女ことばはどこへ消えたか? (光文社新書 310)

著者 :
  • 光文社
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感想 : 7
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  • Amazon.co.jp ・本 (341ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334034115

作品紹介・あらすじ

二〇〇七年現在、女のことばと男のことばは、見分けがつかないくらい接近し、似たものになってきている。一〇〇年前の明治、東京山の手。「よくってよ。知らないわ」「歩きます」「ほゝゝ可笑しいでせう」女の使うことばには、必死で思いを伝えようとする生き生きとした意思が反映されていた。一九〇八年の『三四郎』を手始めに、江戸のさまざまな年齢、階層の女たちのおしゃべりを綴る『浮世風呂』、室町時代の女房ことばの工夫まで、各時代の女性たちが何を伝えようとしてきたのか、それらを表わすことばはどう変化し、受け継がれていくのかを、時代を遡り詳細に検証する。

感想・レビュー・書評

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  • 大学での専門分野を学ぶために読みました。

    夏目漱石の作品を中心に「女ことば」が考察されていました。
    読んでいるときはなるほどーと思っていましたが、『「女ことば」はつくられる』を読んだ後に、結局は男の考える「女ことばに」過ぎないんだよね。って気が付いてしまいました。

    当時の談話資料なんてないし、これからどう進んでいくべきか……。

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「結局は男の考える「女ことば」に過ぎない」
      あまりに女女と言うコトへの反動かな?と思うのですが、言葉自体が短くなって男女の区別が出来なくなっ...
      「結局は男の考える「女ことば」に過ぎない」
      あまりに女女と言うコトへの反動かな?と思うのですが、言葉自体が短くなって男女の区別が出来なくなったのかな?とも思っています。
      2012/05/28
  •  『三四郎』から明治時代の女ことば、そして『浮世風呂』から江戸時代後期の女ことば、さらに室町時代に宮中に使える女房たちの間で生まれたことばである「女房ことば」を列挙し、そして著者が接する女子短大生に対するアンケートから、現代の女ことばの諸相を見ようというもの。
     とても読みにくい上に、一体これは日本語学なのか国語学なのかよく分からないが、この著者は学問として何をやりたいのか分からない。まず、読みにくさの原因は、文学作品からの膨大な引用と、そこに現れる女性のことばを、登場人物の心情を読み取りながらつらつらつらつら挙げていくにとどまっていることだと思う。おれの教養がないせいで『三四郎』も『浮世風呂』もよく知らないが、知らないものについてくどくど語られた挙句、こんな気持ちで語尾がこうなっています、あんな言い方もあったようです、などとやられても、正直、面白くない。分析と言っても、結局、感覚的なものが多い。「~ね」という「文節の合い間に適宜挿入される間投助詞」(p.92)について、「美禰子さんがね、兄さんに文芸協会の演芸会に連れて行って頂戴って」を「美禰子さんがね、兄さんにね、文芸協会のね、演芸会にね、連れて行ってね、頂戴って」のように話すと「小学生の女の子の話しことばとなってしまう。若いが、教養と品性あらんと欲するよし子は、(略)効果的に一回のみ使ったのである」(同)と分析しているが、全ての文節に「ね」を入れる極端な例と比較させられて、一回だけだから教養と品性がある、と言われても、そんな分析は可能なのかと思ってしまう。二回以上挿入されたらどうなるのか、純粋に「ね」の回数が本当に教養や品性を表す指標と関係あるのか、そもそも当たり前の話を大げさな結論付けにしてるだけなんじゃないのか、とか引っかかってしまう。同じように文末の「の」の分析で、「『の』による問いかけをしなくなりつつある現代でも、母親や女性教師が年少者に、『なんでそんなことをしたの』と問いかけ、相手の本心を聞き出し、反省へと導こうとする際に生かされている。やさしく『の』で包むことによって相手の心をこちらへ溶かしこもうとするのである。」(p.108)という、訳の分からないことが書かれている。まず、おれは男性の教師だが、「の」を使うことだってあるので、どうせなら男が使う「の」と女ことばの「の」の違い、とかを分析した方が面白いと思う。そして最後の「やさしく『の』で包んで相手の心をこちらへ溶かしこむ」なんて、そんなことは状況によりけりであり、単純に言語形式から導き出せる結論じゃないのではないかと思う。同様に、「『ございます』という五音を入れ込むだけで、文末にゆったりとした時間(とき)が流れ、聞く方にも心のゆとりをもたらす。双方のゆったりとした会話が、双方の心のやさしさ、いたわりをもたらし、会話の内容が殺伐とすることはない…このような良い循環を、適度な敬語表現はもたらすのだと、この例を見て強く感じる」(pp.154-5)らしい。結局は著者の感覚が語られるだけ。時間を「とき」と読ませたり、「…」でひとり悦に入っている場合ではないんじゃないだろうか。中村桃子さんの『性と日本語』のように、社会学っぽくなってもよいので、もっと鋭い分析や深い考察を見せてほしい。
     もう1つは、著者は大学で「日本語学概説」みたいな講義をしておきながら、言語学としての日本語を教える以上に、ことばの「規範」、「きれいな(美しい)ことば」、「女性らしいことば使い」、みたいなことを考えさせ、それを読者にも伝えようとしている点で、これは結局はエッセイなのか、と思ってしまった。「日本語学という学問を知るために私の授業をとったというよりも、自分の日本語に自信がないので、この授業で少しでも美しい日本語を話せる人になりたいと集った若者たち」(pp.219-20)と言うが、それはあなたがそういう講義をしているからなんじゃないのか、と考える。だいたいアンケートで「言葉遣いの乱れを改善するためには、どうすればいいと思いますか」(p.254)とか、「ことばおばさん」的なことがやりたいのだろうか。そして極めつけはアンケート結果の学生からのコメントで、「だから、日本語学をとって、もっとしっかりした言葉遣いを身につけたいと思いました。よろしくおねがいします。」(p.260)みたいな結果が出てきたことを紹介し、「いつか美しい日本語を育てる感性に育ちゆくものと期待したい」(p.263)となる。もっと分かりやすく女ことばの発生や変容の過程、その原因、使われ方などを解説してくれることを期待して選んだ本であっただけに、ことごとく裏切られた感じだった。
     それでも面白いと思った部分は、「『ね・さ・よ運動』として小・中学校教育における矯正が徹底したおかげで、間投的に用いられる『ね・さ・よ』は少年少女の口より利かれなくなった」(p.128)という部分。そういう運動があったんだ、と思った。そしたら、千葉で有名な「ジャガーさん」の歌なんか「サ」だらけで、ああいう歌はこの時代には悪になってしまうのか、とか関係ないことを考えた。(17/06)

