なぜ私は私であるのか: 神経科学が解き明かした意識の謎

  • 青土社
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感想 : 10
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  • Amazon.co.jp ・本 (357ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784791774661

作品紹介・あらすじ

「意識」と「私」の謎
20年にわたって意識研究のパイオニアであり続ける著者は、主観的な体験である内的世界が、脳や体で実行される生物学的・物理学的プロセスとどのように関連しているのか、また、その観点からどのような説明ができるのかを述べる。そして、私たちは世界を客観的に認識しているのではなく、むしろ予測機械であり、常に自分の世界を脳内で創造し、マイクロ秒単位で間違いを修正して、自分が自分である(being you)という感覚を生み出していると主張する。最新の神経科学的な知見をもとに気鋭が迫る「意識」と「私」の謎。

感想・レビュー・書評

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  • なぜ私は私であるのか - fourvalleyのブログ(2022-05-23)
    https://fourvalley.hatenablog.com/entry/2022/05/23/101013

    「意識=制御された幻覚」というアイデア 『なぜ私は私であるのか──神経科学が解き明かした意識の謎』 - HONZ(2022年6月7日)
    https://honz.jp/articles/-/51640

    なぜ私は私であるのか: 神経科学が解き明かした意識の謎アニル・セス|オフロスキ(2023年3月22日)
    https://note.com/masanori177/n/n86e7090db85a

    青土社 ||心理/脳科学:なぜ私は私であるのか
    http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3679

  • 【はじめに】
    著者は神経科学者であり、情報と合理論を提唱し、『脳は空より広いか』という一般向けの本も出しているこの道の大家でもあるジェラルド・エーデルマンに師事している。また、『予測する心』のヤコブ・コーヴィとも同僚であるという。意識の問題について、近年フリストンの自由エネルギー原理によって盛り上がりを見せているが、著者の主張も自由エネルギー原理に大いに影響を受けたものである。著者のエーデルマンらとの研究が、フリストンの研究に刺激され統合されつつあるということではないだろうか。

    著者はプロローグで本書の意図について次のように書いている。
    「本書は、意識の神経科学について書かれたもので、主観的な経験の内的宇宙が、脳や身体で展開される生物学的、物理学的プロセスとどのように関連し、どのように説明できるかを理解しようと試みるものである。このプロジェクトは、私のキャリアを通じて私を魅了し続けてきたものであり、現在では、答えが垣間見えるところまで来ていると思う」

    意識の問題について、「答えが垣間見える」というところまで来たことはおそらくこれまでなかったと思う。そういう意味でも著者らの高揚感が感じられる領域で、読んでいても目が開かれる思いがするところが多い。

    【概要】
    まずは、本書の構造を確認すると次の四つの部からなっている。内容は難解な部分もあるが、構成や主張はシンプルである。
    第一部 「レベル」 意識のレベルの問題を扱う
    第二部 「内容」 レベルに引き続き意識の内容について扱う
    第三部 「セルフ」いよいよ本題でもある自己に焦点を当てる
    第四部 「他者」 人間以外の動物や機械に意識はあるのかという論点を議論する

    第一部 第一章は リアルプロブレムと題している。生物が意識を持つためには、それ自体、何らかの現象性を持たねばらないとし、その現象性は、機能性や行動的な特性とは区別されないといけないとする。よく言われるリアルプロブレム とは 「意識的経験の現象的特性を説明し、予測し、制御すること」 だという。そして、これを物理的なメカニズムで説明することが著者の目標である。また、物理的に説明できなくてはならないとしている一方で、物理主義の中には機能主義があるが、著者は不可知論者であり、ある種の機能主義には否定的である。

    第二章ではそのために意識レベルの測定についての解説が続く。
    ジュリオ・トノーニやマッスィミーニが、経頭蓋磁気刺激(TMS)という手法を使い、摂動的複雑性指数 (PCI: Perturbational Complexity Index)というものでTMSパルスに対する反応アルゴリズムの複雑性を測定したものが意識レベルの測定の一例として挙げられている。
    ここでの前提は、全ての意識的経験は情報的であるとともに統合的である。この意識はそれ以外のそうでないというあらゆる可能性すべてのものによって定義される。トノーニとエーデルマンは、「神経の複雑性」と呼ぶ尺度を考え出し、著者は「因果密度」という独自の尺度を定義した。

    第三章は「ファイ」と名付けられているが、これは、ジュリオ・トノーニが提唱する情報統合理論 (IIT: Integrated Information Theory: IIT)で意識レベルを示すとされる値Φのことである。これは、全体が部分よりも多くの情報を生成しているかどうかによってその大きさが定められる。意識レベルはIITという仮説のもとで定義されたが、課題はこのΦを直接的に計測する手法がないという点である。しかし、その点に関しては、IITの基本(意識的経験は情報であり、統合的である)は維持しつつ、Φが意識であるというのは、平均分子運動エネルギーが温度であるという主張とは別だと考えるべきだという。

