苦海浄土 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

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  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (780ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309709680

作品紹介・あらすじ

「天のくれらす魚」あふれる海が、豊かに人々を育んでいた幸福の地。しかしその地は、海に排出された汚染物質によって破壊し尽くされた。水俣を故郷として育ち、惨状を目の当たりにした著者は、中毒患者たちの苦しみや怒りを自らのものと預かり、「誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの」として、傑出した文学作品に結晶させた。第一部「苦海浄土」、第二部「神々の村」、第三部「天の魚」の三部作すべてを一巻に収録。

感想・レビュー・書評

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  •  繋がぬ沖の捨て小舟
     生死の苦海果もなし

    (池澤夏樹 解説)
    『「水俣病」という命名がいっそ腹立たしい。あの病気、後になって考えれば最もふさわしい名はチッソ病であった。
    (…)
    よりによって水俣という地名を冠することはなかったのに。
    水俣、語源は二つの川(水俣川と揚出川)が合わさるところであるという。
    (…)
    この美しい地名をあろうことか病気の名に流用したことに市民は怒るべきである。読んでいてついついそうい義憤に駆られることの多い作品なのだが、すぐにまた自分は憤慨できぬ立場であるかと反省する。義憤の義の字はむやみに人を巻き込むから気を付けた方がいい』

    (池澤夏樹解説 水俣の様子、引用)
    『耳を澄ますと砂浜いっぱいそういうものたちの呼吸の音がみしみしと聞こえまして。海そのものやそこの生物たちと自分が呼吸を合わせている感じがとても幸福で…』

    (P28「第一部 苦海浄土/第一章 椿の海/四十四号患者」)
    (娘と息子と共に入院した母)
    『おとろしか。おもいだそうごたなか。人間じゃなかごたる死に方したばい、さつきは。わたしはまる一か月、ひとめも眠らんじゃったばい。久平と、さつきと、わたしと、誰が一番に死ぬじゃろうかと思うとった。いちばん丈夫と思うとったさつきがやられました。(…)
    避病院から先はもう娑婆じゃなか。今日もまだ死んどらんじゃのか。そげんおもいよった。上で、寝台の上にさつきがおります。ギリギリ舞うとですばい。寝台の上で。手と足で天ばつかんで。背中で舞いますと。これが自分が産んだ娘じゃろかと思うようになりました。犬か猫の死に際のごたった。(…)
    ああもう死んで、いま三人とも地獄におっとじゃろうかいね、とおもいよりました。いつ死んだっけ?ここはもう地獄じゃろと』

    (P45「 第一部 苦海浄土/ 第一章 椿の海 / 死旗」)
    『―水俣病のなんの、そげん見苦しか病気に、なんで俺がかかるのか。
    彼はいつもそういっていたのだった。彼にとって水俣病などというものはありうべからずことであり、実際それはありうべからずことであり、見苦しいという彼の言葉は、水俣病事件への、この事件を創り出し、隠蔽し、無視し、忘れ去らせようとし、忘れつつある側が追わねばならぬ道義を、そちらの側が捨て去ってかえりみない道義を、そのことによって死につつある無名の人間が、背負って放ったひとことであった。』

    (P51~「 第一部 苦海浄土/ 第二章 不知火海沿岸漁民 / 船の墓場」)
    『夜の海に出て、灯ばつけて、夜漁り(よぶり)ですたいな。その夜漁りに出て、目鏡でのぞきながら、鉾突きをやるです。すると、海底の魚どもが、おかしな泳ぎ方ばしよるですたい。なんというか、あの、芝居で見る石見銀山、あれで殺すときなんかそら、小説にも書いてあるでしょうが、ほら、毒のまされてひっくり返るとき、何とかいうでっしょ、テンテンなんとか、それそれ、そのテンテンハンソク。そんなようにして泳ぎよったです、魚どんが。海の底の砂や、岩角に突き当たってですね、わが体ば、ひっくり返し、ひっくり返ししよっとですよ。おかしか泳ぎ方ばするね、と思いよりました。
    そしてあんた、だれでん聞いてみなっせ。漁師ならだれでん見とるけん。百間の排水口からですな、原色の、黒や、赤や、青色の、何か油のごたる塊りが、座ぶとんくらいの大きさになって、流れてくる。そして、はだか瀬の方さね、流れてゆく。あんたもうクシャミのでて。
    (…)
    あん頃の海の色の、何ちいえばよかろ、思い出しても気色の悪か。ようもあんげした海になるまで、漁に出てゆきよったばい。何かこう、どろっとした海になっとった…。いったい、あん頃、何ば会社は作りおったっですか。ドべのゆたゆたしとる海ば、かきわけてゆくと舟もドべで重かりよったです。気色のわりい品物ば流しよったばい。』

    (P78「 第一部 苦海浄土/ 第二章 不知火海沿岸漁民 / 空へ泥をなげるとき」)
    『 大人のいのち十万円
      子どものいのち三万円
      死者のいのちは三十万円
    と、わたくしはそれから念仏にかえて唱えつづける』

    (P83「 第一部 苦海浄土/ 第三章 ゆき女きき書 / 五月」)
    『そのときまでわたくしは水俣川の下流のほとりに住みついているただの貧しい一主婦であり、安南、ジャワや唐、天竺をおもう詩を天にむけてつぶやき、同じ天にむけて泡を吹いて遊ぶちいさなちいさな蟹たちを相手に、不知火海の干潟を眺め暮らしていれば、いささか気が重いが、この国の女性年齢に従い、七、八十年の生涯を終えることができるであろうと考えていた。
    この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐え難かった。釜鶴松(※患者の名前)のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ』

