江戸奇談怪談集 (ちくま学芸文庫 ス 14-1)

著者 :
  • 筑摩書房
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感想 : 7
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  • Amazon.co.jp ・本 (590ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480094889

作品紹介・あらすじ

茶碗の水に映る麗しき若衆の顔、うつろ船に乗って流れ着いた異国の女、天狗に攫われ空を飛んだ少年、厠のなかで火の玉を手玉に遊ぶ少女、夜ごとひそかに訪ね来る謎の美女の正体は…。江戸の書物には、不思議な出来事、妖しい物語、身の毛もよだつ怖い話が数多く遺されている。有名な根岸鎮衛『耳嚢』や、曲亭馬琴らの編んだ『兎園小説』をはじめ、『西鶴諸国はなし』『新著聞集』『伽婢子』『雲根志』『諸国百物語』『宿直草』などから、奇にして怪なる物語百八十余篇を選りすぐり、一冊に集成する。絢爛華麗な現代語訳により、いにしえの妖しく美しく怖ろしい世界がよみがえる。

感想・レビュー・書評

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  • 如何【いか】にせん恋は果てなき陸奥【みちのく】の忍ぶばかりに逢はで止みなば
     洲河藤蔵

     暑さで寝苦しい夜に、と手に取った「江戸奇談怪談集」。編訳者の須永朝彦によると、「奇談」とは見聞に基づいたエッセー風のもので、「怪談」とは、創作意識をもって書かれた物語だそうだ。
     幽霊が出て来る話ばかりかと思いきや、意外にも、ほろりとさせる人情話も少なくない。たとえばこんな「怪談」も。
     時は戦国時代。武勇伝を多く持つ足軽大将の洲河藤蔵は、心を恋に奪われていた。相手は、美形で、気立ても良い小姓の弥三郎。
     弥三郎の面影がしのばれてならない藤蔵が書き送ったのが、掲出歌だ。その思いの強さに感じ入り、弥三郎は藤蔵のもとで一夜を明かした。
     けれども、戦乱の世のため次に会えるという約束はできない。名残惜しさに、藤蔵はまた歌を詠んだ。

      ほどもなく身にあまりぬる心地して置き所なき今朝の別れ路【ぢ】

     尽きせぬ思いでどうしようもなく別れた2人だが、あろうことか、翌日の合戦で藤蔵は討たれてしまった。それを見た弥三郎は、軍法を破って敵陣に討ち入り、落命。その仲を知る人々は、2人を哀れんで同じ塚に丁寧に埋葬した。すると、その塚から草が伸び、花が咲き、その花は男郎花【なんろうか】と呼ばれたという。
     男性同士が咲かせた悲恋の花。現存するオトコエシとは同じ花ではないようだが、こういった幻想的な話こそ、涼をもたらしてくれるものかもしれない。

    (2013年8月4日掲載)

  • 江戸期の奇譚・怪異譚を、趣を残しながら現代語でまとめた一冊。
    しばし編者が同じ「日本古典文学幻想コレクション」と重複する部分があり、見覚えがある部分も無いわけではなかった。とはいえ、江戸に限っているため百合若や宇津保物語、箸墓等は当然の事ながら未収録である。累・小幡小平次など有名どころの収録もあるが少数派である。
    収録されている中で稲生物怪録が最も長いが、他は数頁で終わる話が主でありぱらぱら読むのに最適。

  • 江戸時代からの書物にある奇談怪談を180余編まとめるという、わやくちゃなようだけど、当時の背景が伺えたり、知っている話があったりと、程よく面白い本。ただし、量だけに、一度に読むと読み疲れる。。

