死の話をしよう

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  • PHP研究所
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  • Amazon.co.jp ・本 (190ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784569825236

感想・レビュー・書評

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  • 臨死体験と、死生観の4パターン

    上記書籍を読んで思ったことをつらつら書き、
    臨死体験の論文を読んで思ったことをつらつら書いています。





    君は自分自身の死に、それが「いつか必ず」やって来るものとして「いま・現に」もう出会ってしまっている。 位置No.442
    人間は、いつか自分は死ぬということを知りながら生きていかなければいけない。
    なので、無関係でいることはできない。


    他者の死
    人間は自分自身の死を経験することはできず、経験できるのは他者の死だけである。
    他者の死のうち、三人称(直接関係ない存在)の死は私にとって痛くも痒くもない。

    一方で二人称(自分と関係する存在)の死は私に影響を与える。

    あなたが死にゆく二人称にけっしてしてあげることができないこと、それは二人称が死に直面しているということそのことだ。 位置No.758
    だから、後悔のない看取りというのは原理的には存在しない。
    ・何もしてあげられない無力感
    ・あなたが死に私は死なないことに対するある種の疚しさ。
    ・あなたが死ななければならないことに対する究極の理由はない=理不尽に対する憤り、後ろめたさ。
    また、二人称の死は、私の存在を揺らがす。その揺らぎが極大化したケースとしての私の死の可能性を知らせる。



    自分の死~いつか必ずやってくる
    ・死は「いつか」やって来るが、今ではない。死が来た時には自分の存在は消えていて、死を経験できない。自分の死は自分にとって常に未来の出来事である。
    ・死は「必ず」やって来る。未来の出来事ではあるが、必ず起きることが決まっている。
    ・死ねば無に帰するから、私にとっては「その先」がない。
    *仏教的な輪廻転生であっても、カルマは続くにしても前世の記憶はないわけであって、現世の私はいったん消滅すると考えてよいだろう。
    *キリスト教的な復活は、もしかしたら現世の私を引き継ぐのかもしれないが、(イエスのことは置いといて)復活した人間はいまだかつて存在しないわけで、今のところは死んだその先はないと考えて差し支えないだろう。

    ・私が死ぬと、私にとっての世界もすべてなくなる。一方で他者から見ると私の死は世界の部分的な消失に過ぎない。
    ・他者の死と同様、私が死ななければならないことに対する究極の理由はない。



    過去「もう、ない」と未来「まだ、ない」に挟まれた現在「いま、ある」
    現在はほんの一瞬で、すぐに過去に消え去ってしまう。

    「いま、ある」は、こんなにも確固として「ある」ように見えるにもかかわらず、いつもほんの一瞬の間だけ「ある」にすぎない 位置No.1684

    しかし、その一瞬の現在には今までの過去すべてが刻み込まれている。
    その過去は自分の誕生だけでなく、両親が出会う前からも含み、無限にさかのぼることができる。

    あなたの「いま、ある」は、あなたの誕生のさらに手前にまで広がる「もう、ない」をもともに 携えてはじめて、「いま、ある」。「いま、ある」は、ほとんど無限に広がっていると言ってもいい「もう、ない」でも「ある」んだ。 位置No.1725

    一方で、未来は、いま目の前にはないがいずれはやって来る。
    未来の可能性が、現在の存在の仕方に影響を与えている。例:受験合格のために勉強したり
    そしてその未来には自分の死後も含まれる。 例:ソクラテスに影響を受ける現代人
    つまり、現在には、無限の未来の可能性が内包されている。

    ここで「ない」の前にくっついている「まだ」が示しているのは、君が「いつか」そのようになる者として「いま、ある」ということなんだ。「いま、ある」君は、「まだ、ない」君で「ある」んだ。 位置No.1732

    まとめると、現在は無限の過去と無限の未来を内包しており、その意味で現在の「いま、ある」こそがすべてである、と言うことができる。

    君の「いま、現に、ここで」がすべてであるとは、このことなんだ。 位置No.1747

    また、現在は文字通り一瞬であり、瞬く間に過去に変わる。
    しかし、過去の出来事というのはもはや変えられない確固不動のものであり、ある意味で永遠である。
    私にとって、現在は一瞬でありながら、そのような永遠性も内包されている。

    もし、「生きる」ことになんらかの意味があるとしたら、それはあなたの「いま、ある」がけっして抹消できないこと、なかったことにできないことの内にあるんじゃないか。 位置No.1833


    贈与
    私は無限の過去を遡って、最終的に両親が出会った結果として生まれた。
    しかしその生まれた存在がほかでもない私だったことに、究極的な理由はない。
    これを本書では「贈り手のいない贈与」と表現している。
    *贈り手を神などの超常的存在と想定してもいいかもしれないが

    その贈与に対して、応答しないことはできない。
    現にいま存在すること、それがすでに応答の一つの形だからだ。
    そしてどのように応答するかは、完全に私に委ねられている。



