- Amazon.co.jp ・本 (123ページ)
- / ISBN・EAN: 9784652078037
感想・レビュー・書評
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中学生時代に、図書室にて発見。その後大学に入学するまで気にかけていた。読んでもいないのに人に紹介してしまったことが手にしたきっかけだ。
新書に触れるきっかけと同時に、人間の無自覚こそがこの世で最も始末に負えないという、私の価値観の原点となった作品。漢和辞典の「民」の項には、「眼を潰された奴隷の意」とある。私たちは私たちの無自覚、無知、無関心、無神経に、眼を潰されているのだ。今も昔も。
浜松に屠殺場があるらしいので、先日渡された給付金を使って見学に行ってみようかな。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
食卓に並ぶ目の前のお肉はどこから来たのか?
走り回っていた豚を殺し、食肉へとするのは誰なのか?
食べ物が来た道をたどると、部落差別の問題がある。
人間の暮らしは生き物の命を奪わなくては成り立たない。
命を奪って、いただいているということを感じることのない世の中。そして、食の営みを支えてきた人は『穢れ』た人々として差別されてきた。命を奪われていることも実感しなければ、そこに蔑まれている人がいることも知られていない。
食を通して、知ることの大切さを伝える。
心に残ったところ。
『でも、ぼくらは、とても忘れっぽい。言い換えれば、すぐに、目の前の現象や今の環境に慣れてしまう。それが当たり前になってしまう。これを思考停止という。この思考停止がいくつも重なると戦争が起きる。回避する方法はいくらでもあったはずなのに、誰かが思考しなくなり、やがて皆の思考が止まり、そして戦争が始まる。・・・中略・・・責任者を探すけど見つからない。それはそうだ。責任者は全員なのだ。でも、誰もがいつのまにかそれを忘れている。』
この人は、現実を伝えたい、知ってほしい、それを強く願っているんだなと思う。子どもたちにそれを伝えたいと思っているんだなと思う。 -
テレビでドキュメンタリー制作に関わってきた著者が、と場で働く人々への取材を通し、タブー視される歴史的背景や被差別部落の問題について、分かりやすく書いてあります。
なぜ魚市場はテレビにもたくさん紹介されるのに、肉はそうではないのか。
この本を読んで、日常食べている肉が牛や豚や鶏のいのちの上にあるという当たり前のことを考えさせられました。
また、家畜のと殺に関わる人たちが、差別を受けていたこと、現在も差別が残っていることを、自分の問題としてしっかり考えないといけないんだと思いました。
ヤングアダルト向けにはなっているけれど、むしろ大人がしっかりと現実に目を向けなければならないと感じました。 -
文章の雰囲気はあまり好みではなかった(おそらくYA世代に語りかける形をとっていたため)。しかし、内容は、自分が子どもたちに伝えていきたいと強く思っていることとかなりの部分で一致していた。本書は食育や食について家畜について考えさせる内容である(タイトルはまずそれを想起させる)。しかし、著者のメッセージは後半に描かれる差別問題だと私は感じた。日本特有の差別問題である部落差別に対して「今は知らない人も多い。掘り起こすことで差別につながる」という主張をする人もいる。しかし、わたしはこの著者の考え方に同意したい。知ること考えることでよりよい未来は作られるのだと。知らなかったこと蓋をしたことは決してなかったことにはならない。すべて、すべての物事で。戦争だって70年以上経ったから、もう勉強しなくてよい?そんなことないはずだ。偏見・差別、そしてそこから広がる人間の争いについて、自分が主体となり無くしていきたい。そう思わせる、ある種の希望のある書であった。ただ、忘れないでいたい。自分も常に差別をする心の弱い人間であることを。
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元々対象の年齢がそれなりに高いこともあって、全体としては深いところまで突っ込んである。
まずは知ること、に関して動物の肉がどうされて自分たちのもとに届くのかから始まる。
タイトルこそ、食育の印象があるけれど読むと随分と違う印象を覚える。大切なことではあるけれど、よくよく考えたらどうせなら戦争や、部落差別といった話題はタイトルからはずれてしまっている印象。
一個人としては、あくまでも動物の肉がどうやって我々のもとに届いているかを知ることから、もっと色々なことを知っていこうという本だったなと。
思考停止を起こさないように知る。目を向ける。
食事の時に改めていただきます、ごちそうさまでしたを言わねばと自覚した。
小学生の時に図書室でよりみちパン!セシリーズを好きだったことを思い出して、それから不意に成人した今に読みたくなったので購入。
