言葉と死: 否定性の場所にかんするゼミナール

  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (276ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480842893

作品紹介・あらすじ

言葉が生起する"どこにもない場所"をめざして「言語活動」と「存在論」を架橋する論考。

感想・レビュー・書評

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  • 素晴らしいゼミナールの記録だ。言葉というよりも、言葉にならない「声」と哲学の課題について考察が繰り広げられる。ときおり脱線しすぎるところがあるが、それでもこのような文章を書けるのは現代においてはアガンベンだけだろう。ただし「言語活動と死の間の関係は、形而上学にとっては、その場所を声のうちにもっている」(p.198)ということを、もう少し散文的に展開して欲しかったのだが……

  • 面白かった。こんなこと言って良いものなのかわからないが。
    哲学の限界とゆうか、最終地点、終末はここにもう描かれているなとも思った。すでにあったのだけれども。

    僕の考えとリンクするのは、内なる神、それはうちだけでなく、どこにでも存在するのだけれども。
    その神の沈黙、無限、永遠、それから、人間の良心と否定性、詩、声、言葉と表象されることは、理論でありながら人間であり、言葉を発しながらも動物的であることからの記憶であり、記録であること。
    それは、言葉と声に表出され死であること。
    死が常にあること、
    だから、なぜか不安に、恐怖にあることが生じるのは納得する。
    この本は個人個人の現在、今の、今、この魂の本性をあぶりだしたものだなと思う。
    それは、常に虚しく、苦しい、不安であり、恐怖が常につきまとう孤独だ。
    現代は言葉の表象が優位に立ってポップの音楽のように、安定した社員の職業のようにうやもやにしながらも孤独を抱える、ヘンテコな人間のありようを思い浮かべた。

    ただし、これまでの本、哲学、このような西洋的な本はさらに次に発展しないといけないとも思っている。
    個人の個人の魂のありかを探すのだけでは今までと何ら変わらない。
    もっと、この世界に与えられることや、絶対的に服従を自然に課されてはいても、自由であること、そして、守られていることとゆう、この自己の周りの他者、この世界に目を向けないといけない。そこから哲学をした時に、おそらく、インドの哲学のようにさらなる深淵を極めた、人間らしい哲学へと変貌するだろうと思う。
    神秘の世界を信じるだろうか。例えば先祖に守られることだったりすることは、単なる迷信なのだろうか。私はそんなことはないと思っている。
    何か人間に学ばせようと、知らせようと気づかせようとしているところがこの世界にはある。それぞれがそれぞれに学び、知ろうと、人生はそうあるように思われる。それは多様に満ちている。
    そこを、単なる人間らしい思い込みだと片付けてしまうのだろうか。
    なるほどなと今思った。宗教は、哲学と対置する。
    宗教的な観念を哲学から知ろうとすることに、西洋的な哲学の真の完結があるように思う。

  • ただでさえ僕には難解なのに、日にちが経ってからの感想ではますます感想が出ない(笑)でも考えてみたのは僕にとっては自分も他人も含めて、言葉とか感情って気になるテーマなのかもなぁ・・・という気はした。

  • 「物自体」との長期間にわたるスヌーシア[交わり]の過程で話し合われてきたことを文字で書かれたものをつうじて復元するというのは、本当をいうと、可能ではない。したがって、以下に述べることは、ゼミナールをそのままありのままに記録したものではなく、そこで議論された考えと素材をわたしがだれにでも納得してもらえそうなかたちにまとめ直して提示したものにすぎない。(アガンベン)

  • この本の主題のひとつ「死」は、とりあえずハイデッガーの言う「死」から始められており、まあ、常識的な、文学的な「死」の概念に近い。
    一方の「言葉(言語活動)」に関しては、ヘーゲル『精神現象学」から来ており、言葉は指し示そうとした内容から必ず隔絶してしまう、というような問題に注目する。
    言語は常に「一般的」なものに過ぎない。
    私自身のたとえで言うなら、目の前のリンゴを指すとき「リンゴ」と言ってしまうと、それは「リンゴ一般」という概念を示すに過ぎず、色や形が微妙にちがうはずの個々のリンゴ存在の個別性を示すことはできない。だから我々はせいぜい「このリンゴ」「あのリンゴ」というふうに、指示代名詞にたよらなくてはならない。
    そのように理解はできるのだが、アガンベンは、だから言葉は<否定性>のうえにそもそも成り立っており、<死>と結びついている。と指摘する。このあたり、わかるようでわからないというか、「言葉=死」という図式にはなかなか首肯できない感じがした。
    さらにアガンベンは<声>という概念を持ってくるのだが、私がこの本をちょっと粗雑に読んだせいで、しっかり理解することができなかった。
    アガンベンにしては、ちょっと舌足らずでわかりにくいと感じたのは、これが最初から書かれた本ではなく、ゼミナールをもとにしたものだからだろうか。

  • 自分に神学の素養がないあまりに理解が浅く終わってしまう箇所が何箇所かあって残念。

    わたし的ハイライト↓↓

    <本源的文節としての言語活動の生起>

    動物的な音声、フォーネーは、なるほど、もろもろのシフターによって前提されているがそれはあくまで意味を表示する言述行為が生起するためには必然的に除去されなければならいものとしてである。音声の除去と意味の出現とのあいだにあっての言語活動の生起はその存在論的・論理学的次元が中世の思想の中に出現するのをさきに見たもうひとつの<声>である。そして、それは形而上学の伝統のなかで人間による言語活動の本源的な文節を構成しているのである。しかし、この<声>はもはや音声でないとなおも意味でないという身分をもっているかぎりで、それは必然的に否定的な次元を構成している。それは根拠である。が、<在ること>と言語活動が生起するためには根底にまで向かっていって消えてなくなるものであるという意味においてそうななのである。

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著者プロフィール

1942年生まれ。哲学者。マチェラータ大学、ヴェローナ大学、ヴェネツィア建築大学で教えた後、現在、ズヴィッツェラ・イタリアーナ大学メンドリジオ建築アカデミーで教鞭をとる。『ホモ・サケル』(以文社)、『例外状態』(未來社)、『スタシス』『王国と栄光』(共に青土社)、『アウシュヴィッツの残りのもの』(月曜社)、『いと高き貧しさ』『身体の使用』(共にみすず書房)など、著書多数。

「2019年 『オプス・デイ 任務の考古学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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