- Amazon.co.jp ・本 (354ページ)
- / ISBN・EAN: 9784469221008
作品紹介・あらすじ
明治5年12月2日の翌日は明治6年1月1日。「時」に縛られる現代人の生活は、そこから始まった。秘密裡に進行した太陽暦改暦の真相や、時刻制度・年号制度・皇紀・祝祭日・週休制など、一連の「時」のシステム化の全貌を、豊富な資料と図版とを駆使して解明する。
感想・レビュー・書評
-
明治5年12月3日を以って明治6年1月1日(西暦1873年)とする改暦。実は明治政府が12月分の給与そして、明治6年にあるはずだった閏月の人件費を節減することが一つの動機だったとは知られていることであるが、詳細な説明から、それも一つではあるものの、欧米諸国から遅れた国との認識の解消にあった!当時の人々の戸惑い、太陰暦と太陽暦の優劣を巡る論争が毛唐に敗北するとの日本国粋主義と結びついての抵抗感など、興味深い。そして「明治」元号の一世一元の実施、神武皇紀の導入、従来の節句などの市民生活に結びついたものから天皇制に合わせた祝日への改革、1日,6日休日制から7曜制導入による日曜祝日化、1日24時間の正式導入など、ほぼ同時期に行われていたことも、現代化、国際化、天皇制強化による中央集権化を行う上で極めて大きい文明開化の施策だったと痛感する。7曜制が平安時代以来「具注暦」に記載され、七値とも呼ばれて日本人にとってはまんざら馴染みのない存在ではなかったとは、目から鱗。楽しい話は安土桃山時代に日本に西からアジア経由で来たポルトガル人と東の新大陸経由で来たスペイン人の曜日がずれていたため、スペイン人は一日遅れで日曜礼拝をしていた!曜日のない日本人を含め、「3つの時間」が存在していたということに感慨さえ覚えた。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
もともと『天地明察/冲方丁』から踏み入った暦と数学の世界ですが、暦についてはこれで一旦終了。手探りしながら進んでいる全くの素人の道案内をしてくださった、岡田芳朗先生の著作類の集大成であったように思います。いえ、私はきっとまだ『解っていない』のでしょうけれど…。
だいたい、旧暦は「今の暦より一ヶ月ずれているのね」程度の認識だったのです。その程度の私でも専属ガイドのおかげで、時間の認知と記録の歴史をじっくり辿り私の知っている現代の時までゴールすることができました。
2010年本屋大賞、映画封切りも間近『天地明察』の貞享暦のその後や渋川春海の子孫たちの活躍についても触れられています。
本題は、人智を超えるところで流れている時をどう捉えたか、また治世においてどう扱った(翻弄された)か膨大な資料から丁寧に解き明かしてくれます。これまで読んでいた歴史図書の読み方も変わりそうですし、時間は時計とカレンダーの上で動いているのではないことを捉えることができました。こんなに宝物の詰まった本を2884円(税込)で読んでしまってよいのでしょうか。…図書館に返却後、購入しました。岡田芳朗先生についてももっと知りたいと思いました。 -
日本では江戸時代まで,旧暦を使っていた。旧暦は太陰太陽暦で,新月を1日とする1ヶ月29日か30日の暦だった。満月がだいたい15日になる。季節は1年で一巡するが,これは月の周期29.5日で割り切れない。そこで1年が12ヶ月ある年と13ヶ月ある年があった。基本は正月*1から十二月の12カ月で,だいたい19年に7年は閏月を加えて13カ月にしていた。
今から130年ほど前の明治5年11月9日,太陽暦への改暦が布告された。その年の12月3日を,明治6年1月1日とするというのである。いきなり来月は2日間で打ち切る,というのだから無茶な話だ。実施まであと僅か23日しかない。当然、既に翌明治6年の暦は従来の暦法(天保暦)でつくられ,販売されていた。明治も始まったばかりで,鉄道はまだ新橋横浜間しかなく,電信は東京大阪間が通じたばかり。東京からみて最も辺鄙な宮崎までは布告到達に21日もかかる。全国にこの布告を行き渡らせるだけでギリギリのタイミングである。
