「源氏の英雄」八幡太郎こと源義家の伝記。清和源氏の祖基経や祖父頼信、父頼義、子孫の頼朝らについても触れられている。
同時代の人にも義家は勇猛な武者ではあったが野蛮であると恐れられていた。前九年はともかく後三年の戦いは東北に利権を求める義家らの私戦であり、戦況は泥沼化。後半生は不遇で、弟義綱との対立や子の義親の反乱などがあった。
本書では為義を義親の子で義家の孫ではなく、義家の四男であるという研究を採用。また為義の嫡男は義朝ではなく義賢としている。当時、彼ら河内源氏は源氏の棟梁ではなく、一つの流れにすぎなかった。
頼朝の東北攻めは頼義の例にのっとった。しかし義家が英雄視されるのは、母方の祖父平直方の子孫の北条氏の力が大きいという。時政は自分を直方になぞらえた。頼朝と娘政子の子である頼家の名は義家にあやかっている。一方、足利家時や尊氏、徳川家康らが源氏の嫡流を自称するとき義家の子孫と称したのも大きい。またあ、近代教育の力でもある。
河内源氏については元木泰男氏の新書がある。当時の王家(皇室)、摂関家や貴族との関わり、軍事貴族との関わりを調べてみたいと思った。
メモ
八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光
義家は白河院に伺候、義綱は摂関家藤原師実、師通に伺候