    (P84 「 第一部 苦海浄土/ 第三章 ゆき女きき書 /五月)
    『「う、うち、は、く、口が、良う、も、もとら、ん。案じ、加え、て聴いて、はいよ。う、海の上、は、ほ、ほん、に、よかった」』

    (P88~ 「 第一部 苦海浄土/ 第三章 ゆき女きき書 /五月 )
    『うちは海に行こうごたると。
    わが口を養えんとは、自分の手と足で、わが口は養えと教えてくれらいた祖(おや)さまに申しわけのなか。
    (…)
    うちは情けなか。箸も握れん。茶碗もかかえられん、口もがくがく震えのくる。付添いさんが食べさしてくられすが、そりゃ大ごとばい、三度三度のことに、せっかく口に入れてもろうても飯粒は飛び出す、汁はこぼす。気の毒で気の毒で、どうせ味もわからんもんを、お米さまをこぼして、もったいのうてならん。三度は一度にしてもよかばい。遊んどって食わしてもろうとじゃもね。
    (…)
    あのな、うちゃこの前、おつゆば一人で吸うとみた。うちがあんまりこぼすもんじゃけん、付添いさんのあきらめて出ていからしていから、ひょくっとおもいついて、それからきょろきょろみあわして、やっぱり恥ずかしかもんだけん。それからこうして手ばついて、尻ばほっ立てて、這うて。口ば茶碗にもっていった。手ば使わんで口を持っていって吸えば、ちっとは食べられたばい。おかしゅうもあり、うれしゅうもあり、あさましかなあ。
    (…)
    うちは大学病院に入れられる頃は気ちがいになっとったげな。ほんとに気ちがいになっとたかも知れん』

    (P91~ 「 第一部 苦海浄土/ 第三章 ゆき女きき書 /熊本医学学会雑誌 / 猫における観察 )
    本症ノ発生ト同時ニ水俣地方ノ猫ニモ、コレニ似タ症状ヲオコスモノガアルコトガ住民ノ間ニ気ヅカレテイタガ本年ニハイッテ激増シ現在デハ同地方ニホトンド猫ノ姿ヲ見ナイトイウコトデアル。住民ノ言ニヨレバ、踊リヲ踊ッタリ走リマワッタリシテ、ツイニハ海ニトビコンデシマウトイウ、ハナハダ興味深イ症状ヲ呈スルノデアル。
    (…)
    本例ハ観察一日デ、不慮ノ死ヲ遂ゲタ。

    (P97「 第一部 苦海浄土/ 第三章 ゆき女きき書 )
    猫たちの妙な死に方が始まっていた。部落中の猫たちが死にたえて、いくら町あたりからもらってきて、魚をやって養いをよくしても、あの踊りをやりだしたら必ず死ぬ。

    (P104「第三章 ゆき女きき書 / もう一ぺん人間に」)
    『人間な死ねばまた人間に生まれてくっとじゃろうか。うちゃやっぱり、ほかのもんに生まれ替わらず、人間に生まれ替わってきたがよか。うちゃもういっぺん、じいちゃん(※ご主人の事)と舟で海をにゆこうごたる。うちがワキ櫓ば漕いで、じいちゃんがトモ櫓ば漕いで二丁櫓で。漁師の嫁御になって天草から渡ってきたんじゃもん。
    うちゃぼんのう深かけんもう一ぺんきっと人間に生まれ替わってくる』

    (P121「第四章 天の魚 / 九竜権現さま」)
    『なあ、あねさん。
    水俣病は、びんぼ漁師がなる。つまりはその日の米も食いきらん、栄養失調の者どもがなると、世間でいうて、わしゃほんに肩身の狭もうござす。
    しかし考えてもみてくだっせ。わしのように、一生かかって一本釣りの舟一艘、かかあひとり、わしゃ。かかあひとりを自分のおなごと思うて―大明神さまと思うて崇もうてきて―それから息子が一人でけて、それに福ののさりあって、三人の孫に恵まれて、家はめかかりの通りでござすばって、雨の洩ればあしたすぐ修繕するたくわえの銭は無かが、そのうちにゃ、いずれは修繕しいしいして、めかかりの通りに暮らしてきましたばな。坊さまのいわすとおり、上を見らずに暮らしさえすれば、この上の不足のあろうはずもなか。漁師ちゅうもんはこの上なか仕事でござすばい。
    わしどんがように目の見えん、つまり一字の字のも読めん目を持っとるものには、世の中でこのようによか仕事はなかち思うとる。』

    (P124「第四章 天の魚 / 海石」)
    『会社が出けるときけば喜うで、そりゃあよかこつ。会社が出くれ、ここらあたりもみやこになるにちがいなか。会社も地(じだ)も持たんじゃったばっかりに、天草あたりは、昔は唐天竺までも出かけて、生まれた村にも、もどりつけずに、そこで死んで。
    会社さえ出けとれば、わが一代には字の一字も見えんとでござすけん、ああいう所にゃはいりゃあならんが、会社の太うなるにつれて世の中ひらけて、子の時代には会社にゆくごとなって、あるいは孫の時代にゃ、会社ゆき(※会社に勤める事)が、わしの子孫から出てこんともかぎらん、わしどもは、畠も田んぼも持たんとでござすけん。あるいは子孫の代にゃ会社の世話になるかもしれん。そのように思うとりやしたばい』