    第二部は、意識の内容について見ていく。脳の予測こそが意識の内容であるというのがここでの大枠の主張となる。
    第四章 「逆向きの知覚」として、脳の仕組みが予測の最小化を基本原理として動いていて、世界の表象は感覚入力を脳が評価したものではなく、逆に脳の予測こそが知覚であるとするものだ。脳は「予測機械」であり、私たちが感じているものは感覚入力に対する脳の「最良の予測」である。

    これまでの常識である感覚入力を起点としたボトムアップの図式ではなく、実際にはトップダウン(脳からの予測情報を感覚器官に送り、その誤差を脳へ逆伝搬する)の方向に情報が流れているという転回がこの領域では行われた。視覚に関わる情報の流れはまさにそうなっていて、脳から眼の方向に流れる情報の方がその逆よりも大きい。視覚以外の内的感覚についてもこのことは当てはまる。知覚は予測誤差を常に最小化するプロセスを通して行われるのだ。この辺りの予測誤差最小化や次の章のベイズ推定についての議論は、ヤコブ・ハーヴィの『予測する脳』にも詳しい。この辺りの議論が、この領域での最前線であり、かつ広く方向性の合意が得られようとしているところだと感じる。こういった本から感じるのは、コペルニクス転回があり、パラダイムが大きく変わろうとしていることだ。

    第五章は、「オッズの魔法使い」というタイトル(OzではなくOdds)だが、脳のベイズ推定的な動きについて説明したものである。ベイズ推定は事前確率と尤度を組み合わせて、各仮説の事後確率を算出する。尤度とは原因から結果への前向きの推論を定式化したもの。事後確率は事前確率に尤度を掛けて、事前確率で割ったものとして定式化される。脳は基本的にベイズ的なのである。
    著者は、脳の予測誤差最小化の要素として、生成モデル、知覚階層、感覚信号の「精度の重みづけ」の三つを挙げる。そして知覚の精度を上げるのは「注意を払う」ことに他ならない。そういった予測や注意も含めて、「私たちは世界をありのままに認識するのではなく、そうすることが私たちにとって有用であるように認識する」のである。

    脳は常に能動的推定をしている。それが生物としてその生存に有用であるからである。著者は次のようにまとめている。
    「動作が先にあるのかもしれない。脳は、知覚の最良の推測に到達して動作を導くと考えるのではなく、基本的に行動を生成するという仕事をしながら、感覚信号を継続的に調整し、生物の目標を最良の形で達成していると考えることもできる。このように考えると、脳は本質的にダイナミックで能動的なシステムであり、絶えず環境を探り、その結果を検証してえることがわかる」

    第六章は「鑑賞者の共有」というタイトルだが、いかにして予測から知覚が生成されるのかを説明している。
    「知覚の特性はトップダウンの生成モデルに依存しているにもかかわらず、私たちはそのモデルをモデルとして経験していないのである。むしろ、生成モデルを使い、生成モデルを通して知覚することで、単なるメカニズムから構造化された世界が生み出されるのである」
    ここに地動説と天動説との類似を見ることは間違った見方ではないと思う。

    第三部 「セルフ」は自己がどのようにして生成されるのかについての議論がまとめられている。本書のメインパートとも言える部分だろう。
    第七章 「せん妄」のタイトルは、せん妄状態になったときにいかに容易に自己が失われるのかということを例を引いて説明している。自己とは、もうひとつの知覚であり、制御された幻覚であると著者はいう。そして、知覚が予測であるという意味で、アイデンティティも含めて、「自己」の性質の多種多様な要素は、あなたが生き続けるために進化によって設計されたベイズ的な最良の予測なのだと指摘する。

    著者は自己という言葉によって、身体的自己、意志作用する自己、物語的自己、社会的自己、など異なるものが指示されていると指摘する。これらが統合された「自己」という性質の経験は「実際の自己」を意味するものではない。統一された自己という経験は、あまりにも簡単に瓦解する。せん妄や認知症、重度の健忘症などを想定するだけでそれが壊れやすいものであると思い出すことができる。また、本書でも紹介されたラバーハンド錯覚やボディスワップ錯覚などの実験を見てもそれがわかる。
    その底には、私である、という経験は知覚そのものであり、不変の実体ではないからだという知見がある。自己は知覚の束であり、身体を維持するために神経的にコード化された予測の束。これこそが私の正体である。

    第九章 「動物機械であること」であるが、デカルトが身体と精神の二元論を主張したとき、動物には精神はないとした。著者は心身二元論を当然ながら否定し、私たちを取り巻く世界や、その中にいる私たち自身に対する意識的な経験は、生きている体とともに体を通して、また体ゆえに起こると主張する。

    人間を含めた生物にとって最大の「目的」は「生き続けること」だ。そして、脳があるのは、その目的をサポ―トするためである。脳は、その生物が生き続けるために必要な生理的な本質的変数を、生存に適した範囲にとどめることで、生物が生き続けるのを助けるために存在する。そのために脳は予測を行うのだ。私たちは徹頭徹尾、意識的な動物機械なのである。認識するためのコンピュータではなく、感じるための機械なのだというのが著者の結論となる。

