科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

著者 :
  • 幻冬舎
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感想 : 283
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  • Amazon.co.jp ・本 (197ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784344982208

感想・レビュー・書評

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  • 「数学が得意であること」と「数字で量を見積もれること」と「科学的であること」というのは少し違うことであるような気もしてわたしにはちょっと理解しにくい本でした。数学のもう一つの面である「論理整合性」をあまり考えていなくて、「文系」だから「数学が苦手」という話で進めてしまったのはちょっともやもやします。理系の私からすると最も「文系」的な分野の一つである「法学」こそが数学との親和性が高いと感じているのでちょっと残念な本でした。

  • これだけ科学技術が発展した現代において、科学離れ(科学的無知、無関心)が顕著になっている。
    特に文系と称される人々は、数学が苦手だからといった些細なことで自ら考えることを放棄している。
    科学とは、自ら理性的に考えることであり、また現代に生きるには必要不可欠なものである。

    是非とも自称文系の人々にこの本を読んでもらいたい。
    僕自身文系学部に属しているが、自分はより理系的な人間だと自負しているし、数学等を切り捨てて文系に進んだ人を哀れに思ったりもする。
    そんな視点からこの本を読ませていだだくと、すごく納得できました。
    しかし、こういうタイトルの本を手に取らないのもまた文系人間の特徴だとも思う。
    森さんは理系、文系と二つに分類すること自体に否定的であるようですがねw

    現代日本はお上(特にマスコミ)の言うがままに生きる人が多いように思う。
    常に正しく必要なことだけが報道されていると思い込み、自ら考えることを放棄している。
    その方が楽だし、他人との協調性も取れるのだろうけど、果たしてそれが正しいことなのだろうか?
    そもそも何が正しいなんていう普遍的な心理は存在しない、ならば自分が思うように、ある意味自己中心的に生きることが人生において大事なのでは無いだろうか。
    もちろん社会で生きていく上で自己中心的であってはまずいが、だからと言ってイエスマンよろしく何でもかんでも鵜呑みにして従うのは間違っている。
    我思う故に我ありとは良く言ったもので、考えることこそが人生だと思う。
    理性的に考えることを放棄した時点で、人生をやめたに等しいといっても過言ではない。
    思考しない人生はそういうのが得意な機械に任せておけばいい。僕は人間らしく生きる。

  • 【ベストセラーのベストセラーたる理由を考える】

    Vol.04 科学的とはどういう意味か

    工学博士と小説家、2つの顔を持つ著者による
    「科学啓蒙」の読み物。
    2011年3月31日に書かれたということで、
    震災後の話、すなわち「災害対策における科学的態度」
    のような話も結構出てくる。

    本書の著者サイドのスタンスは、
    「科学から逃亡する人たちに言いたい:
     それではあなた自身も社会の未来も不利益をこうむりますよ」
    というもの。
    それを、平易な言葉で、200ページ足らずの新書に
    エッセイ的につむいでいる。

    さて、本書の内容ははっきりいえば、
    科学が得意なおじさんが、「ちょっとこれだけは言わせてよ」
    で書いた程度であり、
    ぶっちゃけこの人が著者じゃなければベストセラーになるとは
    思えない一冊である。

    もちろん、著者もそれを分かっているわけである。
    p.105にこんな文章がある。

    「運良く沢山の人が読んでくれて、僕は使い切れないほどの
     印税を得た。だから、今はもう、そういった商品開発の
     必要がなくなってしまった。」

    こういう境地にはなかなか達することができるものではないし、
    ましてやそれを自分の著作内でさらっと言えるものではない。
    この著者は、そのあたり突き抜けているとは思う。
    本書は、だから、カネが欲しくて書いたのではない。
    世の中に跋扈する「科学を遠ざけるトレンド」をなんとかしたいという
    純粋な熱い思いで書いたんだろう。

    とはいえ、本書の読者はどんな人なんだろう。
    データを見ていないので知らないが、おそらくは著者の小説のファンが
    大半なのではなかろうか。
    その人たちは、著者のいう「理系」かもしれないし「文系」かもしれない。
    もし文系的思想の人が多いのであれば、まさに著者の狙いは
    上手く行っているだろう。そういう人たちを啓蒙したいわけだから。

    とはいえ、そこで実際に啓蒙は起こっているのだろうか。
    たぶん、Noだと思う。
    著者は工学系研究者であり、その道に関する見識は高いと思うのだが、
    人間の本質に対する科学知識、すなわち神経科学や遺伝生物学や、
    そっち方向についての理解が乏しいような印象を受ける。
    つまり、
    「なぜ人がそういう振る舞いをしてしまうのか」の掘り込みが
    ほとんどない。
    だから、「科学的であれ」と言いながらも、人間に対する見方が
    著者の経験談と思い込みのステレオタイプから残念ながら
    出られていない。

    p.175に
    「科学が発展途上だった時代には、大勢が科学に興味を持ち、
     簡単なことは理解していた。」
    とあるが、それについて明白な論証はない。
    どうにも、「昔は良かった論」みたいな感じが否めないのである。

    ま、それはさておき話を戻すと、
    これ一冊を読んだくらいでは「科学的に」なる人が続出するとは
    残念ながら考えづらい。
    そもそも、私たちは科学的にモノを捉えるのは苦手なのだ。
    無論、中には生得的に高い資質を持つ人もいるが(特に男性は)、
    多数派とはいえない。