  • 著者小林千草氏は元東海大学文学部教授の国語学者で68才。本書の執筆動機を次のように言う。「(乱暴な男ことばをしゃべる)若い方々に女ことばの歴史(中略)を語り、では、自分はどのようなことばを装おうかと考えていただきたいからである」と。本書は漱石の三四郎をテキストとして「女ことば」の美しさを説いているが、如何せん文字であるので話ことばとしてのニュアンスは出ない。それを知るには小津映画の数々のヒロインの口吻に触れるが一番ではなかろうか。(本学職員推薦)

    ↓利用状況はこちらから↓
    https://mlib3.nit.ac.jp/webopac/BB00500658

  • 久々の新書。著者は東海大学文学部の教授でもある。
    確かに「なのよ」「ですわ」「かしら」などと行った言葉を使う女性、最近いない。自分も使わないし。小説にそのような言葉尻の会話が出てくると、違和感を感じるほどだ。そして今や、女性も男性も区別がつかないような乱暴な言葉がはびこっている。本著はそれを古典文学等の歴史を紐解いて、今一度言葉のあり方を考える本。
    古典文学の言葉の件は、馴染みがないせいか、いつのまにか読みながらうとうとしてしまっていた。
    でも言葉って少し変えるだけで印象も変わるから面白いな。

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著者プロフィール

小林 千草(こばやし ちぐさ)1946年生まれ 東海大学文学部特任教授 博士(文学 東北大学) 佐伯国語学賞・新村出賞受賞 2021年逝去

「2023年 『幕末期狂言台本の総合的研究 和泉流台本編2』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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