    (P126「第四章 天の魚 / 海石」)
    『会社さえ早うでけとれば、わしげの村の人間も、唐天竺の果てまで売られて行かんでもよかったろに。しゃりむり女郎にならんちゃ、おなごでも人夫仕事なりとありだしたものを。
    わしげふきんの村じゃ、ことにおなごは生まれた村を出てゆくのがならいで。わしどもがこまかときゃ、判人(はんにん)ちゅうのが村をまわってやってきよったばい。
    判をつかせて、おなごば連れてゆく。
    (…)
    わしゃ今も忘れんが、おすみという色の白か顔のまるいみぞかおなごが、わしげの村におって、そのおすみが、わしげの家にゃ判人の来らいたちゅうて晩にはだしで、わしげのかかさんのところに泣いてきた。そこでわしげのかかさんは貰い泣きをして、
    ―判人が来てふた親が判をついたからには、もうしょうがなか。おまえは人より魂の多か娘じゃけん、小母やんがいうことばをようききわけろ。
    (…)
    判人に売らせずに、自分の体はそっくり自分で売ろうぞ。さすれば、余分の年期を加えられることなしに、行たさき行たさきで、そのようにして年期が切れぬうちに、自分を自分でさきへさきへと売ってゆきおれば、我が身の借金もへり、判人がもうける銭は親にも送れて、年の五十にもなるころには、ひょっとすると、お前の魂と運気の次第では、生まれた村に戻りつけるかもしれん。
    ぼんやりしとって判人の手にかかり、次から次に売られておれば、唐天竺の果てまでも連れてゆかれて、銭のとれん体にされてしもうて、銭のとれん体になれば犬のよめごにあてがわれて、犬とつがわせて、犬と人間のあいの子のでくる、するとこんどは、そのでけたあいの子を見世物小屋の見世物に出されて、その子からさえも銭をとるげんなぞ。
    (…)
    おすみよい、戻ってこようぞ。なんちゅうみぞなげな…おまいが戻りつけるころにゃ、小母やんなもう、墓の中かもしれんが、必ず戻ってけえ。
    墓の中からおまいが帰りば、手を合わせて、待っとるわい―』

    (P166「第七章 昭和四十三年/水俣病対策市民会議」)
    『「いつもいつも見学されよったよ。あれが奇病じゃちゅうて。なしてリハビリが退院するかちゅうたちゃ。なって見んとわからんばい、水俣病に」
    「ほかの身体障害で入った者が、見舞い人に水俣病と間違えられるときはおかしかったない、名誉傷つけられるちゅうて、水俣病の部屋とはなるべく離れておらんば迷惑じゃと、見舞い人の来れば、こっちよこっちちゅうて、そっちの方は水俣病の衆じゃと、自分たちはさも上等の病気で、水俣病は件の病気ごといいよらす」
    「それならわたしどんが名誉はどげんなさるや」
    「名誉のなんのあるもんけ、奇病になったもんに」
    「名誉ばい!うちたちは。奇病になったがなにより名誉じゃが!」
    「タダ飯、タダ医者、タダベッド、安気じゃねえ、あんたたちは。今時の娑婆では天下さまじゃと面とむかっていう人のおる」
    (…)
    「水俣病がそのようにまで羨ましかいなぁあんたたちは。今すぐ替わってよ。すぐなるるばい、会社の廃液で。百トンあるちゅうよ、茶ワンで呑みやんすぐならるるよ、汲んできてやろうか、会社から。替わってよ、すぐ。うちはそげんいうぞ、なれなれみんな、水俣病に」
    「おとろしかこついいなんな、うちはたとえ仇にでもこの病(びょう)ばかりには、かからせとうはなか」
    きれぎれに、患者たちはそのようにいう。』

    (P175「第七章 昭和四十三年/いのちの契約書」)
    ここにまことに天地に恥ずべき一枚の古典的契約書がある。新日本窒素水俣工場と水俣病患者互助会とが昭和三十四年十二月末に取り交わした”見舞金”契約書である。要約すれば、水俣病患者の
     子どものいのち 年間三万円
     大人のいのち  年間十万円
     死者のいのち    三十万円
     葬祭料        二万円
    物価上がり三十九年四月のいのちのねだん少しあがり、
     子どものいのち 年間五万円
     その子はたちになれば 八万円
     二十五になれば  十万円
     重症の大人になれば 十一万五千円
    「乙(患者互助会)は将来、水俣病が甲(工場)の工場廃水に起因することがわかっても、新たな補償要求は一切行なわないものとする」

    (P182 「第七章 昭和四十三年/いのちの契約書」 )
    『「水俣病ばこげんなるまでつつき出して、大ごとになってきた。会社が潰るるぞ。水俣は黄昏(くれ)の闇ぞ。水俣病患者どころか」
    仕事も手につかない心で市民たちは角々や辻辻や、テレビの前で論議しあっている。水俣病患者患者の百十一名と水俣市民四万五千とどちらが大事か、という言いまわしが野火のように拡がり、今や大合唱となりつつあった。』