    第一、本当に著者が「科学的であってほしい」と望む人たちには
    本書は届いていないと思うんだよね。
    人間は、自分の興味の外にあるものは、よほどの転機がないと
    目に入らないものだ。

    もちろん、「科学啓蒙したい、平たい言葉で」という著者の
    志は素晴らしいものだということは否定しない。
    だが、それがまず構造上成立しうるか、ということが1つ。
    そして、その方法としてこういう出版は適切か、ということがもう1つ。

    本書がなぜ売れるのかというところに立ち返ると、
    別に科学的になりたいという「自己変革を望む人」が多い、という
    すばらしい話ではまるでなくて、
    著者の小説の好きな人が買い、あるいは本屋に平積みされていて、
    テーマで「科学か~。昔は数学も結構得意だったんだよね。」くらいの
    いわば「理系素養」の残っている人が手に取るから、とか
    そういうあたりがメイン・カスタマーだろうと私は推測している。

    なので、これが人気であっても、さして構造的にも面白い話でもない。

    最後に「科学愛好家」として著者に注文をつけるならば、
    せめて巻末に「より学びを深めたい人のための参考書リスト」でも
    つけておくべきではないだろうか?
    ニュートン、デカルト、ガリレオあたりからアインシュタインといった
    科学者の成果を紹介している平易な書籍であるとか。
    あるいは、当代一流の科学者、科学ライターたちの科学啓蒙書だとか
    (リチャード・ドーキンスなり、村上陽一郎なり)。

    そういった「科学世界への広がり」を提示しないことには、
    科学啓蒙書としては片手落ちだと私は思う。
    申し訳ないけど、「おっさんの言いたいこと言っただけ」で終わる。

    【読了時間:20分】

  • 言葉で説明出来る結論だけを求めるのではなく、基づくデータや過程を繰り返し検証する考えて方を今一度見直さなければならない。

    結論だけを求める考え方の危険性を考えさせられた。

    科学的=他者による再現性

    つまり、同じ条件下でいつでも誰にでも再現出来る現象が科学現象。

  • 理系かつ森ファン相手なら半ページで伝わる内容を新書一冊かけて説明する森先生の優しさを感じる一冊。肝心の文系の読者に読まれているのか、ちょっと心配。

  •  う〜ん・・。なんか急いで書きすぎのような。新書の悪いところがでてしまったような一冊です。
     新書は良く言えば「今欲しい知識をその場で」「週刊誌よりも詳しく丁寧な解説」が信条なのですが、それが悪いほうにでると「今しか売れない」「内容が希薄」になるように私は感じます。
     本書もその背骨である「理系的な考え方の大切さ」はとても大切ですし、強く共感します。原子力発電や地震、津波の科学的な分析とデータをどう理解し、事故が生き延びる為に使うのか。そうした力は全ての人々に必要です。そうした力を育てる事のない現在の教育や社会の在り方に疑問を持つ一人です。
     それだけに、こうした大切なテーマで「震災後に慌てて出した感」があるのは残念です。
     一読して感じた事は「理系VS文系」という対立軸での著者の苦労話に終始している、ということです。私も理系から文系への落武者ですので、その違いがある程度分かるつもりですが、でもそれは個人差以上のものではないように思います。文系でも「著者が言うところの科学的」な考え方をする人は大勢いますし、理系でも逆の人もいるでしょう。
     読んでいて、砂を噛む感じがしたのは、まるで血液型で性格分けをする女性たちのように感じてしまった事です。

     ただ、「東京ドームに例えるのは」など随所に成程!と思えるところもあり、そうしたところを拾い読めば面白い一冊だと思います。

  • 理系小説家の森氏による、あらゆる世代へ向けた「科学を毛嫌いしていると損するぞ」というメッセージに貫かれた一冊です。
    ともすればあいまいになる日々の言葉の把握ですが、己の尻を叩くためにも、折りに触れ再読したいと思いました。

  • 筆者は理系であることで人に馬鹿にされた経験があるんだろうか。

  • 760

  • 「科学」について考察したエッセイ。
    物事の理論を解明し、再現性を重視するのが科学の役割だが、近年の風潮として原因と結果だけを求める傾向があるため、科学は敬遠されやすい。著者は、作家で建築分野の研究者でもある。その観点から科学的な考えや文系人間について、自身の見解を述べる。
    この本が書かれたのは東日本大震災が発生した時期で、日本の世論が地震や原発問題で揺れていた。メディアでは、普段聞き慣れない単位(ベクレルやシーベルト)を使って被害状況を伝えたり、原発について理解していない文系コメンテータが感情論に訴えたりしていたが、科学をよく理解していれば、メディアに踊らされることは無いはずと言う。理系は過程を重視するが、文系は結果だけを鵜呑みにする傾向がある。自分で判断する根拠として、また論理的に推理する方法として科学がある。
    メディアに溢れる識者のコメントの信憑性を判断するために、科学の正しい知識を持つ事が重要。科学知識も常にアップデートされるので、日頃から情報に接しておくことも必要だと思った。

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著者プロフィール

工学博士。1996年『すべてがFになる』で第1回メフィスト賞を受賞しデビュー。怜悧で知的な作風で人気を博する。「S&Mシリーズ」「Vシリーズ」(ともに講談社文庫)などのミステリィのほか「Wシリーズ」(講談社タイガ)や『スカイ・クロラ』(中公文庫)などのSF作品、エッセィ、新書も多数刊行。

「2023年 『馬鹿と嘘の弓 Fool Lie Bow』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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