    ー-----------------------------

    本書の第1章で、エピクロスの死に対する考え方が語られる。

    死は私にとって何ものでもない。何ものでもありえない。それは私にとって、いかにしても経験することができないものだからだ。したがって死は、けっしてつらいものでも苦しいものでもない。また逆に、私を何かから解放して、安らぎをもたらしてくれるものでもない。文字どおり、何ものでもないんだ。かくして、死は私にとって存在しない。そして、それが存在しないのであれば、いかにしても存在しえないのであれば、それについてあれこれ思い煩う必要はまったくない。死を「気にかける」ことは、まったく無意味なんだ。そもそも「気にかける」対象が存在しないんだからね。 位置No.410
    論理的に考えれば、エピクロスのこの結論は正しいと思う。

    一方で、そのように考えたからといって、死に対する不安が消えることはないように思う。それはやはり自分の死は経験できず、そのためどこまでいっても未知のものであることに起因するのだろう。


    では、死に近いものを体験(臨死体験)した人ならどうなんだろう。
    と思いググってみると、以下の論文を見つけた。

    臨死体験による一人称の死生観の変容

    https://www.jstage.jst.go.jp/article/transpersonal/13/1/13_9/_pdf/-char/ja
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/transpersonal/13/1/13_9/_pdf/-char/ja
    www.jstage.jst.go.jp

    臨死体験で「死の向こう側」を認識することで、どのように死生観が変わるのかが語られている。予想に反せず、臨死体験で死に対する恐怖が減ったという人が多いようだ。


    同論文の中で死生観の4パターンが記されている。
    一、肉体的生命の存続を希求するもの
    二、死後における生命の永存を信ずるもの
    三、自己の生命を、それに代る限りなき生命に托するもの
    四、現実の生活の中に永遠の生命を感得するもの

    僕の現在の考え方は、三に近い。
    自分の存在は否応なく周りに影響を与えてしまっているので、自分が死んだとしてもその影響は大なり小なり残るだろう、と思っている。

    具体的には言えなくても、僕は亡くなった祖母の影響を確実に受けているし、祖母もその両親や兄弟親類などから影響を受けている。
    それと同じで、僕も子どもに影響を与えており、それはまだ見ぬ孫だったり、子どもがこれから出会う人たちにも影響を与えるだろう。

    でも与える影響は自分で決められるわけではないので、結局は自分の思うように生きるしかできない、とも思う。
    ー-----------------------------

    というわけで、元々の書籍から出発して、論文を元に自分の死生観を改めて言語化してみました。

    お読みいただいた方、ありがとうございました。

  • 死について真剣に考えるのはジュニアとシニアだという。ジュニアにとって死は驚きであり恐怖である。何もかもが失われることらしいが、それがいったいどういうことなのかもよく分からない。真剣に考えるほど分からなくなってくる。つまり、人間は必ず死ぬのに何も分からない。それが不思議であり怖さの原因なのだ。微細な子どもは考え抜いて哲学者になるとは著者の言葉だ。

  • 図書館で借りた。何かやはり難しいテーマです

  • 素晴らしい。久しぶりに大絶賛したい内容でした。
    難解な問題であり、内容も難解なのだけれど
    それを読みやすくわかりやすい内容にて語られていく。

    そこには、宗教のもととなる考えがあったり。
    本質があったり、本当に純粋な気づきがあったり。
    私の周りのすべての人に読んでほしいと思いました。

    哲学をしっているわけではありませんが。この本は
    すべての哲学をふくんでいるのではと思います。
    また、すべての宗教の発端がこの本の語りに
    現れてくるものではないかと思いました。
    200P弱の短い本ですが。。。

    特に子どもには、読んでほしい。わかりにくくても
    なんどでも繰り返して読めば必ずわかるし、わかれば
    考えが突き抜けていく感じがする本だと思います。

    他者の死
    (二人称の死。三人称の死)(疚しさ)
    私の死
     さしあたり、まだ
     いつか必ず
     (いつか、必ず、その先が無い、私のとって、ありえないもの、理不尽)

    『ない』の光に照らしだされた『ある』
    『もう、ない』『いま、ある』が『まだ、ない』
    『いま、ある』ことの晴れやかさ

    読んだ後に感動的な想いも生じる本でした。

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著者プロフィール

1957年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。哲学博士。現在、慶應義塾大学文学部哲学科教授。専攻は現象学、西洋近・現代哲学。
著書に『フッサール 起源への哲学』『レヴィナス 無起源からの思考』『知ること、黙すること、遣り過ごすこと』『「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦』(以上講談社)、『「実在」の形而上学』(岩波書店)、『デカルト――「われ思う」のは誰か』『デリダ――なぜ「脱-構築」は正義なのか』(以上NHK出版)、『生命と自由――現象学、生命科学、そして形而上学』(東京大学出版会)、『死の話をしよう――とりわけ、ジュニアとシニアのための哲学入門』(PHP研究所) など。

「2018年 『私は自由なのかもしれない』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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