日本人の名前の歴史 (読みなおす日本史)

著者 :
  • 吉川弘文館
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  • Amazon.co.jp ・本 (273ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784642067652

作品紹介・あらすじ

日本人の姓は天皇から与えられた。同姓集団が拡大するなかで、地名や官職名などから名字が生まれた。実名(諱)は憚られ、役職・兄弟順などで呼ばれた。苗字・名前のルーツと多様な展開をわかりやすく軽妙に叙述する。

感想・レビュー・書評

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  • 「名字と名前を知る事典」と同じ著者のため内容は同じ部分もありますが、
    https://booklog.jp/item/1/449010703X
    こちらは「日本人の名前の歴史」のため、日本における名前や呼び名の変化がより詳しく出ています。
    名前を通して考える日本の歴史はかなり興味深い。
    この本で分かった部分と、もうちょっと知りたいな〜という部分があるので、名前本はまたしばらく読んでみます。

    【賜姓、改姓、復姓、貶姓】
    ✔天皇には、姓に関する権限があった。
    ✔賜姓:天皇から恩賞として姓を賜る。臣籍降下の時の「源、平」。職業を認められて「衣縫」など。
    ✔賜姓:天皇から賜姓し、改姓する。中臣(神事を担当)→藤原(政治を担当)
    ✔貶姓:罰則として姓を取り上げる。和気清麻呂→別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)
    ✔復姓一時的な貶姓の場合は元の姓に戻る。

    【称号と名字】
    ✔平安京の家を区別するために、○条、堀川などの地名を称号として使った。
     通婚だった頃は、父と息子では称号も違う。
     夫が父の邸宅を相続して妻を迎えるようになってからは、称号も受け継ぐようになり、称号は「名字」に転化していった。

    【武家社会の名字】
    ✔公家社会での名字は住所の地だったが、武家社会での名字は領地、本領の地名だった。そのため武家の名字のもとになった領地を「名字ノ地」といい、”一生懸命ノ地”として守ろうとしている。
    ✔親子、兄弟で、名字ノ地が違えば名乗る名字も違う。
     鎌倉武士の三浦義明の場合は、弟は筑井、息子は和田(和田義盛ですね)、三浦、大多和、多々良、長井…など。

    【姓名と名字と苗字】
    ✔姓名は公称(皇称)。
    ✔公的な(皇的)書類では、鎌倉の執権北条氏は「平」と自署し、織田信長は「藤原信長」(桓武平氏の子孫を自称していたけれど、本当は藤原氏子孫なのかな)、徳川将軍は「源」を使っていた。
    ✔「名字」は、江戸時代頃から「苗字」 になった。

    【源平合戦】
    ✔平清盛(死後は宗盛)の平家vs源頼朝&源氏&関東武士。
    ✔源氏の部下:東国武士の多くは桓武平氏系。北条、畠山、三浦、など。
     すると、東国土着の平氏庶流が、源氏を主将にして、平氏の総本家と戦ったということになる。
     源氏の一族:頼朝が首将で敵は平氏はあるが、源氏の領袖たちはそれぞれの動きをして、ときには敵対しあっている。新宮十郎行家、木曽義仲、佐竹氏や新田氏や武田氏など。その上義経も後白河法王から簡易を拝領している。源氏一族にとっては、平氏打倒よりも源氏一族の派遣が大事だった。
    そもそも源平合戦のころの源氏一族は天寿を全うした人は少なく味方討ちも多い印象。
     戦死の為朝。
     処刑の義平(悪源太)
     源同士で殺された義朝、行家、範頼、義経、頼家、実朝、木曽義仲。
     突然死の頼朝。
    平家物語などで驕り高ぶったと印象の悪い平家のほうが、少なくとも時子筋の一門は家族会議を行ったり、一門で共に死ぬくらいの団結力はありましたよね。
    ✔名前を取り上げる、他者により勝手に改名させられる事があった。
     例えば義経は、頼朝から討伐令が出た時に改名させられている。
     義経→「よしつね」という同じ呼び名の別の者がいたから、「義行」に改名→それでは「よく行く」という意味になってしまうので、すぐ見つかるように「義顕」
     おそらく義経本人はそのことを知らないので、ずっと義経と名乗っていた。ふーーん。
    ✔頼朝は、源の姓を名乗る権利を制限した。弟の範頼と義経はそれを破ったため殺害された。
    ✔その反対に、味方の中でも功労者には源一門と同じ扱いにした。そのため、認められなかった一族は、源が名乗れない代わりの姓、新田、佐竹、武田などを名乗るようになった。

