- Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480086358
作品紹介・あらすじ
恐れることはない、とにかく「盗め!」世界はそれを手当たり次第にサンプリングし、ずたずたにカットアップし、飽くことなくリミックスするために転がっている素材のようなものだ-「作家」と「作品」という概念およびその成立の正当な基盤とされる歴史性と美学、ひいては「近代」の起源そのものの捏造性を看破、無限に加速される批評言語の徹底的実践とともに、まったく新たな世界認識のセオリーを呈示し、その後のアート、カルチャーシーンに圧倒的な影響を与えた名著。「講義篇」増補を含む。
感想・レビュー・書評
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samplingやquotation、怪しさ、いかがわしさ、シミュレーションによる虚構の露呈/暴露、等々、矢張り浅田彰「逃走論」の潮流がバブル終焉の時代、最後に放ったあだ花ということ。その後の「逃走=闘争」は村上隆的な、いわばアートとして売れたものがアート、という(きわめて中庸でフェアーな)価値のみを残しポストモダンは動物化するということだろう。パフォーマンスに於けるなさけなさの露呈などと格好よくいうが、上方には「わやく」や「おちょくり」といった言葉があることを思えば、「そう、たいそうに…」という思いが頻り。歴史のcheap化が現在のcheap化しかもたらさないことを知ってか知らずか、現代アートは一種の歴史主義的ニヒリズムの裡に実際には「安らかに遊んでいる」ようにも見えてしまう。ゲリラ戦と言おうが何と言おうが、いわゆる「ダッコウ」理論を持って極めて「真面目に」遊んでいるということだ。「真剣に」遊んでいる者が、いつも新たなアートを生み出してきたのだろうが、いづれにせよ現代アート論というものは、いつも言葉のラグに強度を吸い取られていくということだ。
パンク論は面白く読んだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
美術批評家、椹木野衣の強烈なデビュー作。いやぁ、面白い。アジるアジる。そしてちょっと懐かしい。当時は「〜は死んだ」とかいう断定が可能なだけ、何かが生き残ってたんだなぁと感じる。この本で多用される(日本・現代・美術でもあるけど)「そうではなくて」は、蓮實重彦経由か。とにかくこの著者は、海外の美術や音楽をひっぱってきてばっかと言わてたけど、文体そのものは同時代の日本国内の、主に文芸批評が基盤にあると思う。
この本の「面白さ」は、そこに刻印されている時代性を超えて、ある強度を今だ保っている。その強度を支えているのは、実は一見怒りに見える否定的な素振りに収まらない、異形の情熱だと思うのだ。「否」を連呼しながら、しかしその連呼を生み出す基底には、最終的な肯定がある。もちろん、その肯定は単なる現状肯定とかとは無関係な、生のインテンシティの高さにだけ捧げられていて、だからこそあらゆる「死体」に向かって「お前はもう死んでいる」(古)という十字架をつきつけまくるのだ。椹木野衣のこの本は単純なニヒリズムではない。単純な破壊でもない。むしろ古風なまでに創造への指向を持った、悦びの肯定を歌う本なんだと思う。 -
サンプリングやリミックスなどの総称としての「シミュレーション」ニズム、という着眼点は共感するものがあったが、どうやらいろいろなところに寄稿した小論の寄せ集めなのか、アート論や現代アヴァンギャルド事情などあまり表題に関係ない内容が多く残念。カットアップやサンプリングミュージックがかたくなにハウス由来であることを強調しているのも謎。絶対違う。
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simulationやappropriation
=音楽でいうsamplingやremix
戦後のアメリカ美術
minimalism、land art、conceptual art
精度にすぎない絵画や彫刻といった制度
→80年代
歴史的展開の必然性を無視neo expression
ジュリアン・シュナーベル、デヴィッド・サーレ、キース・ヘリング、ジャン・ミシェル・バスキア
サンドロ・キア、エンツォ・クッキ、フランチェスコ・クレメンテ
ゲオルグ・バゼリッツ、A・R・ペンク
日本 ニューペインティング
neo gioからneo pop
ネオイズム
理論的背景を付与することによって、流通可能にするsimulationism
レーガンによる新古典派経済政策、投資の規制緩和
106
133ボードリヤール
138 …「表現の自由」などという戯れの前に猶予される動物的痴呆性を前にして、批評の攻撃性と闘争性が放棄されてはならない。
167
176 フェミニズム理論
