(066)「お迎え」されて人は逝く (ポプラ新書 お 4-1)

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  • ポプラ社
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  • Amazon.co.jp ・本 (196ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784591146309

作品紹介・あらすじ

死は、けして敗北ではありません。
人生を、医療任せにしてはいけません。
「亡き母が手を握ってくれた」「夫と愛用車でドライブに行った」――これまで幻覚・せん妄として治療対象であった「お迎え」現象が、死生に向き合う貴重な過程として医療現場で注目されている。死を怖れ、痛みとたたかう患者に何ができるのか、緩和ケア医として2500人を看取った医師が終末期医療のあり方、死との向き合い方を問いかける。

感想・レビュー・書評

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  • タイトルだけ見るとスピリチュアル系の本のようである。だが著者は現役の医師で、病院の診療部長として、臨床と教育の両面で緩和ケアに携わっている人物である。

    近年、日本で臨終を迎える人の多くは、病院で息を引き取る。全体としては8割、癌患者では9割という。こうした状況は実は先進国でも珍しく、背景には日本独自の国民皆保険制度がある。それ自体はすばらしい制度ではあるが、何かあればすぐ病院へ、という風潮は自然、強くなる。
    病院は、その性質上、「病気と闘う」ところである。可能性がある治療法があれば試す。こうすれば治る「かもしれない」、治る「可能性がある」手立てがあれば、提案する。
    ここでは、基本的に、「死」は敗北である。「自分は絶対に治る」と頑張る患者もいれば、「こうすれば助かったのではないか」「こんな手段もありえたのではないか」、とあきらめがつききれない遺族も出る。
    だが、極端なことを言えば、最終的にはヒトの死亡率は100%である。長く見積もっても、百数十年を過ぎれば、どんなヒトでも必ず亡くなる。
    「死」が敗北であるならば、誰しも負け戦を生きていることになる。

    一方で、病院での臨終は、往々にして、画一的になりがちであり、家族から切り離されがちである。
    口から食事が出来なくなれば、点滴で栄養を入れる。
    精神状態が悪くなれば、強い薬で意識レベルを落とすこともある。
    実際に危ないということになれば「ご家族は外でお待ちください」と病室から出される場合もある。
    そうした中で、弱っていく親しい人に十分ふれあう機会がないまま、別れの時を迎える家族もいる。
    これでは患者も不本意であり、家族にも悔いを残すのではないか。

    著者は職業柄、多くの人を看取ってきている。その中で、印象に残ってきたのが「お迎え」現象である。臨終が近くなると、「ああ、お兄ちゃんが迎えに来てくれたよ」「お母さんがあそこで待っている」と、以前亡くなった親しい人の姿を見る人がしばしばいるのだという。
    こうした場合、現代医学では「幻覚」や「せん妄」症状と見なして「治療」の対象とされる場合もある。
    だが、本当にそれでよいのか。
    本人が「あの人が待っていてくれるから」と安心して息を引き取ることができ、家族が「よかったね、あの人に会えるよ」と送り出すことが出来るのなら、「お迎え」現象はむしろ、喜ばしいことではないのか。

    少し前までは、医療者が「お迎え」現象を語るなど、言語道断だった。「非科学的」とも言える現象だからだ。だが近年、医療者の中にもこの現象に注目する人が増えている。

    著者はこの「お迎え」を日本人の死生観にあったものと見る。
    強い宗教的信念を持たない人も多いが、日本人は、神社で手を合わせ、寺に参り、大木を祀ってきた。何とはなしに大気に満ちる「何者か」を敬う風潮は昔からある。
    誰しも「死」を迎えるのは一度だ。どんな世界なのかわからない「あの世」への架け橋を、親しかった懐かしい人がともに渡ってくれるなら、それは怖いことではなくなる。本人にとってはうれしいこと、遺族にとっては安心なこととなりうる。
    盆の迎え火。墓参り。
    「この世」と「あの世」との境界はゆるりと越えるものであったのかもしれない。

    厳しい治療で身体を痛めつけるのではなく、薬で意識を落としてしまうのでもなく、最期のときをゆるやかに過ごせれば理想的なことだろう。

    高齢化社会を迎え、一方で、病院の病床数は限られている。今後は、病院で死を迎えられない人も増えるだろう。自宅での看取りも増えていくと目される。自宅介護には家族の負担の大きさもあり、きれい事では済まない部分もある。
    家族や自分にとって、どんな臨終がありうるのか、どんな臨終が望ましいのか。亡くなった後の葬式や墓を考えるだけでなく、臨終自体を考える「終活」があってもよい。
    もちろん、どんな死を迎えるのか、予測はつかないが、いざそうなる前に、あれこれ考えるヒントをくれる1冊である。

  • 「死の準備」が出来て「お迎え現象」が体験できるのは死に方としてはまだマシな方なのかなと思う。「せん妄」との区別は難しい点もあるのだろうが。
    余命日数にもよるが、最近では急性期病院でも所謂「看取り」をしてくれるところが増えてきてるので、緩和ケア病棟との境界線は曖昧になりつつある印象もある。他方で、訪問医は「諦めるのが早い」という印象もあって、それが結果的に誤診につながることは懸念材料ではある。

  • 死を常に意識して毎日を大切に生きて行きたい。
    でもそんなに簡単に死を受け入れられない。
    本当に難しい話だと思う。

  • 医師である著者が非科学的なお迎えという現象を肯定的に描いている。

  • 「お迎え」を終末医療の観点から意味づける。
    死は生の延長にあり、タブーとは考えない。

  • 「ひとりで死ぬのだって大丈夫」と重なる内容が多かった。

    スピリチュアルペインとは
    逝くときが迫り、自分はもう将来を思い描けない、そんな状態で生き続けることに対する恐怖や「生きがいの喪失」を感じるときの、こころの痛み、魂の叫びこそがスピリチュアルペインP114

    健康の定義:肉体的(フィジカル)、精神的(メンタル)、社会的(ソーシャル)
    緩和ケアはこれに「魂の健康」を加えて考える

    医療が未発達の時代の人間の死生観が記された書:ギルガメシュ叙事詩に学び様々な時代の人がどのように生きて死を迎えたかということについて、神話学、社会学、心理学などのいろいろな視点から考えた

    『御文章』蓮如上人)浄土真宗聖典 四帖三百御詠歌

    死生学を学ぶ意義~自分らしく生きて、自分らしく死にたいなら

    看取りとは、死の予習ができる大切な機会

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