    【本名字、複合名字、新名字】
    ✔本名字:父から一人の息子が総領となり全てを引き継いだ総領制の頃は、名字を名乗るのも総領家のみ。これを本名字という。
    ✔新名字:総領家から一族所有の一部分を分領された庶子は、分領された領地の地名を新名字として名乗る。
    ✔複合名字:同族内では新名字だけを名乗るが、他氏に対しては「宗家が〇〇の△△です」言う意味で本名字+新名字で名乗ることがあった。

    【庶民】
    ✔武士にとって、名字は領主としての地位「名字ノ地」であり、名字ノ地と官職名を続けて名乗る風習だった。
     畠山重忠の正式名は「畠山荘司平次郎重忠」→畠山荘の荘司の平重忠、という名前。
     そのため、農民が名字を公称すれば、その名字ノ地を所有していることになってしまう。そのため、本来は農民にも名字があったのだが、名乗ることは自粛したり、領地によっては規制があった。
     日本人って昔から”空気読め”、”自粛”、”不謹慎”でやってきたんですね…。
    ✔農民にも名字があり、幕府などにより禁止されていたわけではなく、むしろ許可されていた、しかし自粛や慣習や、地方によっての規制で、公的な場では名乗らなくなっていった。
    ✔苗字が許可されたのは、神職、医師、相撲取(なぜ特別扱い?)、御用商人、代々苗字を許された郷士など。
    ✔功績があった者には、領主が苗字と帯刀許可を出した。これは一代限りの場合もあり、子孫にも苗字を継いでも良かった場合もあった。
     平安時代ごろまでは名字を与えるのは天皇の権限だったのが、鎌倉幕府もやるようになり、さらには一般領主もできるようになったと権限が下がっていった。
     だがこれはキリが無くなったので、江戸幕府が禁止した。
    ✔明治時代に、納税のために苗字を登録させ、名乗りたくない場合は新たに作らせた。

    【幼名、童名】
    ✔子供の頃の名前。元服したら改名。嵯峨天皇が唐の国から取り入れたらしい。記録に残る一番古い童名は、菅原道真公らしい。ふーーん。
    ✔「〜丸」は、可愛らしいというような意味で、目上から目下への呼び名。だから配下が義経に向かって「牛若丸様」などと呼んではいけなかったんですね。ふーん。
    ✔大人であっても、敵対する相手を「〜丸」呼ばわりすることもあったらしい。
    ✔元服しない賤民は成人してからも「〜丸」「〜童子」。盗賊の山賊の酒天童子や茨木童子、芥川龍之介「藪の中」の多襄丸。

    【系字と通字】
    ✔系字:兄弟(横並びの同一世代)が実名に一字を共有。
    ✔通字:祖父、父、孫と、縦並びの数世代に渡って実名の一字を共有。

    【名、という意義】
    名を揚げる、名を惜しむ、名を流す…など、「名」に関する言葉があるのは、日本人にとってただの名前ではなくて人格という内面的なものも含んで捉えていた。

  • 東2法経図・6F開架 288.1A/O57n//K

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著者プロフィール

1936年、東京都に生まれる。1971年、早稲田大学大学院文学研究科史学専攻国史専修博士課程修了。元日本医科大学教授。2008年没
【主要編著書】『鎌倉北条氏の基礎的研究』(吉川弘文館、1980年)、『時頼と時宗』(日本放送出版協会、2000年)、『日本家系・系図大事典』(東京堂出版、2008年)、『吾妻鏡の謎』(吉川弘文館、2009年)

「2020年 『天皇家と源氏 臣籍降下の皇族たち』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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