はるかな星 (ボラーニョ・コレクション)

  • 白水社
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  • Amazon.co.jp ・本 (184ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784560092668

作品紹介・あらすじ

ボラーニョ文学の要となる初期の重要作
 軍政下のチリ、奇抜な空中詩パフォーマンスでその名を馳せたカルロス・ビーダー。複数の名をもつ彼の驚くベき生涯とは……『アメリカ大陸のナチ文学』最終章の主人公をめぐる、もうひとつの戦慄の物語。
 語り手がその男に初めて出会ったのは1971年か72年のこと。当時はルイス=タグレと名乗り、詩の創作ゼミに出入りしていた。どこかよそよそしくとらえどころのない雰囲気で女子学生たちの心を征服し、男子学生たちは羨望と不信感を抱く。
 やがて73年にクーデターが勃発。若い詩人たちまでもが血なまぐさい事件に直面させられたこの時代、語り手は拘留先でふたたび彼の姿を目撃する。だがそのときはまだ、収容所の空に飛行機雲で聖書の言葉を綴ったパイロットがルイス=タグレと同一人物だとは知らない。パイロットの名はカルロス・ビーダー、クーデター後、政権側に与し、数々の忌まわしい所業に手を染めていたことが判明する……
 『アメリカ大陸のナチ文学』に登場するラミレス=ホフマンの物語を下敷きに、前衛詩人、写真家にして恐怖の殺人者ビーダーの物語が、ひとつの小説の形をとって新たに立ち上がる。後年の作品の萌芽が随所に感じ取れる、ボラーニョ文学の要。

感想・レビュー・書評

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  • 前書きにもあるように、これはボラーニョの初期の作品『アメリカ大陸のナチ文学』の最終章に出てくる、ラミレス=ホフマン中尉の話を大幅に改稿し、一篇の小説としたものである。その話を「僕」に教えてくれたのは、アルトゥーロ・B。ボラーニョの他の作品にも作家の分身として登場する人物だ。『アメリカ大陸のナチ文学』の最終章の出来に物足りなさを感じたアルトゥーロは「僕」と共に、一か月半かけてこの物語を完成させた、という。

    作家が自身の分身と対話しながら物語を完成するという設定は、自己の複数性という小説のテーマを仄めかしているが、要は、何冊でも書けそうなネタを贅沢に一冊の中にぶちこんだ小説を書いてしまった作家が、ネタの持つ価値に気づき、それだけで一篇の小説を書いてみたいと思ったのだろう。その熱の入れようもあってか、ボラーニョらしいミステリ仕立ての本作は、読者をぐいぐいと作品世界の中に引き込んでいく迫力を持つ。

    アジェンデ政権時代のチリ、文学部の学生だった「僕」は、同じ詩の創作ゼミで、金髪で痩身、頑健な体躯の美丈夫、アルベルト・ルイス=タグレという二、三歳年上の男と知り合う。彼は「僕」と親友のビビアーノが思いを寄せる一卵性双生児のガルメンディア姉妹を夢中にさせていた。ほどなくして、クーデターが起きる。混乱を避けて実家に戻った姉妹はルイス=タグレに襲われ、「僕」は収容所に入れられてしまう。そんなある日の夕暮れ、一機の飛行機が空中に煙で詩を書くところを目撃する。カルロス・ビーダーというパイロットこそあのルイス=タグレであった。

    斬新なパフォーマンスでチリの新し物好きの賞賛を浴びることになったビーダーは、最後となる航空ショーの終わった深夜、自室に親しい者を集めてパーティーを開く。そこで、招待客が目にしたのは、部屋の天井や壁に貼られた猟奇殺人を証拠立てる夥しい数の写真だった。ビーダーはその夜限り姿を消すが、その後生死についていくつもの噂が錯綜する。

    四十代になった「僕」をバルセロナに尋ねてきたのは、アベル・ロメロという刑事だった。人に頼まれてビーダーを探している。協力してくれれば金を払うという。「僕」は、ロメロが集めた同人誌やガリ版刷りの冊子の山の中からビーダーを探し始める。幾つもの仮名、変名を使い分け、人種差別的な雑誌や反ユダヤ系雑誌に詩や評論を発表し続けるビーダーを「僕」は、ついに発見する。

