- Amazon.co.jp ・本 (163ページ)
- / ISBN・EAN: 9784562047581
感想・レビュー・書評
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3人のフォトジャーナリストによる東日本大震災の記録…。安田菜津紀さん、佐藤慧さん、渋谷敦忘さんは、海外におられたが震災の報を知り帰国され、フォトジャーナリストとしてできることを模索しながらカメラを構える…。
安田菜津紀さんは、陸前高田市に入り小学校の入学式の写真を撮ったり、被災地に残された写真の修復作業を行ったり、被災した子供たちにむけて写真教室を開いたりと活動されています。そこにはまぶしいくらいの子供たちの笑顔があったけれど、その心の奥には大切な人を亡くした悲しみにも満ちていることを知ります。でも私はそこまででよかったんだと感じます。一時でも悲しみより素敵な笑顔いっぱい引き出せたのだから…。
佐藤慧さんは、陸前高田市に住んでおられたお母さまを震災で亡くします…。行方のわからないお母さまを探して、身元不明で安置されている遺体を確認していきます。見つかったのは震災から約1カ月後…遺体は傷んでいて目をそむけたくなるほどでしたが、そこには確かにお母さまの面影があって、思い出が走馬灯のように頭に浮かび、お母さまの死を受け入れることができました。被災地に咲く花が、なんとも悲しくそして健気で美しい…お母さまへの、いえ、震災で犠牲になったすべての方への供花にふさわしいと感じました。
渋谷敦忘さんは気仙沼から陸前高田、その後福島に向かい取材をしています。原発事故後の福島は他の被災地とは異なり、支援の手が行き届いていない現状がありました。そんな中でも地元の消防団は大切な家族を探すための活動を続けていました。そんな消防団のメンバーを撮った写真が掲載されており、見て心が熱くなりました。
震災から12年…まだ行方のわからない方もいます。他人事ではなく自分事として、何を備え、何をしたらいいか、立ち止まって考えるためにも当時の記録は必要ですよね!詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
3人のジャーナリストが写真と文章で記録した東日本大震災。
震災の現場で被災した人にカメラを向けること、報道すること、記録として残すこと、色んな思いが込められている。
被災地にいた人達の溢れんばかりの想いに涙が出た。被災した人の気持ちを、被災していない人間が共有することはきっとない。でも知って、考えて、自分にできることをやろう。 -
三者とも誠実。だからこそ答えはここにない。ある種の分かりやすさは、危険ですらあることを再確認した。
シャッターを押すとはなんと重い行為なのか。そして、それは正しい。
・目の前で繰り広げられる「死」についてきちんと考えることの必要性を感じていた。
・がんばれ、とは言えない。負けるな、とも違う。かける言葉がどうにも見つからないまま、こう思い至った。結局のところ、君の悲しみはどこまでいっても君だけのものなのだ。でも、このまま君が歩くなら、僕も歩こう。君が疲れたなら、僕も一緒に休もう。今はただ自分の思うように精一杯生きてみたらいい。
・今日のご飯は贅沢ですねと調理班の女性に言うと、「ここの食事は毎日ごちそうです」と返ってきた。
・「財産も仕事も失ったけど家族が無事だった人は、家は残ったけど家族を失った人にどう声をかけたらいいかわからない。わからないけど、みんなお互いを気遣っているのはわかる。一緒に焚き火したり、寝食を共にしたりしているとね、一人じゃないって思えるもんだね」 -
2013年6月18日
装幀・フォーマット/生駒浩平 -
カメラマンも被写体も人間。
人間が人間を撮る上でしっかりと誠実に心を開かないと、向こうも開いてくれるわけがない。
大事なことは忘れずに。 -
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カメラで撮影する、という行為では、
目の前の人の怪我は治せないし、
空腹は満たせないし、
身体を温めて上げることも出来ない。
それでも、ファインダーを通じて切り取った事実を
誰かに伝えることは出来る。
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無力感と使命感の狭間で、生々しく揺れ動いているように見えた。
自分に取っての正義が問われる時間だったのだろう。
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(2012.05.28読了)(2012.05.25借入)
【東日本大震災関連・その84】
三人の写真家による東日本大震災被災地のルポです。写真はあまり掲載されておらず、ルポが中心です。
3月11日には、三人とも海外で取材中で、東日本大震災の被害の大きさに驚いて帰国したようです。
安田さんは、フィリピンルのソン島。佐藤さんは、アフリカのザンビア共和国。渋谷さんは、アフリカのウガンダです。
佐藤さんは、ご両親が岩手県の陸前高田市に住んでいたため、ルポというよりは、自分自身の手記というところです。東日本大震災で、母親を亡くしています。
被災地に入り、最初に見た風景を写真に収めたところが、母親の遺体が後で見つかったあたりだった、ということです。偶然ではありますが、何か因縁を感じてしまうのも人間です。
