太陽がいっぱい (河出文庫 ハ 2-13)

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (421ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309464275

作品紹介・あらすじ

息子ディッキーを米国に呼び戻してほしいという富豪の頼みを受け、トム・リプリーはイタリアに旅立つ。トムはディッキーに心を惹かれ、やがてそのすべてを求めてある決断をする……ハイスミスの代表作、改訳新版。

感想・レビュー・書評

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  • 破滅に向かってほしいのに、全然向かってくれない!彼が不安に思う未来に対してヨーロッパ描写の何と美しいことか!リプリーを応援してないはずなのに周囲の人の間抜けさにイライラさせられる!
    ただのヤバいやつをこんなに魅力的に見せられるとは!

  • 2023年一番の作品でした。
    初めはグレート・ギャッツビーと同じ系統かと思ったものの、まったく違うものでした。
    トムの行動や、できごとにどう思ったかということは細かく書かれているものの、心情についてはあまり書かれていないよう思う。けれども、トムの閉塞感や焦燥感、嫉妬なんかがじわっと迫ってくる。トムとフィリップとマージの関係が、よくある痴情のもつれた三角関係におさまらないとことが興味深い。

    映画も見てみたけれども断然こっちがいい。
    アラン・ドロンの色男ぶりはすごいですけど。
    リプリーも見てみたい。

  • 彼の親に頼まれてブルックスブラザーズのソックスとバスローブを買ってヨーロッパへ。パリに来た。客船で快適にきた。4年も無為に過ごしたことを考えていた。毛沢東の言うように、何かできるのは、若くてお金がない、ということなのかl。意欲、パッションはいかがなものか。
    ナポリに来た。ディッキー・グリーンリーフとあった。ブロンドの女がいた。
    原題『The Talented Mr.Ripley』
    トム(トーマス)・リプリー、主人公。解説を読むとこの作品からシリーズになり、あと四冊の作品でリプリーが活躍するらしい。自作は「贋作』でこれは翻訳があるそうだ。

  •  1955年作。
     1960年、ルネ・クレマン監督による、アラン・ドロン主演の映画が名作としてすこぶる有名で、「太陽がいっぱい Plein Soleil」というタイトルはこの映画によるもの。小説の原題は「才能あるリプリー氏」という、ちょっとつまらなそうなタイトルである。
     犯罪サスペンスもの、ということになる。全体の3分の1辺りで主人公トム・リプリーが殺人を犯して、そこからサスペンス風になる。が、私は何となくこの小説に没入できなかった。主人公の性格が曖昧でとりとめなく思われ、その心の動きに近づくことが難しかったせいだろう。
    「犯罪を犯したのちの、追い詰められる切迫感」は、もっとシンプルな描写の松本清張の短編の方が引きずり込まれるような迫力、悪夢感があったのだが、本作はもうちょっと心理描写をきちんとやっているのに、いやそれだけに、その心理がどうも私にはよく把握できなかったのである。
     結末は映画のそれとは違う。このトム・リプリーを主人公としてハイスミスは更に何編も長編を書いたらしい。私には特徴の掴みづらい人物であったため、あまり興味を持てないのだが・・・。

  • これは完全犯罪と言えるのだろうか…
    トムの衝動的で突飛な殺人と、臆病なまでに練るに練られた計画的な偽装工作の連続。
    そして、あまりにも幸運すぎる逃亡劇とその最後。

    この作品では、事件自体の完全さというよりも、トム自身の感情の浮き沈みと、はたまた何があってもうまく立ち回る身のこなし、そして綻びをうまく拾っていく彼のスキル等々、“トム”という人間にスポットライトを当てることでこそ、主人公の魅力が表に現れ、非常に興味深く感じられる作品になっている気がする。

    誰かを演じることでしか(ここでは“ディッキーだが”)今の自分を保てない不安定とも言える精神状態、自分から墓穴を掘るような言動や行動に走りかねない様子、そして上機嫌で楽天的と思いきや、自己嫌悪により何も手につかない、何も食べられないという繊細さ…ここまで心情がアップダウンの激しさが、軽快に、巧妙に描かれているのがおもしろい。

    トムは、どこか、何か、罪の意識とは別の事件にいるような気さえする。
    彼が本当に恐れているものとはなんなのか…警官か?死刑か?それとも?