    (P189~ 「第七章 昭和四十三年/満ち潮」 )
    『ぼとぼととのぼる気泡のような声をわたくしは聞いた。社長の”お詫び”の言葉を。
    (…)
    「よう来てくれはりましたな。待っとりましたばい、十五年間!」
    まず彼女はそう挨拶した。
    秋の日照雨(そばえ)が降り出した。
    「今日はあやまりにきてくれなったですな。
    あやまるちゅうその口であんたたち、会社ばよそに持ってゆくちゅうたげな。今すぐたったいま、持っていってもらいまっしゅ。ようもようも、水俣の人間にこの上威し(うえおどし)を噛ませはりました。あのよな恐ろしか人間殺す毒ば作りだす機械全部、水銀も全部、針金ひとすじ釘一本、水俣に残らんごと、地(じだ)ながら持っていってもらいまっしょ。東京あたりにでも大坂あたりにでも。
    水俣が潰るるか潰れんか。天草でも長島でも、まだからいもや麦食うて、人間な生きとるばい。麦食うて生きてきた者の子孫ですばいわたしどもは。親ば死なせてしもうてからは、親ば死なせるまでの貧乏は辛かったが、自分たちだけの貧乏はいっちょも困りゃせん。会社あっての人間じゃと、思うとりゃせんかいな、あんたたちは。会社あって生まれた人間なら、会社から生まれたその人間たちも、全部連れていってもらいまっしゅ。会社の廃液じゃ死んだが、麦とからいも食うて死んだ話はきかんばい。このことを、いまわたしがいうことを、ききちがえてもろうては困るばい。いまいうことは、わたしがいうことと違うばい。これは、あんたたちが、会社がいわせることじゃ。間違わんごつしてもらいまっしゅ」』

    (P250「第二部 神々の村 /第二章 神々の村 」)
    『「血迷うたか。会社さまにむかって裁判するなんの。千三百万とはようも吹きかけたもんじゃ。普通の人間が一生働いても握れん銭ばいうて。つぶすつもりか会社ば。会社が倒れるちゅうことは水俣市がつぶるることぞ。水俣市民四万五千のいのちと水俣病患者百人あまり、どっちのいのちが大切か」
    「水俣市民はな、魚はよう食うよ。会社の水銀なら市民みんなかかる筈じゃが。とくに魚屋なんかはみんなかかる筈。あの病気にかかったもんは、腐った魚ばっかり食べる漁師の、もともと、当たり前になか人間ばっかりちゅうよ。好きで食うたとじゃろうもん、自業自得じゃが。会社ば逆恨みして、きいたこともなか銭ば吹きかけたげなばい。市民の迷惑も考えず、性根の悪か人間よ。あやつどんは、こう、普通の人間じゃなかよ。見せものに売ってよかよ化けもん子を持っとる親じゃもんな。銭の欲しかれば、子ば、売らんじゃ」』

    (P256「第二章 神々の村 」)
    『ひとたびカナ文字にきざんでこのように書きつけてみれば、日常朗々とうっぷん晴らしにやりとりされていた筈の生活者の言葉が、にわかに両貌を変え、魂を入れ替えられて、あやかしの呪力を持つにいたるのである。
    日常ふだんに軽々と文字をあつかいなれている階層によっては、このような念力をそなえた文字を生むことはおそらくでいない、活字心棒を持たぬ階層は、文字を知らぬのではなく、たぶん胸底ふかく、文字というものを隠し持っているにちがいなく、文字というものに乗りうつるじぶんの言語を研いでいるにちがいないのである』

    (P258「第二章 神々の村」)
    『「二馬鹿半のおとことおなごの夫婦(めおと)でおって、一人前の奇病面して銭貰うて。当たり前の人間かお前どもが。お前どもは夫婦合わせても半人前ぞ・生活保護貰うても、多すぎゃせんかい。
    奇病のもんばかりが苦労が荷負う(かろう)とるごつ思うな。オレ共がふところも、どれだけ痛むか。アカの他人の有難くも思わんもんどもの為に。市民の銭ぞ。生活保護は。市民がな。出し被りりよる訳ぞ。水俣病のもんどもに。
    わかっとるか。太えつらして道ば通るな」
    (…)
    「太えつらして通るわけじゃなかばってん…。
    自分家(げ)の道ばっかり通ろうにも、オレにゃ親の残してくれた地所はひときれもなし。
    漁師はなあ、陸の上の地所は持たんばい。出来ればなあ、海の上の道ばっかりをゆこうごたるばい…。海の上ばかりゆこうにも舟はなし。ままで、舟持ちこたえていたにしても、腕も足もなあ、失しのうたし、使いもんにならん。
    わが体のゆく先が、あっち、ひょろひょろ、こっちひょろひょろ、道の幅いっぱいに踊ってゆきよる風ですけん、目立つとでしょうなあ。
    (…)
    奇病分限者も奇病貧乏もおるけんな。利口もんの奇病人と、二馬鹿半とおるけん。利口もんならば、会社にももぞがらるる(※かわいがられる)。市民にももぞがらるる。市民会のひとたちにも、もぞがらるるよ。オラ違う。オラ、くずじゃもん。くず拾いしよるけん。オラ、失したりもんばい。奇病人の中じゃ」』

    (P307~ 「第三章 ひとのこの世はながくして」 )
    『「東京にゆけば、国の在るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ。あれが国ならば国ちゅうもんは、おとろしか。水俣ん者共と、うっつ、がっつじゃった。うんにゃ、また一風ちごうて、まあだひどかった。むごかもんばい。見殺しにするつもりかもし知れん。おとろしかところじゃったばい、国ちゅうところは。どこに行けば、俺家(おるげ)の国のあるじゃろか」
    「(…)そもそも、チッソと国は、はじめから一つ口になっとった訳じゃ。考えてみれば熊本の裁判所に行ってみたら、裁判の屋根に菊の御紋章のついとったて。菊の御紋章の付いとるならば、熊本の裁判所もひとつじゃろうて。東京の国と熊本の国とは違うとじゃろかいなあ。(…)」
    (…)
    「ああ、しもうた!今になって間に合わんばってん。字ちゅうもんをば習うておけばよかった。(…)水俣の漁師どもば、なぶり殺したのはチッソじゃ。チッソが犯人じゃ。チッソが犯人じゃ。犯人は縛ってよか。タイホしてよか、タイホせろ。こいつは悪者じゃと、たったそれだけでよか。それだけ書いてある法律の本の、どこかになかろうか」』