安田さんは、佐藤さんに呼ばれて、陸前高田に入り、主に学校の入学式の写真を撮ったり、小学校で写真教室を開いたり、写真洗浄のボランティアなどを行っています。写真の役割について考えています。
渋谷さんは、気仙沼に入り、その後、陸前高田の佐藤さんと合流し、のちに福島に向かい原発地帯近傍を取材しています。
【目次】
・安田菜津紀
写せなかった〝沈黙〟
思い出はここから始まる
忘れたくないから
未来へのシャッター音
心の支えができるまで
・佐藤慧
壊滅
母を探して
命のかけら
・渋谷敦志
アフリカから被災地へ
陸前高田市
やよい人共同生活プロジェクト
遺体安置所での出会い
福島へ
東京電力福島第一原発
一枚の記録が一人の記憶へ
あとがき
●写真の中だけでも(36頁)
男性は数時間かけて、写真の山一つ一つに目を通していった。この日も写真は見つからず、やがて静かに引き上げていった。遠ざかっていく小さな背中を、私はただずっと見つめることしかできなかった。「せめて写真の中だけでも会いたい」この言葉がこの日から頭を離れなくなった。
●家族写真は(52頁)
「家族写真って撮りたくなかったんだよね。欠けている家族がいるってこと、実感しちゃうからさ」。
●ネットのニュース(59頁)
画面の中は騒然としていた。大津波、仙台空港壊滅、海岸線の電車は車両ごと行方不明。理解できない事態が進行している。数時間後、衛星(原文は「衛生」となっていますが、変換ミスでしょう)を通じてテレビの画面にも現地の様子が流れ始めた。圧倒的な津波が人の住み処をまるでミニチュア模型のように押し流し、街が津波とともに移動していく。それは常軌を逸した光景だった。
●陸前高田は(58頁)
北の大船渡、南の気仙沼の情報が出ているのに、なぜ陸前高田の情報が出てこないのか。考えられる状況はふたつ、たいした被害が出ていないか、被害が甚大過ぎて誰も報告できないか、そのどちらかだろう。
●震災の経験(104頁)
この震災を通じて経験したことは、これからも生や死、命について考えるための糧となっていくことだろう。撮った写真、連ねた言葉は、何度も何度も心の内で反芻され、「なぜ?」という疑問に答えるための力となっていく。
●フォトジャーナリストに(111頁)
阪神・淡路大震災があった1995年当時、大阪に住んでいた僕はフォトジャーナリストを目指す大学1年生だった。高校2年生の時にベトナム戦争を記録した一ノ瀬泰造さんや石川文洋さんらの著書に出会ったのがきっかけでフォトジャーナリストになることを決めた。
●写真を撮る(160頁)
大きな震災を経て価値観や職業観も含めて生き方が根底から揺さぶられる日々の中で芽生えてきたのは、人間を撮ることでどこかで人間を肯定したい、人間を信頼したいという強い思いかもしれない。
☆関連図書(既読)
「東北関東大震災全記録 復刊アサヒグラフ」週刊朝日臨時増刊、朝日新聞出版、2011.03.23
「東日本大震災」サンデー毎日緊急増刊、毎日新聞社、2011.03.24
「東日本大震災100人の証言」AERA緊急増刊、朝日新聞出版、2011.04.02
「巨大津波が襲った 3・11大震災」河北新報、河北新報社、2011.04.08
「TSUNAMI 3・11-東日本大震災記録写真集-」豊田直巳編、第三書館、2011.06.30
「3・11東日本大震災奇跡の生還」上部一馬著、コスモトゥーワン、2011.07.01
「被災地の本当の話をしよう」戸羽太著、ワニブックスPLUS新書、2011.08.25
「生きる。-東日本大震災-」工藤幸男著、日本文芸社、2011.09.20
(2012年5月29日・記) -
若手フォトジャーナリストたちの3.11。
東日本大震災の記録であるけれど、フォトジャーナリズムと向き合おうとする人たちの手記という色合いが強い。
(震災や被災者を軽く扱うわけでは決してないけれど)
安田菜津紀は非当事者の立場を正面から引き受ける。
佐藤慧はカメラマンのアイデンティティを手放さずに岩手出身の遺族になる。
渋谷敦志は阪神を知るけれどやはり非当事者で途方にくれる。
同じものを見て、似たような経験をして、一見同じ問いを発しているように見えるけれど、三者三様の足掻きかた。
この本は、「未来に語り継ぐ戦争」http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4002708268で安田菜津紀があまりにも真摯で素敵だったので、この人目当てに読んだ。
やっぱりすごかった。どこまで誠実なんだ。
多分この人は「何を書く(撮る)か」だけじゃなくて、「何を書かない(写さない)か」まで選び取ってる。
自分が生まれ育った風景や自分の血縁者じゃないという意味での非当事者として、ホームではない場に踏み込んでいくのは、その場が辛いものであればなおさら勇気がいる。
居心地の悪さに耐えて、いていいのか迷って、それでもなお関わろうとしている。
自分が当事者じゃない場面にあえて立つ、非当事者の負い目を引き受ける覚悟がある。 -
写真を通して伝わる「何か」
その「何か」を通して、「生と死」について考えさせてくれたこの本は素晴らしい力があると感じた。
フォトジャーナリストの一旦、そして使命のようなものをひしひしと感じることができた、そんな本であった。