甘美なる来世へ

  • みすず書房
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本棚登録 : 84
感想 : 9
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  • Amazon.co.jp ・本 (399ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622070696

作品紹介・あらすじ

こんな小説、見たことないのに、なぜか、とても懐しい…アメリカ南部の田舎町、ニーリーで巻き起こる、笑いと脱線と戦慄の物語。柴田元幸の超絶技巧な名訳で。

感想・レビュー・書評

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  • 2015/5/1購入

  • 私、みすず書房の本読んで、吹き出したのはじめてじゃないだろうか。偏執的な書き込みによる、感動要素皆無の「しょうもなさ」を満喫。長い長い文章、改行も滅多になく、ページは何というか真っ黒で、コストパフォーマンスが高いことこの上ない。盛大に暇がつぶれました。柴田元幸氏って、ホント偉大だわ。

  • ☆☆☆☆☆

  • 帯には抱腹絶倒とか書いてあるけれども抱腹することもなく絶倒することも私はなかった。でもしかし全編に渡り読んでいる間中全くもってニヤニヤするの我慢するのが大変で、もしかしたら電車でニヤニヤしていたのかもしれないですけれどもそんなことはさておきまして大変に楽しかったです。私が生きているこのbitterなる今世の味がしました。こんなんだけど不味くはないです。この本もそんなんなんですが決して不味くはないです。というよりも悲しいかななかなかの味わいなのです。一緒にするのもなんですが、とても似たようなもんです。
    このお話はアメリカ南部のニーリーという多分にして確実に架空の田舎町が主な舞台であり、沢山の人物が出てきます。出てくるだけでなく、取るに足らぬ些細な個性が充分に記述されています。この点に大いなる満足を得ました。特に劇的でもなく特に何が起こるわけでもないようでいて実は何かが起きているわけですが、そんなことは取り立てて騒ぐべく事柄でもなく、むしろ主には大変に劇的ではないことばかりが延々とつづられていく。がしかし、それが大事。それがポイント。動機やなんかなんて結局後付けでしかなく、物事の理由は全てそこにあるような気がします。なんて思っているうちにベントン・リンチの顔とは相反した平坦なペースでもって一つの劇的な物語はスポットライトを浴びることもないままに終わってゆく。世に起きている事件なんてこんなものだろう。少なくとも私はそう思いました。もう最高です。
    この物語は物語るべくして物語られているわけで、物を語るにはまずは周りからというのでしょうか。その物語をその物語らしめる所以は、別にその物自体を語り聞かせることもないのだということがよく現れていました。周りが固まるとおおむね真ん中も定まるというもので、てんでばらばらのようでいて、しかもそのばらばらがそれぞれ面白く、更に結果としてはしっかりと定まった小説でしたが、そのことをとくとくと語って聞かされたわけではないので、自動的に着地点が自分から沸いて出てくるという仕組みでしょうか。

  • 小説の感想に「要するに」だなんて言葉、使わないでください。下手なテーマに還元した途端、その小説は「ダメ」になってしまいます。……というわけで、無駄と脱線に満ち溢れたとても楽しい作品。

  • これから読みたい本。

  • フォークナー的な南部の伝統を引き継ぎつつも、語られるは何ともバカらしく、そしてバカ正直に語られる話。

  • とてつもなくへんてこな小説であるとしか言いようがないのだが作者が1956年生まれであることを奥付で見て不思議な気分を思わず覚えるのは柴田元幸の訳になるこの「甘美なる来世へ」を読んでいる間はピアソンがもっと年配の作家であるような気がしていたからでありまた先日読んだ「カンバセイション・ピース」の保坂和志がやはり1956年生まれであるからでもある。

    出だし、長い長い2頁にまたがるたった一つのセンテンスで、この本は始まる。句読点も極端に少なく、何度も同じことが言い直され、一見しただけでは、もつれた糸の様にしか読めない文章。解説に引用されているその冒頭の原文を見ても、確かに一つのセンテンスである。もっとも、英語には後ろから掛かる関係代名詞という強い武器がある。だから後ろに後ろにと、修飾したり説明を加えたりしながら一つの文章を伸ばしていくのは、日本語に比べれば少しは自然にできるのかも知れない。しかしそれを訳すのは、しかも原文の雰囲気、あるいは見た目、を損なわず訳すのは並大抵のことでないだろうな、と変なところからまず感心してしまう。しかも、400頁弱に渡って、延々とこのような文章が続くのだから。