    (P325「第三章 ひとのこの世はながくして」)
    『「今日ただいまから、私どもは、国家権力に立ちむかうとでございます」』

    (P376~「第四章 花ぐるま」)
    『14号、中津芳男、一般人と変わるところがない。漁獲高も専業者なみ。夜間も操業している。
     20号、田上勝喜、自宅でぶらぶら、歩行やや困難。
     (…)
     71号、嶋本利喜蔵、健康体、二月二十六日死亡。
     73号、杉本とし、少し悪い。
     (…)
     74号、伊藤政八、全快と思われる。
     80号、岩坂きくえ、自宅でぶらぶら。
     (…)
    「健康体で死亡」あるいは「全快と思われる」と書くとき、記述者本人もいささか腑に落ちかねる気がしたのではあるまいか。患者の実情が大したものではないように報告したいという調査者の忠誠心と、おそらく上の方での、実態を抹消したいという想いが、ひとつになっての一覧表であったろう。重要なことは、工場側の最初のこの判定法が、あとあとまで一貫して犠牲者末梢の手法となり、強力に働いたことである。いわくニセ患者、いわく金の亡者等。
    (…)
    まず、20号患者、田上勝喜はチッソ資料が語るように、「自宅でぶらぶら。歩行やや困難」という程度の患者だろうか。
    他の患者たちと同様に、彼もまた舌がしびれ、唇がしびれ、手足の麻痺、全身の痙攣、流涎、とやってきて、「犬吠え様」のおめき声を発し、自らの意思としない激烈な痙攣のために、家の中といわず、道端といわず、突進してころげまわり、人々の手に負えなくなって小川再生院に収容されるのである。
    見落とされてならないのは、一家の柱だった父親の廃疾化が、多数の患者の例と等しく、専業漁家であったこの家庭をたちまち貧窮化せしめたことである。』

    (P412「第六章 実る子」)
    まことにわたくしどもは、いわれなくして生きながら、この世の地獄におちました。
    (…)
    わたくしども訴訟派が、この国がチッソ企業と共になってお定め下さいました、さきの水俣病補償処理委員会の補償案に承服いたしませず、親の代には知らなかった空恐ろしい訴訟提起などに踏み切りましたのは、補償案の異常なる低額さゆえにとどまりませぬ。
    ただひとえに、いまだになぶり殺しに逢いつづけている死者たちの霊が、成仏せぬからでございます。
    (…)
     みやこには、まことの心があるにちがいない。
     みやこには、まことの仏がおわすにちがいない。
    そのように思いさだめて、人倫の道を求め、わが身はまだ成りきれぬ仏のみでございますが、それぞれの背中に、死者の霊を相伴い、浄衣をまとい、かなわぬ体をひきずって、のぼってまいります。
    (…)
    法廷にはお出でなさいませず、罪がないとおっしゃるチッソ社長さまはじめ、チッソのおえらい方々、順々に、この目で死者たちの霊ととも拝顔し、一期の闇につながる出逢いをいたして、死者たちを成仏させねば、わたくしどもも、生き霊となって、未来永劫、さまようほかはありませぬ」

    (P465「第三部 天の魚/第一章 死都の雪」)
    『「病んでみろ、病み切れんぞこの病(びょう)は、一生かかても、二生かかっても」』

    (P482 「第一章 死都の雪」 )
    『そのときから詩経を書き始めていた。生き遺る人々へむけて書く遺文を。死んだひとびとへむけて綴るじゃがたら文を。なによりも、じぶんの闇の中へはいってゆくための、じぶんのためだけに誦唱する詩経である。』

    (P502「第二章 舟非人(ふなかんじん)」)
    『海というものたちというものは、海さえあればそれでよかというものではなく、その海にうちばんふさわしゅう添うた山がなければ育ちませんので。裸山の根には、魚が出たり入ったりしてあそぶ、青か陰のございません。樹々の枝も魚を育てて加勢して海の中の春と映りおうて、岡の上も春ですもん。』

    (P658「第六章 みやこに春はめぐれども」)
    『私達は同じ「手負い猪」になるのなら、最も悲惨、苛烈、崩壊、差別の原点「水俣」から日本中を血だるまで駆けめぐりたい』

    (P714「第七章 供護者たち」)
    『事件発生以来二十年、この時点でさえ、公式認定患者三百名を越え、公式死者五十名、それまで実質の使者はゆうにその三倍はいた。水俣湾の対岸天草島にさえ、認定患者が見つけ出され始め、不知火沿岸住民には万を越える感情が潜在するのは公然の事態になっているのである。ここに至ってなおただ一度たりとも、公権力の手によっては、犯人チッソの取り調べはおろか、被害民らの実態調査はいうにおよばず、救済策などなにひとつ自ら立てたことのない国家が、川本輝夫の水俣の自宅まで!はるばると東京から!国民の金を使い十三名の捜査員を派遣した』