当時,岩倉具視以下新政府首脳は足かけ3年の欧州視察中。留守政府はあまり急激な改革をすすめぬよう釘を刺されていたのだが,結構おかまいなしでいろいろ新政策を実行に移している。わけてもこの改暦は国民生活に直結する重大な改革であった。なにしろ,お月様が晦日に出たり,15日に大きく欠けるなど,当時の人々の常識では理解不能。太陽暦導入など想像もつかない一大事だったのである。
確かに,太陽暦が太陰太陽暦より優れていることは自明であった。開国以来,海外との貿易では,彼我で異なる暦を使っていることが非常な不便をもたらしていた。もともと旧暦は月日と季節が毎年ずれるので使いにくい。また,旧暦では公式の暦に数々の迷信が書き込まれており,進歩的知識人から批判が絶えなかった。今日は何々将軍が艮の方向にいるから,そちらは避けるとか,この日は嫁取りに凶とか。暦は迷信のかたまりで,人々はそれに基づいて行動し,ただでさえ生活は楽でないのに,それに輪をかけて自らを束縛していた。福澤諭吉は国民の蒙を啓くべく『改暦辨』を著して旧暦の非合理,太陽暦の有利を説いた。この冊子の最後で福澤は「此改暦を怪む人ハ必ず無学文盲の馬鹿者なり」とまで言う。「文盲人の不便ハ気の毒ながら顧るに暇あらず」とも。政府のみならず啓蒙家までずいぶんと乱暴なことだが,『改暦辨』は売れに売れた。たった6時間で執筆したのに印税はすごかったらしい。
実は,この急な改暦の大きな理由は,新政府の財政が逼迫していたためだったという。留守政府を預かっていた大隈重信がのちにそう回顧している。翌明治6年は,天保暦によると閏月があり,1年が13ヶ月になる。政府から役人への俸給は,維新後年俸から月給制に変わっていた。だからこのままいくと,明治6年の人件費が普段より多くなってしまい,政府にとってはきつい。そこで明治5年の12月を2日で打ち切り,太陽暦に移行することによって,コストダウンをはかった。ずいぶんせこいが効果はでかい。2日しかない明治5年12月は,給料なし。13ヶ月のはずだった翌年も,12ヶ月分の給料ですむ。まるで魔法のように2ヶ月分の給料が節約できたのだ。どうせ早晩改暦をするなら,もっとも有効なタイミングでするに限る。(しかしよく考えると,改暦で2ヶ月分まるまる節約できたとは考えにくく,せいぜいひと月の日数が増えたことによる節約効果しかなさそうだ。大隈の勘違いだろうか。)
こうして改暦は断行されたが,人々の旧暦への思い入れは強かった。各地で起きた維新反対の暴動はたいてい太陽暦廃止も掲げていた。明治が終わるまで,暫定措置として公式の太陽暦にも旧暦の日付は併記されたものの,迷信の類は一切記載されなかった。しかし迷信事項こそ旧暦の核心部分である。多くの人にとってこれでは不満であった。そのため非合法の暦であるおばけ暦が登場する。これが正式の暦よりずっと売れた。おばけ暦は従来の暦と同様迷信が満載。需要があるものはいくら禁止しても必ずヤミで出回るのである。
迷信を信じた当時の人を我々も笑えない。六曜は旧暦に基づく迷信だが,結婚式は大安がいい,などはいまだに誰もが気にするものだ。しかも六曜は歴史ある由緒正しい(?)迷信ではなく,明治以降に普及した新参者の迷信である。暦について一般向けの良著が多数ある内田正男は,現代にまで旧暦にまつわる迷信がはびこる風潮を痛烈に批判している。旧暦を使う占いのように,暦を神秘的なものとして振りかざす輩は,人々の無知につけこんで金を稼ぐろくでもない寄生者であるとまで言う。まあ今では頭から信じている人はそう多くないだろう。占い師は一種のエンターテイナーというところか。
最近まで飛び抜けて実害のあった迷信は,丙午である。丙午年に生まれた子は災いをもたらすというこの迷信のため,明治に統計を取りだして以来,60年に一度出生数が異常に低くなる。次の丙午は平成38年。果たして出生数の低下は見られるのだろうか。 -
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/4469221007
── 岡田 芳朗《明治改暦 ~ 「時」の文明開化 19940610 大修館書店》