  • 1960年にルネ・クレマン監督/アラン・ドロン主演で映画化(1999年「リプリー」として原作をほぼ忠実にリメイク)されたことにより、ハイスミスの最も有名な作品となった。1955年発表作だが、全編独特なトーンを持ち、時代を感じさせない。物語の舞台として、当時のローマ、カプリ、ベネツィアなどの名所を巡るため、観光ガイドとしても有用かもしれない。よく知られた粗筋は省略するが、先の映画とは随分と印象が違う。饒舌で冗長。犯罪小説と呼ぶには文学に偏り過ぎ、文学と称するには青臭い生硬さがある。

    主人公は、アメリカ人トム・リプリー25歳。幼い頃に両親を亡くし、守銭奴の叔母に育てられた。生い立ちは殆ど語らず、世界中を旅して回る望みを持つ以外は、将来について夢描くこともない。孤独な自信家で、何よりも貧しい。金持ちに対するルサンチマンを抱き、彼らの〝物真似〟をすることで自己同一性の欠損を補い、自尊心を慰撫する。切れ者だが、倫理観が欠落している。最初に犯す殺人の動機は嫉妬からくる逆恨みで、以降も犯罪を重ねていく。大金を狙うのではなく、自由に旅行ができる程度で満たされる。退廃的で刹那的、ただ今を生きている。そこには、明確な狂気がある。己が殺した相手と同化して一人二役を演じ、危険な者は躊躇わずに消す。中途で何度も危機に見舞われるが、機転と悪運によって逃れる。狂的な楽天家で罪に苛まれることがないが、犯罪が発覚することには怯える。そして、それを楽しむ余裕さえ見せる。その人間像は複雑なようで〝底が浅い〟。故に、捉え難い。

    物語の中では何度も否定しているが、主人公はホモセクシャルであることを濃厚に匂わせる。同性愛者だったハイスミスが「リプリーは自分自身である」と述べているが、青年への投影はこれにとどまるものではないのだろう。この〝男色〟が本作に漂う異様な緊張感の素因ともなっている。他の登場人物は例外なく俗物で、作者の人間不信に基づく醒めた視点を反映していると感じた。そもそも、男と女を魅力的に描く気などさらさら無かったようで、ハイスミスの造型は極めて異色だ。
    終盤で、完全犯罪を確信したリプリーは、ギリシャ旅行を夢想し「太陽がいっぱいだ」と独白。怠惰で虚無的な結末を迎え、物語は閉じられる。読み手によって、はっきりと好き嫌いが分かれる作風だが、ミステリの深遠を知ることは出来るだろう。眼光鋭い肖像が印象的なハイスミス。その屈折したスタイルによって、異端の存在であり続けたことは間違いない。

  • ルネ・クレマンとアラン・ドロンの映画「太陽がいっぱい」は封切られた時に観た。映画全盛時代ゆえ鮮明に覚えている。テーマ音楽と明るい青い海とドロンの美貌が強烈な印象だった。

    マット・ディモンのリメイク「リプリー」はTVで観た。これはこれで「トム」と「ディッキー」の関係を同性愛的に色濃く描いていて陰影があった。マット・ディモンの雰囲気があずかりあるのかもしれない。

    パトリシア・ハイスミスの原作「太陽がいっぱい」を読んでまた異なった感想を持った。「トム」が「ディッキー」を殺すに到る心理が丁寧に描いてあり、犯罪の良し悪しでなく、わかってくるものがある。

    「トム」の不幸な生い立ちとあがいても上昇しない人生が、人は出自によってどうしても決まってくるという不条理をはねのけたくなった時、どういうことが起こるのか。他人の人生とを取り替えられるのか、夢のような変身は可能か。

    「トム」が雇われ友人として「ディッキー」をアメリカに連れ帰る役目よりも、優雅に暮らしている「ディッキー」のようになりたいと思った時、愛すればこそ同化出来ると濃く近づくが、それが同性愛的友情(同性愛ではない)になってもおかしくない。