    怨の旗
    https://mainichi.jp/graphs/20161004/hpj/00m/040/003000g/11
    (P434「第二部 神々の村/第六章 実る子」) 『空を恋うかのごとく吹き上がる 幟 旗があった。七百旗もの怨旗はいったいどこから集まってきたのか。』
    (P482「第三部 天の魚/死都の雪」) 『 「黒字に<水俣死民>と染めてくださいませ。市民ではなく、死んでいる民と書きます」 』


    (その他)
    水俣病を告発する会「 我々は一切のイデオロギーを抜きにして、 ただ、義によって助太刀致します 」

    裁判判決後 「銭は1銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、42人死んでもらう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に69人、水俣病になってもらう。あと100人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」

    特別措置法後
    「許す。
    許さないと、苦しくてたまらない。
    みんなの代わりに私たちが病んでいる。許す。」



    「非人(かんじん)」舟非人ふなかんじん、花非人はなかんじん
    「高漂浪(たかざれき)」魂が彷徨っている者
    「神経殿(しんけいどの)」神経を病んでいる人、常人は「正気人」
    「魂が深か子やねえ」「魂ばうろついておる」

  • 読むのに時間かかりました。読み手にも覚悟が必要な本です。
    水俣病という言葉は社会科の教科書で知ってましたが、そこまで詳しく知ろうとしたことはありませんでした。また、石牟礼道子についてもそんなに知りませんでした。
    この世界文学全集では第一部「苦海浄土」第二部「神々の村」第三部「天の魚」をまとめて収録しているので、作者が40年かけて書いてきた水俣病の話を一気に読めるので、お得といえばお得です。

    石牟礼道子という作家は、基本的には詩人なんだと思います。その文章は文学的で詩情溢れてます。さらに、水俣の人たちが使う方言がまた美しく、まさに忘れられてしまった日本の田舎の良さが言葉使いにも情景描写にも現れてます。
    ただ、自分は「え、これはドキュメンタリーなのか、文学なのか?」と正直戸惑いました。どっち付かずのような気がしたのです。文学でもないし、かといって水俣病の歴史をきっちり描いているわけでもない。作者自身の心象描写も多いです。とはいえ、作者自身も水俣市の生まれであり、当時30代の主婦であった彼女が自らの足で患者たちと話し、聞き取った言葉、そして支援者として活動してきた、当事者でもあります。これはどうとらえればいいのか。

    しかし、この作品が今でも名作と言われるのだとすれば、たぶんこの曖昧なところなんではないかと思いました。
    水俣病が発生した時代、それは格差の時代でもありました。高度成長期にのり、近代化し発展していく日本、そしてその影として生まれた公害の被害者は「田舎者」でありました。
    戦後から発展していく町と田舎、持つものと持たざるもの、どちらにも属さない、曖昧な存在である作者は変わろうとしていく日本の醜さを文学として残そうとしているかのように私は思いました。

    昭和は良かったと懐古する人もいますが、このような本をしっかり読んで、影を思い出して欲しいと思います。
    あと、第一部「苦海浄土」しか読んでない方はぜひ第二部第三部と読んでみて欲しいです。被害者を叩く人や企業側の言い逃れ、無責任な政府など、全く今も昔も変わってないなあ、と実感できます。

  • ひとまず第1部は読み終えてます。
    ものすごい重さ。これを読んでいるうちに、胸の奥におもりがぶらさがりました。この本はとにかくすごいので、いろんなことを言いたくなるんですが、その一方で、語るのは非常に難しくてなかなか語れません。あまり軽薄におもしろかっただの参考になっただのと言い募れば言い募るほど、本当のところが逃げ去ってしまうような気がするからです。
    この本が世間的に何に分類されているのかわかりませんが、透徹したまなざしで人間を描いているという点からして、私は文学だと思っています。池澤夏樹が世界文学全集を編纂する際に、日本文学からはこれのみをエントリーさせたというのがすごいですよね。(2015年3月7日読了)

  • (2016.10.02読了)(2016.09.28借入)
    『苦海浄土』は、いつか読もうと思っていたのですが、三部作になっていたとは知りませんでした。第一部『苦海浄土』、第三部『天の魚』は、講談社文庫で読んだのですが、第二部『神々の村』はまだ文庫になっていないし、単行本は図書館になかったので、三部作全部が収録されているこの本を借りてきました。第二部と解説を読みました。
    『神々の村』は、最後に出版されたのに、どうして第二部なのかと思っていたのですが、書かれている内容が時系列から見ると第一部と第三部の間に入るからということのようです。第三部より第二部のほうを先にまとめて出版してくれたらよかったのに、出してくれる出版社の事情とかがあったのでしょうね。解説には何も書いてないですね。
    この本で、第二部だけを読みましたが、全体で800頁ほどで二段組なので、全部をこの本で読むとしたらかなり気力がいると思います。
    図書館の貸出期間は、二週間ですので一日50頁以上読まないと期限内に返せませんね。
    第二部だけだと250頁ほどで、単行本だと400頁ほどになります。一週間あれば何とか読めそうです。