    チリがアジェンデ政権下にあるときルイス=タグレと名乗る男は周りの左翼的な若者とは距離を置きながらも詩の創作に励んでいた。ところが、クーデターの後、軍事政権が権力を握ると、彼は右翼ファシストとしての姿を現し、多くの人を殺す。その後、飛行機で詩を書くパフォーマー、カルロス・ビーダーとして名を馳せるが、サディスティックな猟奇的殺人者としての一面を披瀝して地下に潜る。それ以降は、異名を用い、マイナーな雑誌に、オカルティズムやナチズム、反ユダヤ主義、SM的嗜好を表明する多くの作品を寄稿する詩人として、一部の熱狂的な読者に支持される。

    カルロス・ビーダーの文学的軌跡を追い続けるのは、これも作家の分身であるビビアーノだが、ビーダーについての執拗な探索は、反語的な方法による自己の発見である。自分の方がビーダーを読むのであって、決してビーダーに自分が読まれてはならない。というよりむしろ、ビーダーによって自分が読まれないことを恐れているようにも読める。作家にとって、書くことは読まれることを意味する。名前は幾つもの名に変わっていても、ビーダーはその糞のような作品をつねに供給し続ける。そこにはその糞のような主張を受け止める読者がいるということだ。それに対し、かつてビビアーノや「僕」が師事していたファン・ステインやディエゴ・ソトといった詩人は、詩を棄てて革命家になったり、ブルジョワ知識人として幸せな家庭生活を送ったりするものの、最後は殺されてしまう。

    これはドッペルゲンガーを描いた作品である。「僕」もビビアーノもカルロス・ビーダーに自分を重ねながら、重なることを恐れている。カルロス・ビーダーが体現しているのは紛れもなく「悪」であるが、何故か「僕」たちは、その「悪」に魅入られている。「悪」の持つ力が人を惹きつけるのだろうか。書かれているのは、糞みたいなプロパガンダなのに。糞みたいな「悪」が、世界を席巻する時、「悪」を容認できない詩人は、ペンを銃に持ちかえるか、ペンを棄てるかしかないのだろうか。チリのクーデターは、「僕」や他の詩人の生き方を大きく変えてしまったが、チリにはアベル・ロメロがいた。今しもクーデターのさなかにいる我々の中から、アベル・ロメロは出てきそうにない。考えさせられることの多い小説である。

  • 架空の事典小説の傑作『アメリカ大陸のナチ文学』におさめられた最後のエピソード「忌わしきラミレス=ホフマン」の、これは双生児としての小説である。

    登場人物の名前に異同がある以外、プロットに大きな変更はない。とはいえ本書において『アメリカ大陸のナチ文学』を読んだときには気付かなかった、ボラーニョの企みの一部があらわになったように思う。

    解説で鴻巣友季子がいみじくも看破したように、ボラーニョを読むとは、ひとえに<読む>という行為における主体と客体の融解体験であり、読者は各作品の登場人物、あるいはボラーニョ自身と自らの境界を絶えず意識せざるをえない、きわめて有機的な読書の時空に身を置くことになる。

    要するにそれは、ここに描かれている人物とは、カルロス・ビーダーでもアルトゥーロ・BでもR・ボラーニョでもいい、もっと言えばわたしでもあなたでもいい、文学の闇をのぞきこんだ者であればだれでもいいのだ、という劃定なき地獄に身を置くことであって、かつてある友人が、コルタサルの『石蹴り遊び』を読み続けていると、自分が次第にコルタサルになっていく気がすると言ったが、読者と作者の境界が混然と溶け合うような、そうした感覚をおぼえさせる小説は、特にラテンアメリカのものに多い。ボラーニョも、まさにそれだ。