    こんな変な小説を読んで真面目に感想を書くのも可笑しな気分だけれど、いや実際、単純に可笑しがるだけでもいいのだと思うのだけれど、なんとなく気に掛かるものがあるのも事実なのである。例えば、柴田元幸が「脱線につぐ脱線」と形容するピアソンの特徴は、実際には脱線というよりは、その場で起っていること全てを言葉に起こす、という徹底した「記載」のようなものであると思う。文章を綴っているのは物語には関係のない第三者であり、その誰の視点にも肩入れすることなく注がれる公平なまなざしというものを、まずは感じることができる。どんな登場人物にも等しく丁寧な記載がされているのだ。外面的な特徴から始まり、何をその時感じているのかにもさらりと触れる。でありながら、だれか一人に拘泥することはない。そして、この点が大切なところだと思うのだけれど、何が良くて何が悪いのか、などというつまらない倫理も問われないし、断定されることもないのである。そんな雰囲気を感じたら、保坂和志の「カンバセイション・ピース」との比較をしてみたくなった。

    保坂和志が限りなく第一人称の視点のこだわり、日々の生活を舞台にして起こる個人の中の様々な思いや感慨にとことん言及しながら、周りで起こる色々なことには、個人の価値判断を強要しない、というか、判断を保留することを基調としているのに対し、まるで雰囲気は違うものの、ピアソンが登場人物たちに注いでいる視線にも、同じような暖かさといってもいいようなものを感じる。あるいは、単なるエンターテイメントであるだけなのかもしれないけれど、主人公らしくない主人公ベントン・リンチの、あるような無いような人生観のようなものと、カンバセイション・ピースに出てくる高志の生きざまには、どこか通じ合うものがある。

    部屋から滅多に外に出ず小説を書き、贔屓の野球チームの応援のためには電車を乗り継いででも出かける高志。一方、うん、と、ううん、を会話の基本とし、普段は父親と一緒に鶏小屋の中で時を過ごしつつ、ふらりと何処かへ出かけて暫く帰ってこなくなったりするベントン。日常と非日常を併せ持っているところも多少似ているし、その決して多弁ではない佇まいも共通するところがある。ピアソンの「甘美なる来世へ」では微に入った説明に振り回され、俯瞰的な視点を取り続けながら読むことは難しいが、挿入される数多くの記載を刈り取って残るものは、社会的には残念ながらといわざるを得ない面もあるが、米国現代社会においては、よくある話の一つに過ぎない日常だ。ややこじつけのようになるが、どちらもそんな日常における普通の人々の動きというものを丁寧に描写しているところにも、共通する何かを感じてしまうのだ。

    解説によれば、この本に登場する米国南部のニーリーという田舎町を舞台に、ピアソンは3冊の小説を書いているそうだ。そこにある、ありふれた日常。そういうものにピアソンはこだわりを見せているようであるし、この本からもそれは読み取ることができる。しかし、そんな平穏な町でも喜怒哀楽の波は複雑にもつれ合っている。それはアメリカ人に対して言われる、一見フレンドリーでありながら本当に思っていることは決して明かさないという、ややステレオタイプな図式、人間模様の絡み合いでもある。そういう社会で素朴に生きるということの、難しさ、そして、可笑しさをピアソンは描き出しているのだとも言える。

    普通の人を装い、自身がその仮面を付けていることに違和感を覚えないどころか、その仮面が素顔だとすら思っている人間達の営む狭い社会。保坂和志の小説には、その虚構と現実のギャップという要素は多くは含まれていないが、ピアソンの小説の中ではそのジレンマが一見コミカルな装いで語られていると言ってもいい。

    ここに至って連想は、谷川俊太郎の「まじめな顔つき」という詩に辿りついてしまう。

     まじめなひとが
     まじめにあるいている
     かなしい
     
     まじめなひとが
     まじめにないている
     おかしい
     
     まじめなひとが
     まじめにあやまる
     はらがたつ
     
     まじめなひとが
     まじめにひとをころす
     おそろしい
     
    一見したところ言葉遊びのように見えて、最後の最後で「死」に対してだけは感情がむき出しにならざるを得ないということ、まさに「甘美なる来世」を信じてジャンプするしかないものである「死」、そのことだけはピアソンもまた、まじめに、捉えているのだろうな、と思ったのだった。

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