〈悪口〉という文化

著者 :
  • 平凡社
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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582427158

作品紹介・あらすじ

悪口は流血の武闘に発展。だが一方、それは暴力を抑えるだけでなく共同体の「秩序」を維持した知恵だった。悪口の収まり方(実例、『浮世風呂』、落語「野崎詣り」など)。中山太郎「悪口祭」の再検討。イギリス、スペイン。メキシコ高地での悪口の実例。『御成敗式目』十二条とは?など、悪口の魅力的な役割。

感想・レビュー・書評

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  •  まず、中山太郎の研究が取り上げられる。
    P66
    【悪口祭に言い勝つということは、その人間の願いが神に聞き届けられたということであり、したがって悪口祭は、その結果その人が一年中福運に恵まれるという一種の年占である。そして同時にそこには、日常生活で素行の悪い人間を戒める社会的制裁の要素も含まれているのだということになる】
     山梨県における1869年におきた正月14日の道祖神祭禁止について、若者組が狂ったように笛や太鼓を鳴らし、新婚・新築その他慶事のある家から、祭の寄付金を徴収した。市村長が制止しようとしても、神がついているのだから、俺たちを止めるなと激怒する。慶事のあった家への寄付の強制は富の再配分にあたり、凶暴なふるまいは、悪魔を払うためには道祖神の凶暴な霊威を借りるのでそうならざるを得なかったともいえる。
     つまり、悪いふるまいをする、暴れるというのは、共同体をうまく維持するためのものだということだ。暴力性によって、金持ちになったやつから奪って、格差を失わせるようにする。秩序の維持に対する知恵であると思われる。

     また、バトルについても触れられている。
     P150では【歌決闘とは、イヌイットが集団で暮らすようになる夏期に、全員が集まる広場で行われる集会での掛け合い的な歌の遣り取りである。歌のスタイルは様式化されているが、内容は即興を含めて相手を嘲ったり傷つけたりするように作られており、物真似や身振りを交えたり、時には家族のコーラスによる応援を受ける場合もある。そしてこの歌決闘の結果、集会の場において聴衆の拍手喝采をより多く獲得した方が勝者となる。ただしここでの「勝利」とは、物質的その他の補償を得るのではなく、威信が回復されるのみであり、しかもわれわれの考えるような「正義」といった観念と直接的には関係のない心理的な勝利である。
     歌決闘によって解決される事柄は、通常は殺人を除くあらゆる種類の怨恨や紛争に及ぶとされるが、グリーンランド東部では殺人さえも含まれる場合がある。さらに重要なことは、いかに汚い侮辱の言葉が飛び交ったとしても、それに対して怒りや激情を示すことは禁じられている点である。前述のように聴衆の拍手喝采を得るか、あるいは相手を沈黙させた者の勝利となるというのが原則で、歌決闘の終わった後は両者は和解し、時にはその記念にプレゼントの交換を要求されるともいう。】
     彼らは、警察・司法の機構を欠いているので、それにかわる自律的な紛争解決手段としての歌決闘に頼り、それが最終的なものであると社会的合意がなされているのだ。
     P198から199にかけて、江戸っ子の喧嘩についても書かれてあり、イヌイットとの共通性が述べられている。
    【江戸ッ子の喧嘩は、現代の都会の巷に見られる血なまぐさい決闘とは大分ちがって、決闘ではなしに口喧嘩だった。立て板に水を流したような、いわゆるタンカを切ることが江戸ッ子の喧嘩の時に出る言葉だったのだ。江戸ッ子は本気に怒った時でも、衆目の前でいきなりなぐりあったりはしなかった。まずタンカを切る。そのタンカが、人の意表をつくとてつもない言葉を発した。すると、この言葉が聞いている周囲の町人たちをどっと笑わせた。目的はここにあった。相手側も負けまいとしてタンカを切り返す。それがまた相手の意表をつくとっ拍子もない言い方をする。そして、このタンカに見物人が笑う。つまり見物人の笑いの声、あるいはこれにともなう弥次馬のかけ声の多少によって勝負は決着したのだ。笑われることと、すごすごとその場から姿を消していくのが常だった。もし、覚えていろ、といった捨て科白ぐらいで止めないで、腕力を振りまわすようなことがあると、かならず弥次馬の中から仲裁人が飛び出して、そんな野暮なことをするなとたしなめられる。】【塚崎が指摘するように、「相手を周囲の者に笑わせてしまうということが勝利を意味していた」とすれば、ここには腕力という肉体的な力とは別な力が優越していることになる。これは特に悪態祭と呼ばれるような儀礼の場ではない、ごく普通の日常生活の場である。だがそこにもこうした悪口の力は潜んでいたのである。】
     202Pにはこうある。
    【悪口歌の掛け合いは、実際にトラブルをかかえた男女や女同士が本気で掛け合うだけでなく、楽しみのために冗談で掛け合うこともあり、同時にまた共同体の娯楽という要素があったことも見逃せない。当意即妙な受け答えを演者も観客も一緒になって楽しむという側面が存在したのである。それはまた日本古代の習俗として知られる歌垣などの、若い男女の交歓する場における掛け合いと同種のもので、特に取り上げなかったが、悪態祭、イヌイットの歌決闘、アフリカの太鼓合戦など、これまでに挙げた事例にも、同じような娯楽性は共通する。】

     そうして、著者は「悪口」とは何かと最後に結論する。それは、「悪口とは智恵である」ということだ。情報ばかりの時代に、闇も光も業も幸福も含んだ人間が長いこと使いこんできた言葉の智恵。それが悪口であり、その悪口を使いあえる共同体がなくなったので、社会の混乱は深いものとなっただろう。悪口は共同体の再確認作業のためにあったのだから。こうした、智恵がなくなれば、著者はそのあとにはファシズムが待っていると述べる。【そうした事態を防ぐために、自分の内面を含めて、表現しようとする事柄に合わせて自由に的確な表現を選ぶことができ、言葉を思うままに使いこなせるような表現能力を身につけるには、悪口のように一見ネガティブな世界についての理解も欠くことはできないのだ】と結論する。もちろんそうだ。私たちは右派であろうが左派であろうが、どちらも独裁的になることはとっくに知っている。ツイッター等でその片鱗は左右両方に対して日々目にしている。そういったネット社会のなかで、言葉の智恵である悪口についてもっと深く考えることは大事なことだろう。善人顔して都合のいいことを言う人に対して、悪口を挑んで退却させ、漸進的に世の中を良くしていくのが、庶民の智恵である。

  • この本の御成敗式目の悪口罪の検討はとてもおもしろい。悪口の禁止は単に乱暴な連中どうしの悪口が殺し合いに発展するのを防ぐだけでなく、ちゃんとした理性的な裁判を行なおうとする態度を示すものであった、みたいな。おもしろい!

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著者プロフィール

山本幸司(やまもと こうじ)
1946年東京都生まれ。慶應義塾大学大学院経済史専攻修士課程終了。出版社勤務を経て、中央大学大学院国史学専攻博士課程単位取得。神奈川大学短期大学部・同大学院歴史民俗資料学研究科教授を経て、現在、静岡文化芸術大学文化政策学部教授。専攻、日本中世法制史・思想史。著書に『天武の時代』、『頼朝の精神史』、『日本の歴史09 頼朝の天下草創』、『〈悪口〉という文化』など。

「2009年 『穢と大祓』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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