  • ・須永朝彦編訳「江戸奇談怪談集」(ちくま学芸文庫)は膨大な江戸の随筆類から奇談、怪談を選び出し、それを編者自身の訳でまとめた書である。600頁弱、目次だけでも二段組み9頁ある。いかに小さな話がほとんどとはいへ、これだけあると読み応へ十分である。読了までに思ひの他に時間がかかつてしまつた。それでも読めたのである。かういふのは時として読む気をなくすことがある。つまらなくなつてくるのである。本書がさうならずにすんだのは、ひとへにその訳によるところが大きい。編者須永朝彦の本業は何なのであらうか。私はこの人は歌人か小説家かと思つてゐるのだが、それ以外にエッセイも書いたりしているし、こんなアンソロジーを編んだりもしてゐる。いづれにせよ、文筆 を業とする人であることはまちがひない。そして学者ではない。「凡例」にかうある。「訳文は逐語に拠らず、ときに適宜言葉を補い、また省略も敢えて辞さなかった。」(14頁)これだけでなく、教訓臭の強い部分はほとんど省略したといふ。これだけでもずいぶん読み易くなる。 さういふものが歌人、小説家の面目躍如たる文章でなされるのである。学者の正確を旨とした逐語訳と比べると、圧倒的に読み易い文章にな る。だから、飽きることなく読み続けることができたのである。
    ・手許に西鶴の逐語訳がある。その「西鶴諸国ばなし」巻4所収「夢に京より戻る」を須永は「藤の奇特」として訳出してゐる。その冒頭は逐語訳では絶対にかうはできないといふものである。古歌を踏まへてゐるのだが、逐語訳ではそれを註で示すしかなくなり、そこでかうなる。 「桜鯛や桜貝のとれる春の季節に名残を惜しみ、堺の浦は今、地引き網で賑わっている。朝早く云々」(麻生磯次・富士昭雄訳註「対訳西鶴全 集五」108頁)それを須永はかう訳す。「まこと、古歌にも『行く春の堺の浦の桜鯛あかぬかたみに今日や引くらん』とある通り、ここ堺の浦は今、春の名残を惜しむかのように、桜鯛や桜貝を獲る地引き網で賑わっている。(原文改行)早朝まだ暗いうち云々」(29頁)古歌を取り込み、そこから出てくる雰囲気も含めて訳さうとしたためにかなり長くなつてゐる。しかし、どちらが訳として分かりやすいかと言へばこれはもう明らかである。逐語訳では雰囲気が出ない。いかに優れた学者でも逐語に囚はれては不自由である。いかやうにでも料理できる訳者の自由が優る。さがせばこんなのはいくつもみつかるのだらう。江戸の文章がいかに読み易いといつて も、そこはやはり擬古文である、原文では難渋するところもある。それをかういふ文章で読めるのは嬉しい。思ひ切りよく訳す。無駄は捨てる、省く。不足は補ふ。かくして読み物として楽しめるやうに訳されたのである。本書における編訳者の存在の大きさを思ふ。さうして、ついでながら須永が奇談と怪談の差をかう記したのもまた卓見かとも思ふ。奇談と怪談の差はどこにあるのだと私はこれまでも思つたことがあつ た。これはあるいは常識であるのかもしれない。それはかういふことである。「『奇談』は所謂随聞手抄の類にて、あくまで見聞に基づくもの。これに対して『怪談』は実話に取材したものもあろうが、創作意識を以て書かれたもの。」(「解題」561頁)つまり、ごく簡潔に言つてしまへば、前者はエッセイ、後者はストーリーといふことである。実に明快な規定である。さうか、怪談は作り話か、道理でと納得もできるのである。ただし、実際に本書がさうなつてゐるかといふとそのあたりはよく分からない。これは須永氏の力の及ばぬところにあるものであらう。それでもおもしろく読めたのが本書であつた。

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著者プロフィール

1946-21年、足利市生まれ。歌人・作家・評論家。71年に評伝『鉄幹と晶子』を、72年に歌集『東方花傳』を上梓。74年発表の『就眠儀式』以来、幻想的で独自な作風の小説を発表、また幻想文学作品集の編集にも多く携わる。著書に『定本須永朝彦歌集』、『悪霊の館』、『天使』、『須永朝彦小説選』(山尾悠子編)など。

「2022年 『王朝奇談集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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