ルポ塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体 (幻冬舎新書)
- 幻冬舎 (2016年1月29日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (202ページ)
- / ISBN・EAN: 9784344984073
感想・レビュー・書評
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鉄緑会とサピックスについての考察。外部からはイメージしか分からないことが多いので、参考になる。
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結局地頭がいい子が、自分にとってベストの環境を選んで、素直に努力するなら、どこにいこうが関係ないのだろう。
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サピックスと鉄緑会の関係が分かった。
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東大に行くのって大変なんだなと思った。
勉強で頑張って、名門中学に入っても、すぐ塾通いで猛勉強なんてつらすぎる。
こんなにやらないと東大に行けないなら、東大に行かなくても(子どもを行かせなくても)いいなと思うダメママです。
塾は塾でいい教育をしてくれるので、学校の勉強に物足りず、もっと勉強したいという気持ちの子どもにとってはいいと思うのですが、本文に出てきたような親主導だと辛いだろうなと思います。
自分には未知の世界を教えてくれた本でした。 -
日本の頭脳である東大エリート集団が、
SAPIXから鉄緑会のキャリアを経ることが
主流であるとしたルポ。
通常あまり表出されない日本のエリート教育が、
塾業界にて行われているという側面をあぶり出している。
学校側から見ると塾は補完的な存在であり、
塾歴が主導権を握っているという事実を
認めたがらないものではあるが、
もはやその存在を否定することはできないまでに
教育支援業界は成長を遂げている。
学校と塾の役割分担をはっきりさせ、
共存を図っていくことも必要であると思う。 -
ずいぶん前に日能研に通っていた。
本当に楽しかったし、悔しい思いもしたし、その頃の友人とは今でも仲が良い。
当時からサピックスは知っていたがいつの間にやらエリート教育コースの一部になっていたようだ。
一方、鉄緑会の方は全く知らなかった。
この塾の指定校ではなかったし、知ったところで学力不足で行けなかっただろうが。
中学受験そのものは悪いとは思わない。
そのメリットについては、ここでは語らないが、「与えられたものに対して疑いを抱かない力が求められる」(148頁)のは問題だ。
私は教師からしてみれば良い生徒ではなかった。
理由の明確でないもについては反抗したし、説明を求めたからだ(だって自分は茶髪にパーマなのに生徒はダメなんて全く説得力がないでしょう?)。
おかげで私のことが大嫌いな教師も何人かいた。
しかし社会科教師には総じて評判が良かった。
もちろん成績が良かったのもあるだろうが、社会科は「なぜ」をどの教科よりも考えるからだと思う。
「なぜ」を考えずに大人になれば、その子供は使い捨てにされるだけだ。
王道に必要なのは「回り道」(168頁)と著者が指摘するように、最短距離を行くことだけが人生ではないのだ。
無駄を省けと皆がそれを求めたら、その社会は脆弱で誰に取っても生きにくいものになるだろう。
誰しもが何もできない赤ん坊として生まれ、思うように動けなくなる老人になるのだから。
言われたことだけをきっちりやる、このような教育を求める教育システムにも問題がある。
教育の画一性はすべてのものに等しく教育を与えrという面では大いに評価できる。
格差の小ささがこれまでの日本の教育がもたらしたメリットだ。
一方で遠回りを許さないというデメリットもある。
日本の教育はこれまでのやり方を見直す時期に来ているのかもしれない。
巻末の覆面座談会はメンバーが若いせいもあるだろうが、「代替可能な人間になりたくない」という気持ちが大きすぎると感じた。
しかし、誰もがそんな特別な人間になれるわけでもないし、取り替えが効かない人間ばかりでは社会は回らない。
必要なのは、私がいなくても回るような社会を作るために尽力することだと思う。
特別ではない、非エリートの私はそんな「歯車」であることに誇りを持って言いたい。 -
「サピックス小学部」の上位クラスの子供たちが、トップ校に合格し、入学御は「鉄緑会」に入るという流れが東大合格者の主流になっているとか。
しかし2020年の大学入試改革以降はどうなるのであろうか。それについての記述がなかったのは残念。 -
東大受験のエリートが中学受験の「サピックス」、大学受験の「鉄緑会」から生み出されているというレポートである。
鉄緑会は東大理Ⅲの合格者の6~7割を占めると言うことでその名を知っていたが、サピックスは知らなかった。いずれの有名進学校の生徒が塾として通っている。
両方の塾とも大量の勉強を相当なスピードで教えるので、それをこなせる子だけが勝ち残り、ついて行けない子は脱落する。要はできる子はできるし、できない子はできないと言う身も蓋もない話である。
勉強することが才能の一部で、要領よく勉強して良い成績を出すという信じられないような子がいるということにはびっくりする。そして、才能のすべてを使ってついて行ける程度ではいずれつぶれると言っているように思える。
スポーツのエリートも同じような環境に置かれているのであろうから、才能を伸ばすという意味では一定の理解はできる。
著者は「50mを10秒で走れない子に、夜10時までランニングの練習をするように親が強要するだろうか」と言い、勉強だけは誰でもがんばればできると考えていることに疑問を呈している。確かにある一定以上の勉強は才能は必要なのだろう。しかし、いやなことでも我慢して続けるという忍耐力を鍛えることは何事にも必要だと思う。もっともそれが勉強である必要はないとは言えるが。
最後に著者は大きな才能には大きな責任が伴うと言っている。しかし、それこそ教育しなければならないように思うが、社会のありよう、文化によって違いが大きいのでなんとも難しい。学校教育の道徳ではおそらく無理だろう。 -
名門塾歴から見る実情。筆者の『王道』の考え方は勉強になった。