり方の方が素晴らしい、という訳ではありません。「映画にとっては」、映画版の終わり方の方が素晴らしい、と、思います)

    そして、原作に存在する、ぬめっとした存在の不安のような味わいは、映画版では明確には描かれていないのですが、「アラン・ドロン」という異様なイケメン俳優のどきどきする危うい存在感が、それを十分に補てんしていると思います。

    (原作では、50年代のアメリカで商業小説に許されるぎりぎりくらい、「同性愛っぽい匂い」というか「同性愛者だと思われることの屈辱とか偏見、恐怖」みたいな通底音が流れています。これだけで、つまりは「健全なる社会の構成員」であることへの皮肉な、そして暗い疎外感と敵対感がぬめぬめと醸し出されるわけです。
    その要素は、映画版ではかなり排除されているのですけれど、排除しても排除しても、アラン・ドロンという人間の肉体と存在感から、同様の寂しさとか緊張感がだだ漏れに漏れてくるんですね。素晴らしい。これはまあ、ヘルムート・バーガーさんとか、やはり「ヴィスコンティの眼鏡に叶いし者たち」の持ち味というかなんというか…)

    #

    映画版を褒めてばかりいてもナンなんですが、映画の題名、Plein Soleil「太陽がいっぱい」。これ、素晴らしいですね。脱帽。

    原作にもはちきれんばかりに描かれる、くらくらする地中海の太陽の暑さ。若者の噎せ返るような不満と恍惚。そんな空気感をざっくりと表した題名だと思います。これだけは、うーん、ハイスミスの原題Talented Mr.Ripley 「才能あるリプリー氏」よりも、わくわくしますね。

    ほぼ直訳だけど、日本語としてのセンスもいいなあ。やっぱり、洋画をカタカナタイトルで公開するのは、何かしら堕落を感じてしまうんですよね。まあ、興行業界には興行業界なりの、事情があるんでしょうけれど。
    (とはいえ、じゃあStarWarsを、宇宙戦争、にしかなったのも英断だと思うので、まあ作品によるわけですが…)

  • 結末はwikiに載っている映画とは違います

  • うーん、これを読んでなかったのは不覚だった。
    見事なプロット、淡々としてるのに華やかな描写。

  • アラン・ドロンの映画で知って、ずっと気になっていた作品。
    まず印象的だったのは、リプリーのゲイ的視点。
    ライバル的女性への感情や人間の観察具合がとてもゲイゲイしい。
    そしてこの作品の読みどころは、自分がだんだんリプリーなんじゃないかと感じるくらいの心理描写だろう。
    昔のサスペンスらしく、
    たまたま運がよかっただけでは?
    と感じるところがいくつもありながら、どこか洗練された印象を受けるから許せてしまう。

  • 改訳新版ということで、この機会を逃すと一生読まないだろうから購入。

  • 映画化作品2作いずれも見ていたのだが、それでも、ハラハラしながら面白く読み通した。大筋を知っていたが、それでも息詰まる思いで読んだ。たいした筆力である。

    □ 以下、面白きところ、味わい深いところ。

    ・トム・リプリーの、劣等感をベースにした屈折した想い、その心理描写
    ・リプリーの、ディッキーへの思いには同性愛的なものがある、と初めて知り驚く。(映画では割愛されていたと思う)であるからこそ、友情(愛情)が突如、憎しみに転ずることに真実味が加わるやに感じた。
    ・イタリアやフランスの名だたる都市、観光地を縦横にめぐる。リプリー自身も各地を観光するので、旅情もある。 モンジベロ(という小村)、ナポリ、ローマ、パレルモ(シチリア島)、ベニス。 他にも、パリ、コートダジュール(カンヌ、ニース、サンレモ…)。そしてギリシアの島々、アテネ。物語の舞台、旅の道行きはなんともぜいたくである。 

    そういえば、完全犯罪という惹句が先入観となっていたためか、ふたつの殺人が、無計画で衝動的なのが意外。それにゆえに、後始末と隠匿の展開がドキドキなのだが…。 

    夏の季節感を味わいたくて、夏らしい小説を読もうと本書を手にした。 特に冒頭部、晩夏の南イタリア、海の輝き、陽射しがたっぷり描かる。
    裸足に熱い程の、海の砂。冷たいマティーニなど、冷したカクテルをあおり、シャワーで汗を流す。 夏の情景が味わい深い。 
    ※海辺の小さな村、モンジベロは実在の村?(「リプリー」ではアマルフィに置き換えられていたが)

  • 『太陽がいっぱい』はお噂はかねがね、
    でも初めて読みました。

    映画の方は淀川長治さんから色々と
    (書籍を通して)教えてもらっておりましたが。

    大人なら絶対知っているストーリーですが、一応。

    あ、でも「知ってる」と思っている人でも
    知っていないことがあるかも!

