- Amazon.co.jp ・本 (309ページ)
- / ISBN・EAN: 9784791763504
作品紹介・あらすじ
帝国の記憶を隠蔽し「共感の共同体」を捏造する日米の映画からNHK番組改ざん問題までを精緻に分析。「米国の傀儡としての天皇」など、戦後から現在に至る"帝国"とナショナリズムの結託を明るみに出し、歴史的責任をめぐる新しい倫理を構想する。
感想・レビュー・書評
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大変面白い本だった気がするんですがあいにくと眠いタイミングで覚えてないのでまた読み返します。
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帝国主義的な地位を獲得できたアメリカ、英国、フランス、イタリア、日本といった近代国家以外の領土では国民軍と警察の暴力の理念的区別がいつまでも妥当するわけではない。
9・11以降のブッシュ政権の行動はアメリカ領土外の戦闘や外交政策の次元だけでなく領土内の戦闘や外交政策の事件でだけでなく領土内の諜報活動や官僚制の次元でも軍事力と警察力の区別を払しょくする結果をもたらした。
国籍、民族、人種の違う登場人物の間の国際恋愛を描いた商業映画の作品はほとんど例外なく、外交関係や国際政治のアレゴリーになっていると考えた方が良い。
アメリカには国民主義があっても、その国民共同体は民族主義を逃れているといった常識が喧伝されてきた。移民の国であること、人種主義はあっても、アメリカ国民はまず市民であるのだから、アメリカ国家では民族的な同一性は問わないというのが、いわゆる国家プロパガンダが提供する説明である。 -
「比較という戦略」は面白かった。姉妹本の『希望と憲法』、鵜飼哲さんの論文「ある情動の未来-〈恥>の歴史性をめぐって」と一緒にどうぞ。
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『ディア・ハンター』や『二十四の瞳』などの作品を通じて第二次世界大戦後の日米の関係のありよう、それぞれの国のありようを浮き彫りにしていこうというものです。
部分的に言葉を取り出すことが相応しい著書ではありませんが、例えば小豆島の美しい風景が印象に残る『二十四の瞳』に関してはその風景がなぜこの映画で必要であり、当時の日本人が称賛と共に受け入れたかについて次のように書かれています。
▲『日の名残り』や『ディア・ハンター』の読解のなかでも見てきたように、帝国国民としての矜持の喪失は、人々を田園の風景へのノスタルジックな夢想へと誘う。
木下惠介監督作品『二十四の瞳』(1954)は、日本帝国喪失のあと田園の光景に癒しを求める典型的な空想を定着させた映画作品である。「国破れて山河あり」。破れた人々が戦場から帰ってゆくのは、空想においては、爆撃で焼き払われた都市の廃虚ではなく子供時代の日々を過ごした田園の自然なのである。▲
読了 2007/9/7