- Amazon.co.jp ・本 (309ページ)
- / ISBN・EAN: 9784575710908
作品紹介・あらすじ
「マンガこそが日本の世界に誇る最高の文化である」と著者は言い切る。だからこそ、本格的なマンガ論の出現が待たれていたのだ。洪水のように出版され続けるマンガ出版物について、俗論ばかりが語られてきたが、本書の刊行を画期としてマンガ評論の流れは明らかに変わった。海外にも知られた、論争的にして威風堂々の現代日本マンガ論。
感想・レビュー・書評
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マンガ評論のための原理論を提示し(ついでにその過程で既存のマンガ評論を厳しく批判し)、マンガ史を概観し、その上で個別の作家についても論じるという、かなりお腹いっぱいになれる一冊。著者自身のマンガ論について触れている章にはやや難しい箇所もあるが、かなり大事なことを言っているので頑張ってついてきてほしい。
元は1986年の本だが、中身は全く陳腐化しておらず、個別に論じている作家のセレクトも良すぎるので、今でも十二分に通用する内容だといえる。個人的には、いしかわじゅん以外は全員読んでみたいと思った。特に、ガキの頃アニメで観た「ぼのぼの」の印象しかなかったいがらしみきおについて知れたのは、大きな収穫だった。
著者は「本書を叩き台に(マンガ評論が発展してくれたらいい、的なことが続く)」などと控え目に述べているが、むしろマンガ評論をたしなむためには避けて通れない一冊だと言っても過言ではないだろう。
590円。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
もはや日本のみならず世界にまで影響力を持つに至った日本の「マンガ」を体系的にまとめた評論集がないことを以前から憂えていた著者渾身のマンガ評論集。1950年代から1990年代にかけてのマンガ界の少年誌青年誌などの変遷。個別作家論など多岐に渡り該博な知識を一体どのように手に入れたのだろうかと考えていたが、ウィキペディアで見る限り著者の持論が「一を聞いて十を知り百を語るべき」ということなのですべてを読んできたというわけではなさそうだが、それでいてというよりそれだからこそ適菜収氏に「昔から言うことが変わらずしかも外していないのは呉智英だけ」と言われる著者の仕事ぶりは圧巻である。敬服に値する。マンガ作家論で出てきた名前何人かは知ってる人も居たし今読んでるいがらしみきお、大友克洋など取り上げられていて興味深く読んだ。その他赤塚不二夫、楳図かずお、はるき悦巳などあらためて興味が湧いた人初めて知った人などいつか読みたい。著者のように十を知るとはいかなくともせめて一を聞いて三を知るくらいにはなれたらなと思う。それにしてもマンガはまだましかも知れないが評論そのもの自体の分野は今どのような状況にあるのだろうか?2、3の人を見る限りみんなTVなどから出なくなるととたんに忘れさられるような状況になっている気がする。それを望んでる人は良いのかも知れないがここに評価経済社会の弊害というべきものが出ている気がする。ただ自分が知らないだけで相手の数字が小さいからと軽んじられてしまう気がする。外見ではなく中身で、本質を見抜く審美眼がいよいよ問われる気がする。このような状況はその分野にとっても、おそらく全体にとってもあまり良い状況とはいえないと思うのだが仕方がないとあきらめるしかないのだろう。先人たちがそうであるよう。黙って粛々と仕事を続けるしかないし自分もそうしようと思う。
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啓蒙主義や左翼公式主義に則ったマンガ評論を一刀両断した本です。
本書によってマンガ評論の新しい地平が準備されたという意味では、この分野におけるエポック・メーキングな著作と言えるように思います。ただ、「封建主義者」を自称する著者は、旧来のマンガ評論を批判するときに鋭い筆の冴えを見せるものの、著者自身のマンガ評論の枠組みを提出している箇所は、少し抽象的な議論にとどまっているような印象をぬぐえません。著者はマンガを「コマを構成単位とする物語進行のある絵」と定義し、線上性と現示性の組み合わせによってマンガを読み解こうとしているのですが、日本語の言語構造との関係を示唆する以上の目立った結論は示されていません。
より重要なのは、本書の中核をなす「現代マンガ概史」でしょう。著者は、1945年以前の「前史」を置き、1945年から80年代以降を6つの時期に区分してそれぞれの時代の達成を簡潔に論じており、マンガ史について考察するための足がかりとなるような、貴重な見取り図を提示しています。 -
(推薦者コメント)
漫画の世界を学術的に論考する本として最適である。この本における“現代”とは1980年代までのことである。 -
何度目かの再読。
マンガの神様が手塚治虫なら、マンガ評論の神様は呉智英。
ネット時代に氾濫する「レビュー」と称したごみ情報(これもまさにそうだが)とはレベルが違いすぎる。
本当に役立つ情報が欲しければ百人の凡人ではなく、一人の賢人へと尋ねればよい。
ただし理解するにはそれなりの知性が必要ではある。