    やはり原作は読んでみるものだ。パトリシア・ハイスミスのミステリータッチの中にも冷徹な人間観察が感動する。どうしようもない人間個の欲望の強さ、哀しさを呼び覚まされる。

    情景にイタリア、特にベネッツアの風景がたくさんあって懐かしい(観光したので)こんなに出てきたんだっけ?とあらためて驚いた。が、それもこの小説の象徴であり、強調する脇でもある。

  • 三人称で書かれているけど 気分は犯人目線なので
    すっかり犯人気分になり ハラハラしながら進んでいった。最後は予想外

  • リプリーがとにかく気持ち悪い。生理的に無理。

  • 読み終えて改めて目にする原題の皮肉っぽさに思わずひどい、と声に出して呟いてしまう。「才能のあるリプリー氏」。トムは器用な人間だけれど、世界をあっと言わせるような才能なんてない。
    クレバーではあっても臆病で小心者、器の小ささは自分が一番よくわかっている。だから自分が焦がれた特別な相手、新しい誰かに成り代わることで新たな人生を始めようとするのだ。

    「要するに、自分を非凡な人間と考えたがるごく普通な若者ですよ」
    ディッキーを評するトムの言葉はそのまま自分に跳ね返る。たしかにふたりは似ていたかもしれない。絵はうまくないけれど善良で、気分屋なところはあっても自信と無邪気な明るさに満ちていたディッキー。
    そんなディッキーと、よい友人として仲のいいまま暮らしていく未来もあったかもしれない。イタリア語を少しずつ覚えて、モンジベロで仕事を見つける人生。けれど自分を置いてディッキーとマージの距離が近付いていくことに我慢できなかったトムは、結局殺人という道を選んでしまう。
    トムは決して優秀な犯人ではない。作中で行われた犯罪だってすべてが場当たり的で、最後は殺人という決定的な罪を犯す前に軽い気持ちで続けていた税金詐欺まで見つかってしまう。そこにきて読者は、この物語の冒頭でもまた警官の姿に怯えてバーで体を強張らせていたトムの姿を思い出す。長い物語の始まりと終わりにおいて、トムはありもしない追っ手の影に怯えていた。
    トムリプリーはディッキーを殺したことで犯罪の道に転げ落ちた人間ではなくて、もとより非合法なことに手を染めずにはいられない、そのくせ悲観的でいて、けれど同時に根拠のない自信を持ち合わせた人物なのだ。そんなパーソナリティそのものが「犯罪者向き」なのだとしたら、たしかにトムには犯罪の才能があるのかもしれない。パーフェクトにスマートに犯罪を犯すのではなく、何度危険を冒しても決して普通には生きられないという才能が。
    わたしは有名な映画版を見たことはないけれど、映画のラストシーンではトムの殺人が露見するらしい。それはなんだかこの小説の余韻というか、なんともいえない悲しみを損なってしまっていると思う。
    運よく危機を逃れ、失敗だったはずの過去の行動にも助けられてディッキーの遺産すら手に入れたトムは、さっきまでの怯えようが嘘のようにハイになって最高級のホテルを目指す。トムという人は、これからもこうして生きていくしかないのだ。致命的なミスを犯して追い詰められ、自分の計画が完璧に破綻するまでは無茶とも言える犯罪に手を染めて生きていくのだと思わされる結末は、ある意味で罪が発覚するよりもとても切ない。
    映画を見ずに言うのは無責任な気がするけれど、トムというキャラクターのどうしようもなさがこれでもかと伝わる原作のラストシーンを改変したのは悪手ではないかなあと感じずにはいられない。

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著者プロフィール

1921-1995年。テキサス州生まれ。『見知らぬ乗客』『太陽がいっぱい』が映画化され、人気作家に。『太陽がいっぱい』でフランス推理小説大賞、『殺意の迷宮』で英国推理作家協会(CWA)賞を受賞。

「2022年 『水の墓碑銘』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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