    胎児性水俣病の患者さんの様子などが淡々と書いてあります。かなり悲惨な状況なのですが、石牟礼さんは余計な感情を交えずに書いています。
    患者さんの話の間に、兎、狸、蜜蜂、唐芋、蜜柑などの話が入ってきます。のどかな村のありふれた生活であるかのような書き方です。
    後半は、巡礼団を組んで大阪での株主総会に出かけてゆくさまが描かれています。水俣の工場には、頭の悪い人ばかりで道理のわかる人はいない。社長だったら道理がわかるだろうと自分たちの気持ちを伝えに行くのですが、・・・。
    一つの企業の流した廃液にふくまれていた有機水銀による中毒で多くの人が亡くなり、体が不自由になり、差別にさらされました。原因に気づきながら手を打たなかった国や企業、その間に増え続ける被害者。水俣病事件の後でも、同じようなことが繰り返されてきました。個人が、意図的にやったことなら、死刑は免れないでしょう。国や企業なら許されるのでしょうか。被害者たちは、責任を取れと言ってるわけではないのですが。
    自分たちがどのような目に遭ったのかわかって欲しいし、二度と同じような目に合う人がないようにしてほしいと言っているのだと思うのですが。
    出来れば、健康な体に戻してほしいということもあるのですが。脳細胞が、壊されているようなので、現在の医療技術では、何ともならないのでしょう。

    【目次】
    第一部 苦海浄土
    (講談社文庫・新装版)
    第二部 神々の村
    第一章 葦舟
    第二章 神々の村
    第三章 ひとのこの世はながくして
    第四章 花ぐるま
    第五章 人間の絆
    第六章 実る子
    第三部 天の魚
    (講談社文庫)
    生死の奥から  石牟礼道子
    解説 不知火海の古代と近代  池澤夏樹
    年譜/主要著作リスト

    ●科学文明(233頁)
    進歩する科学文明とは、より手の込んだ合法的な野蛮世界へ逆行する暴力支配をいうにちがいなかった。
    ●すべて地獄(265頁)
    坊さまが衆生たちにくり返しくり返し話したのはこの世は地獄という説話であったから、ものごころつきはじめにわたしは、現身のあるところすべてこれ地獄であるというリアルな認識に突き落とされた。たぶんその幼児体験は、水俣病事件に出遭うための、仏の啓示であったにちがいない。
    ●聴覚異常(277頁)
    音はきこえるばってん、喋りよる内容はわからん、
    ●国(307頁)
    東京にゆけば、国の在るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ。
    (厚生省の対応について)
    ●ラス・カサス(348頁)
    ラス・カサスの目にうつったインディアスは、水俣および不知火海沿岸の人びとになんと酷似していることか。被害民らが、見かねた少数の支援者らのすすめで裁判に踏み切ったのは、災厄発生以来十五年も二十年も、あるいは三十年も経っていた。
    ●文盲(367頁)
    日本は文盲のない国と言われながら、部落の婦人の中には全く字の読めない人、読めても書けない人が多くおります。
    ●毛髪水銀量(376頁)
    衛生研究所の名において松島氏の分析された、水銀量地区別成績書、昭和36年度の表によればその最高価は、水俣漁民60ppm、津奈木漁民66.5ppm、湯浦93.8ppm、などである。この時期、各市町村衛生担当者には、発病の恐れのある毛髪水銀量のボーダーラインを、50ppmとして通知していたというが、松島氏の希望していた具体的な予防措置は何ひとつ取られなかった。
    ●遺体を連れて帰る(380頁)
    生きて寝とるときは、背中で手足のぶらぶらしとっても、気になりませんばってん、解剖して、ずてずてしとっとですけん、縫い合わせてあるとでしょうが、いつ、ひっ切れるか心配で。
    仏さまの前に、ちゃんと連れて帰らんば。
    ●水俣病補償処理員会(385頁)
    厚生省が任命した水俣病補償処理員会とは、じっさいはチッソが筋を書き、厚生省が加担したにすぎぬ機関であった。
    ●道理のわかる(427頁)
    いくら会社でも上の方にゆけばものの道理や、もののあわれのわかる人物がいると思いたい。

    ☆関連図書(既読)
    「新装版苦海浄土」石牟礼道子著、講談社文庫、2004.07.15
    「天の魚 続・苦海浄土」石牟礼道子著、講談社文庫、1980.04.15
    「水俣病」原田正純著、岩波新書、1972.11.22
    「証言水俣病」栗原彬編、岩波新書、2000.02.18
    「水俣病の科学 増補版」西村肇・岡本達明著、日本評論社、2006.07.15
    「谷中村滅亡史」荒畑寒村著、新泉社、1970.11.20
    「田中正造の生涯」林竹二著、講談社現代新書、1976.07.20
    「沈黙の春」カーソン著・青樹簗一訳、新潮文庫、1974.02.20
    「奪われし未来」T.コルボーン・D.ダマノスキ著、翔泳社、1997.09.30
    (2016年10月4日・記)
    (「BOOK」データベースより)amazon
    「天のくれらす魚」あふれる海が、豊かに人々を育んでいた幸福の地。しかしその地は、海に排出された汚染物質によって破壊し尽くされた。水俣を故郷として育ち、惨状を目の当たりにした著者は、中毒患者たちの苦しみや怒りを自らのものと預かり、「誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの」として、傑出した文学作品に結晶させた。第一部「苦海浄土」、第二部「神々の村」、第三部「天の魚」の三部作すべてを一巻に収録。