    実は映画と本はラストが全然違うんですわ。

    私も終りの方になって来て、

    「あ、そうだった、そうなんだ、
    そうだって聞いていたのを今思い出した!」と
    なったんだ。

    主人公 トム(トーマス)・リプリーは貧しい青年。
    経済状況や人間関係に嫌気がさしながらも、
    そんな日常から抜け出すことが出来ず、
    面白半分の詐欺行為で憂さを晴らす日々。

    ある時、イタリアに行ったまま帰ってこない息子を
    連れ戻してほしいと、金持ちの紳士に頼まれる。

    その地へ旅立ったトムはその息子ディッキーに惹かれ、
    意気投合して楽しい日々を過ごす。

    しかし、ディッキーは女友達の助言もあり、
    だんだんトムが疎ましくなり、
    よそよそしい態度をとるようになる。

    自分に無いものをすべて持っているようにみえた
    ディッキー、
    怒りと嫉妬と悲しみと愛情から、
    トムはディキーを殺して彼になりすますことに…

    このプライドがやたら高く、
    他人に心をひらけず、
    自分を理解してくれない人は程度や感性が低いと思い、
    見た目がみっともない人、お洒落じゃない人、
    会話がつまらない人を嫌悪して、

    好きな人の事はどうしても独り占めしたい、トム。
    ずる賢く、上手く立ち回り、
    自分の身を守るためなら手段を選ばない男。

    こんな風なうわべを取り繕って
    実のところ虚勢を張っているだけの野郎だけれど、
    なんというか「好感」ではないけれど、
    なんだろう?何故か感情移入してしまうと言うか、

    あの有名なボートの上のシーンの時も、
    読んでいる側は衝撃を感じながらも、
    「あああ、でももう、こうなったらしょうがない」と
    思い、もうそこはあきらめて、

    また、いよいよ、もう本当に絶対絶命の、あの場面、

    「絶対、絶対、絶対にもう、これでばれるよ、
    どうするの、どうするの?
    でも本当にどうしようもない、
    もしあるなら、まあ、それしかない」
    と読みながらこちらもトムの気持ちに。

    でもね、ま、こんなにうまく行くとはまあ、
    思えないのだけれど、ね。

    警察のみんなでディッキーの写真をもって
    「太陽にほえろ」の刑事よろしく街中を駆け回れば、
    あっという間にわかりそうなものだぞ。

    亡くなった両親の代わりにトムを育ててくれたのは、
    本当にいやな叔母さん!
    抜け出したい様なことが起こり
    長じても友達に話せない幼少期って、辛いね。

    あと、トムのくすぶっていた時代の唯一の救い、クレオ。
    この方は郵便切手くらいの大きさの象牙に絵を描いて暮らしている。
    (まずそこがお洒落で面白い)

    イタリア行きを告げると、
    年の離れた優しいお姉さんの様に、
    とても喜び、あれこれ世話を焼いてくれる。

    トム、トム、この人との事を大事にして
    仲良くして生きて行けばよかったのに!

    ディッキーもフレディも何も悪くないのに殺されちゃって!

    それなのに読んでいて
    マージもディッキーのパパも何故か悪者のように思えるときがある!

  • パトリシア・ハイスミスの代表作。映画版はかのアラン・ドロンの出世作としても有名。
    ストーリーとしてはサスペンスだが、人間関係の機微が丁寧に描かれていて、それがサスペンス感を盛り上げていた。
    映画版は破滅を暗喩しているが、原作では、リプリーは完全犯罪に成功し、逃げおおせるというラストも当時としてはけっこう斬新だったのでは?

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著者プロフィール

1921-1995年。テキサス州生まれ。『見知らぬ乗客』『太陽がいっぱい』が映画化され、人気作家に。『太陽がいっぱい』でフランス推理小説大賞、『殺意の迷宮』で英国推理作家協会(CWA)賞を受賞。

「2022年 『水の墓碑銘』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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