249 引用は肥大、samplingは霧散
引用は収奪、samplingは没収
305 スプラッター
332 ブラック・ロック
黒人が白人のために演奏する白人よりもうまい白人音楽
349 simulation artにおけるシミュラクール
362 ウクライナ・ポストモダン
386 冷戦構造の崩壊とともに敗北したのはアメリカ美術であった
→フランス中心のワールドアート体制
「大地の魔術師」展
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サンプリング、カットアップ、リミックス。それらをハウス、ヒップホップ、シンディ・シャーマンらのアート、バロウズらの文学に至るまでの広い領域で分析された内容。自分が体感してきたものが、これ程明晰に整理してあることに感謝。名著です。
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・デヴィット・ヴァイナロヴィッチ
・言われてみれば、私たちはしばしば、歴史的に重要とされる出来事でも、たった一枚の写真からしか知っていないということがあります。だから実は、そのとき実際にどのようなことが起きたかということは、もう永遠にわからないわけですね。もしかしたらそれはひじょうにいい加減な、冗談のようなたぐいのものだったかもしれない。けれども、ひとたびそれが言説をともなって、写真という固定されたイメージのなかに回収されて、一種の絶対性を獲得してしまえば、それはもう容易には覆すことができない。ところが、ビドロのようにたとえそれが偽物であっても、同じパフォーマンスをそっくり再現することによって、その怪しさ、いかがわしさをあらためて浮かびあがらせるくらいのことはできる。つまり、偽物だからつまらないのではなく、そもそも失われた本物自体がさしておもしろいものではなかったのではないか、というような疑惑を生みだすことは可能なわけです。
そのとき、偽物はすでに偽物だ絵はない。ビドロが行った<これはイヴ・クラインのパフォーマンスではない>はすでに、「イヴ・クラインのパフォーマンスではな」くはなくなっているのです。
・クリスチャン・マークレー「レコーズ」1981~1989
・ひとはどのようにして分裂病になるのか?H・ランドルトの仮説によると、それは病前の脳波異常が強制された正常化を起こすときだという。すなわち分裂病の発生は正常から異常への移行ではなく、異常が強制的に正常化される瞬間なのである。
・ブライアン・イーノ
・「今年の一月、私は事故にあった。たいした怪我ではなかったが、私はほとんど身動きできない状態でベッドに寝かしつけられていた。そこへある日、友人のジュディ・ナイロンが、18世紀のハープ曲のレコードを持って見舞いに来てくれた。彼女が帰ったあと、私はかなり苦労してレコードをかけた。横になってから、アンプが非常に低いレヴェルにセットされてあり、ステレオの一方のチャンネルから全然音が出ていないのに気付いたが、起き上がってちゃんとする元気もなかったので、レコードはほとんど聞こえないほどの音でかかり始めた。このことが私に、音楽の新しい聞き方を教えてくれたーーーそれは光の色や雨の音が環境の一部であるように、音楽もまわりの環境の一部として聞くことだった」
・「海は多様であり、動いており、しかも緊密に結合している。海の多様性とはその波のことである。波が海を構成しているのである。波は無数にある。航海者は波によって完全に囲まれているのである。波の動きの同質性はその大きさの差異を妨げない。波が完全に静止することはありえない。波の外部から吹いてくる風は波の運動を決定する。波は風の命ずるままに、この方向、あるいはあの方向へと打ちよせる。波の緊密は結合は、群衆のあにいる人間たちがよく知っているあるものである。すなわち、それは、あたかも他の波が自分自身であり、自分自身と他の波とのあいだにどんな厳重な隔壁も存在しないかのように、他の波に従うことである。この従順さからの脱出はありえず、したがって、その結集としての力の勢いと感じは、波全体が一緒になって引き起こしたものである」 -
ちょっと難解だったな…
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キーワードは「サンプリング/カットアップ/リミックス」。80年代に広まった美術運動、シミュレーショニズムの考えをポピュラー音楽に援用していくその切り口はウィルス的感染力を感じさせる。本編は20代の頃に執筆されたが故のレトリック過多な部分も目につくが、増補において加えられた最初の講義編が導入として優れており現代アート入門としても機能している。「盗め!」という発売当時のメッセージは現代において「コピれ!」と言い換えるのが相応しいだろう。IT技術の発達で世界はこんなにもコピー&ペーストで満ち溢れているのだから。