    そしてまたボラーニョ作品では、<消えた詩人とそれを追う詩人>というテーマが幾度となく変奏され、本書もまたその例に漏れない。追われる詩人にして殺人犯カルロス・ビーダーはいくつもの筆名を使い、ラテンアメリカとヨーロッパを彷徨する。彼は時として悪と手を結ぶ、もとい悪そのものにもなる文学の呪われた権化である。ひとりの刑事とひとりの詩人が彼を追う。追跡のため、詩人は読む。カルロス・ビーダーが関わったと思しき、大半はクズのような同人誌の類を読みふけり、ビーダーがカメラマンをつとめたポルノをぶっ続けて鑑賞し、過去の記憶のなかに埋没しつつある若き日のカルロス・ビーダー=アルベルト・ルイス=タグレの影を追う。

    カルロス・ビーダーの作品を、というよりカルロス・ビーダーその人を<読む>行為。先にも述べたとおり、これにより主体と客体の地平は融解する。そこでは書く者と読む者、追うものと追われる者との位置関係は容易に置換可能であり、カルロス・ビーダーを徹底的に<読む>行為とは、極言すればカルロス・ビーダーそのものに<なる>行為と言ってよいかもしれない。物語終盤、おそらくはカルロス・ビーダーを殺そうとする刑事に向かって、語り手は次のように言う。

    <殺さないほうがいいと思う、と僕は言った。そんなことをすれば僕たちは破滅してしまうかもしれません>

    カルロス・ビーダーを殺すことは、畢竟、執拗な読み込みの果てに、カルロス・ビーダーに同化した自分たちの破滅につながるにちがいない。そしてまた、カルロス・ビーダーとは文学の闇にとらわれた者たちすべての似姿であってみれば、いつ何時、わたしたち自身の身にそうした破滅がふりかかってもおかしくはないのである。ボラーニョはいつだって文学にまつわる戦慄の物語を紡いでいる。

  • ボラーニョの作品を読んだのはこれが初めて。
    小さいけれど鋭利なナイフ、生きているのか死んでいるのかさえ分からない亡霊が浮かび上がってきそうな雨の墓地、日が暮れ切ったばかりの知らない土地を1人で歩く時、そんな日常の恐怖を丁寧に、且つインテリとオタクのエッセンス加えて書くとこうなるのか。
    とにかく話がねじれまくっていて、誰のこと?何の話?で、探してる人は誰?え?この人は知らん間に消えていったの?
    明確な描写に重ねるように、雲を掴むような曖昧な箇所が音もなく被せられてゆくのに最後まで慣れなかった。
    でも読後はその異様な世界にトリコになっている自分がいた。
    ボラーニョの大作、2666を読む前の入門編のつもりだったのに完全に毒されてしまいました。

  • 謎の詩人、エピソード、噂話、断片の数々。目撃者は共犯者となるが、傍観者でしかない。「はるかな星」というやさしげなタイトルの本を手にした読者は、物語の最後のページを読み終えた後、「はるかな星」というタイトルから、平穏・落ち着いた静けさといったようなイメージを連想できなくなってしまうだろう。そもそも不穏で、禍々しいのは星ではなく人なのだが、そのはるかな星に人が住んでいることは、私もあなたも承知のことなのだ。

  • 書籍についてこういった公開の場に書くと、身近なところからクレームが入るので、読後記はこちらに書きました。

    http://www.rockfield.net/wordpress/?p=6640

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著者プロフィール

1953年、チリのサンティアゴに生まれる。1968年、一家でメキシコに移住。1973年、チリに一時帰国し、ピノチェトによる軍事クーデターに遭遇したとされる。翌74年、メキシコへ戻る。その後、エルサルバドル、フランス、スペインなどを放浪。77年以降、およそ四半世紀にわたってスペインに居を定める。1984年に小説家としてデビュー。1997年に刊行された第一短篇集『通話』でサンティアゴ市文学賞を受賞。1996年、『アメリカ大陸のナチ文学』を刊行。1997年に刊行された第一短篇集『通話』でサンティアゴ市文学賞を受賞。その後、長篇『野生の探偵たち』、短篇集『売女の人殺し』(いずれも白水社刊)など、精力的に作品を発表するが、2003年、50歳の若さで死去。2004年、遺作『2666』が刊行され、バルセロナ市賞、サランボー賞などを受賞。ボラーニョ文学の集大成として高い評価を受け、10 以上の言語に翻訳された。本書は2000年に刊行された後期の中篇小説である。

「2017年 『チリ夜想曲』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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