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ドキュメンタリー畑で有名人ですが、よく考えたら初めて読みました。子供向けの本ではありますが、ディープな所まで言及しています。
と畜、屠畜、と殺、屠殺どんな言葉を当て嵌めても、命を奪ってその肉を皆で食べている事は変わりません。毎日お店に並ぶ綺麗にパック詰めされた肉。お店で美味しく調理された肉。どうやって出来ているのか皆考えないで日々食べています。僕だって毎日考えている訳ではないです。
本書は屠場でどういう風に動物が捌かれ肉になっていくかを簡潔に書かれています。僕からすると大分スポイルして書いていると思います。
ちなみに屠畜の現場を詳しく書いている本としては、佐川光晴の「牛を屠る」、内澤旬子の「世界屠畜紀行」があります。この2冊は実際に屠畜を生業にしていた佐川さんと、世界中の屠畜の現場、日本の屠畜場に通いイラストに纏めた内澤さん。この2冊を読むと立体的に屠場の風景が思い浮かびます。閑話休題。
屠畜の在り方以上に時間を割いているのが、被差別部落の成り立ちと未だに根深く続く差別の愚かしさです。人種、宗教、性差などで差別される事すら愚かな中で、何も差が無い人間同士が「穢れ」という古い概念を笠に着て人を差別する切なさ。そこを繰り返し語っています。
部落差別に関して「寝た子を起こすな」という理屈は分かるし、自分もその方が良いのではないかと考えていました。でも知らないで初めてその事(差別)に触れた時に、その間違った考え方に対抗する術が無いのではないかと思い始めています。何故その人が差別されているのか、それの理由を聞いた時に湧き上がる疑問。それをしっかり考える事が物凄く大事なのではないかと思います。
そもそも肉を食べているのに、肉を作ってくれている人達を差別するなんてどうかしている。と言うのは至極真っ当な話です。どんなレイシストだって反論出来る人いないでしょう。出来るのはヴィーガンの人ぐらいか。
この本で森達也さんが言いたいことは「知らないで物事を判断する事は罪である」という事ではないでしょうか。 -
私達は「肉」を常に食べて生きています。
ステーキなどの形だけでなく、多くの食品には「エキス」として肉が使われているし、薬などにも肉から作られるゼラチンのカプセルが利用されているからです。
言ってしまえば、魚も「肉(動物性タンパク質)」ですよね。
しかし、魚とことなり、牛や豚がどのようにして「いのち」から「商品」の形に変わるのか、知る人は少ないのではないでしょうか。
なぜ、「肉」(皮革製品もふくめて)の製造過程は隠されているのでしょうか。
「知る事」と「忘れないよう思い出し続けること」を訴え、常に当事者意識を持つように説く筆者の論には共感できるところが多かったです。
ただ、屠殺場(東京都中央卸売市場食肉市場=芝浦と場)での、と殺の紹介もありましたが、「なぜ、人々は屠殺のことを知らないのか」という疑問から「汚れ」の話になり、そのまま「差別」の話に転じてしまいました。
大切なテーマではありますが、そっちにズレていってしまったのは期待外れでした……。
「肉」として育てられた牛や豚が「おいしい肉になれて、食べてもらえて幸せ」などというのは人々の欺瞞である、という著者の考えには非常に共感しました。
私達、というか「僕」が肉を食べるから、彼らは殺されるのだ、ということを頭の片隅に置くことが必要だと感じる1冊でした。
この中で、被差別部落関連の書籍として「破戒」が紹介されていたので、どこかで読みたいと思います。 -
“大切なことは「知ること」なんだ。
知って、思うことなんだ。
人は皆、同じなんだということを。いのちはかけがえのない存在だということを。”
【いのちをいただく】という本と一緒に考えていたら、戦争や部落差別の問題まで書かれていて、いつか我が子達にも読ませようと思います。 -
タイトルは「いのちの食べかた」だが、内容の大半は部落差別などの「差別」に関すること。読み終わった後の印象として、食肉の素である動物達に対しての気持ち云々よりは、「差別はおかしいね!」と言われている印象の方が断然強い。
この本の対象者はおそらく小学高学年〜中学生あたり? かわいい挿絵。漢字にもすべてフリガナがふってある。著者の語りかけるような口調で、そして時々問いかけもあったりして、先生による授業のように文章は続く。
そんな感じで「子供向け」という印象を与えつつ、でも差別の過去に関しては「子供向け」という枠を脱線して詳細に事実を記述し、分析を行っている。それゆえに差別についての著者の強いこだわりを感じる。先生のような口調の文章であるがゆえに、著者一個人の考えが相当抑圧的に伝わってくる。
「差別」という話題に関しては私自身嫌悪感を抱くわけでもなく、これまでも差別に関する本は自ら手に取り読んだことがあるが、この本は対象を子供として、かつ一見関係のない内容にみせかけておきながら、ガッツリ差別について説く、そのスタンスがどうもいただけない。
言ってる内容は間違いではないんだけどね。