  •  昭和30年代に引き起こされた水俣病は、発覚当初に原因は工場の廃液だと判明しながら国とチッソがこれを認めず、多くの犠牲者を出した。著者は水俣病患者と社会との闘争を40年にわたり追い続けた作家で、「故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の言語と心得ているわたくしは、わたくしのアニミズムとプレアニミズム調合して、近代への呪術師とならなければならぬ」と本書で決意のありかを示す。
     著者の筆には、真実を追求・糾弾する社会的側面と、被害者たちの姿を土地の方言を活かした詩的なリズムで刻む文学的側面があるのだが、その類まれな両立は、著者の特性に負うところが大きい。著者は1927年に天草で生まれて水俣で育ち、そして30歳を過ぎたころに作家として水俣病に出会っている。この偶然を、池澤夏樹は解説で、「まるで病気の方が彼女をスポークスマンとして用意したかのごとくだ」と驚嘆する。
     本書は、池澤が個人編集をした世界文学全集に収められている。優れた古典作品ではなく、本書がその一冊に選ばれた意味が、1ページごとに胸に迫る。

  • 水俣での一連の公害は石牟礼道子さんという書き手でこの作品になったのですね。その場所、その時代にこういう書き手がいたことに感動する。
    作品が書き手を選んだみたい。

    被害者と加害者が単純に分けられないところが公害というものなのですね。
    生まれてくるとは、だれかを育てるとは、豊かな生とは、産業の発展とは。しみじみ考える。文章が美しい。

  • 読書暦を、この作品との出会い以前と読了後とに、線で引いて別けたい気にさせられる、決定的な小説。

  •  石牟礼さんの語りがとにかく壮絶で、こういう言い方しかできないけど、本当に、この人は生来の語り部で、それがこのような事件に関わったことで、ありえないほどの目覚め方をしてしまったんだなと、そういうことを思った。それで、今日本では震災とそれに伴った原発事故が起こり、そのどちらに対しても絶句を強いられる、言葉を失った上にそもそもその言葉を持っていたのかすらも危うく思わざるを得ないような状況にあるのだけど、もしそこに言葉を繋いでいこうとするなら、もはやこの手法以外にありえなんじゃないかと、そういうことも、少し思った。魂が乗り移ったかのような彼女の語りは、どこまでも個人から立ち上がってくる言葉でしかないはずなのに、しかしその個人を超越したところにやってくる。個人の言葉が語り部の言葉となったとき、その個人を成立させている汲み尽くせない背景を、すべて背負って語り始める。無限にも等しい歴史を限定して連なった形でしかわれわれは認識できないし、そこに築かれた共通意識から考え始めることに慣らされているけれども、喪失というのは、無限を捨象して築かれた有限の何かが喪失するわけではなく、その背景にある無限そのものがすっぽり失われてしまうことなのだ。だから、その無限に立ち返るしかない(本当はここで無限という言葉を使うのはまずいのだけれども)。とはいってもこの語りはそれこそ一つの奇跡であって、今可能なものかどうかというとまったくそうと言えないとは思うのだけど、言葉が力を持つというのはどういうことか、それを追体験するだけでも、読む価値は、今読む価値は十分にあると思います。

  • 230516*読了
    いやもうすごい、の一言。

    750ページ以上の二段組、それだけのボリュームなのに飽きない。
    むしろ、あっもう終わってしまったんですね…と思う。
    もちろん読書時間は長かった。30時間?もっとかかっているかもしれない。毎日、毎日読み進めた。

    水俣病は遠い昔に起こった病気。教科書でしか知らない病気だった。この本を読むまでは。
    水俣病がこんなにも恐ろしい病気だったなんて、という恐怖がまずやってくる。あまりにもむごい。
    そこから座り込み、チッソとの言い争い、全国各地の救援者たちとのやり取りなど、悲しみが怒りへと変化し、果ては笑いへと…。

    当時、もしニュースなんかで水俣病について知ったとしても、こんな風に援助はできなかっただろうし、もしかすると少ない患者のために国のお金が使われて…なんて思ってしまったかもしれない。
    チッソ側に立ってしまったかもしれない。
    そうして国民の一人として患者さんを死に追いつめてしまったかもしれない。
    そう考えると、怖くなる。
    自分だって、いつ弱い立場に立たされるかわからないのに。

    水俣の人たちの独特の言葉遣いで聞き書きのように語れる部分あり、会報の文章や検査結果の報告文をそのまま載せている箇所あり、座り込みなど鬼気迫るシーンのリアリティあり、といろんな文章が混在するのに、それが全くおかしくなく、すとんと心に落ちてくる。

    世界文学全集に選ばれた唯一の日本人作家、そして日本文学全集にも選ばれているのは石牟礼さんだけ。
    池澤さんはよっぽど石牟礼さん贔屓に違いない、と思っていたけれど、そりゃ贔屓したくもなる。
    一主婦がここまでの文章を書くのだもの。その才能たるや。

    苦海浄土を読む前の自分と、読んだ後の自分。
    自分にしかわからないだろうけれど、変わった。

  • 2019.09―読了

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著者プロフィール

1927年、熊本県天草郡(現天草市)生まれ。
1969年、『苦海浄土―わが水俣病』(講談社)の刊行により注目される。
1973年、季刊誌「暗河」を渡辺京二、松浦豊敏らと創刊。マグサイサイ賞受賞。
1993年、『十六夜橋』(径書房)で紫式部賞受賞。
1996年、第一回水俣・東京展で、緒方正人が回航した打瀬船日月丸を舞台とした「出魂儀」が感動を呼んだ。
2001年、朝日賞受賞。2003年、『はにかみの国 石牟礼道子全詩集』(石風社)で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2014年、『石牟礼道子全集』全十七巻・別巻一(藤原書店)が完結。2018年二月、死去。

「2023年 『新装版 ヤポネシアの海辺から』 で使われていた紹介文から引用しています。」

石牟礼道子の作品

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