    第十章 のタイトルである「水の中の魚」とは、魚にとって水の中にいると予測することが予測誤差を最小化するということであり、水の中から出るということは大いなる驚きとなる。本章では自由エネルギー原理が言及される。
    遡ること2007年、ある講演会で専門家に向けてプレゼンされたフリストンの自由エネルギー理論は多くの神経科学者にとって中心的な議論の的となった。著者も、そこから導かれる結論やスコープが、予測誤差ついてのこれまでの考えに近しく、その仮説を数学的にとらえることが可能になるのではと考えた。自由エネルギーは基本的に感覚の予測誤差と同じものであることがわかった。
    さらにそのときに驚いたのは、その提案の持つ生物学の万物の理論とも いうべきスコープスケールの大きさであるという。著者は次のように自由エネルギー原理の射程を評価する。

    「自由エネルギー原理は、その見かけの不可解さに付随して、生命と心の間の深い統一をシンプルデエレガントに指し示して、そうすることで意識に関する動物機械論をいくつかの重要な点で満たしてくれる」

    「生命システム」は、単に存在することによって、その内部状態の拡散に能動的に抵抗しなければならない、という事実から自由エネルギー原理は出発する。生命システムが熱力学第二法則に抵抗するためには、生命システムに予期される状態を占めなければならない。自由エネルギー原理から見た生物とは、自らの存在を証明する感覚的証拠を最大化するために、感覚情報を収集し、モデル化するということである。「我、自分を予測する、故に我あり」

    自由エネルギー原理は、「ものは存在する」という単純な宣言から始まり、神経科学と生物学の全体像を導き出すが、意識は導き出さない。一方で情報統合理論は「意識は存在する」という単純な宣言から出発し、意識のハードプロブレムにアタックする。自由エネルギー原理と情報統合理論は互いに補足する理論となるのだろうか。

    第十一章 「自由度」は、意識の問題において常に問題となる自由意志について扱う。
    自由意志については、ジェラルド・エーデルマンが次のように言った言葉がある種の真実を示す。
    「自由意志 ― あなたがそれについてどう考えようと、私たちは自由意志を持つことに決めたのだ」

    自由意志においては、リベットの実験が有名で、これによって自由意志が否定されたかのように言われている。自分もそう解釈してきたが、本書で言及されたシュルガーの準備電位について、閾値を通過する脳の活動の変動パターンであるとする解釈はそこにある種の緩和を導入することを可能にするのではないか。

    第四部は、人間以外の他者の意識について言及していく。
    第十二章 「人間を超えて」、はそのタイトルの通り、他の哺乳類や特にタコにとって意識があるかを論じる。著者は、生物である限り、「意識」は存在すると考えるべきだという。ここで明確にすべきは、意識と知性は同じものではないということだ。意識は賢いことよりも生きていることに関係がある。意識は知性がなくても存在しうる。知性は意識なしでも存在しうるのだ。

    第十三章 「機械の心」では、機械が意識を持つことができるかを問う。ここでも重要なのは意識と知性を分けて考えることだ。著者は、機械には意識は必要ないと考える。生命の物質性は、あらゆる形の意識の出現にとって重要であることがいつか判明すると著者は主張する。

    【まとめ】
    著者は、ハードウェアでもなく、ソフトウェアでもない「ウェットウェア」としての脳と身体を包括的に理解したいと考えている。脳が予測誤差最小化を行っており、行動も予測誤差最小化のために駆動されること、そして世界の知覚とは実は脳の予測である、というテーゼはおそらくは正しそうだ。少なくともそれが今のこの研究領域の主流の考え方だ。著者も「私である、あるいはあなたである、という経験は、脳が身体内部の状態を予測し、制御する方法から生まれると私は考えている」と明確に主張している。
    一般向けにもそういったことを主張する本がいくつも出てきている。邦訳本も一気に増えてきたのは、それが研究者以外の大衆の一部にも受け入れられつつあるという印だろう。

    著者は、「なぜ私たちは一人称の形で人生を経験するのだろうか?」と問う。そして人間の意識経験について、「私たち一人ひとりにとって、意識的な経験がそこにあるすべてなのだ。意識がなければ、世界も、自己も、内面も、外面もない」と言う。今後、その不可思議であり、かつ自己認識のために不可欠である意識について、より多くのことが分かるだろう。それはこれまでの自己や自由意志というものの定義についても影響を与えざるを得ない形で進んでいくのではないか。それは、誰もが望んでいたようなものではないかもしれない。知の蓄積によって宗教がその万物の第一原理としての座を追われたのと同じように、われわれの意識もまた今の座を追われるようになるのかもしれない。

  • 本書は、「私がある」という感覚は錯覚であるという。
    脳は知覚情報をもとに世界を常に「予測」しており、この予測の一部として私を生み出している。

    錯覚という強い言葉を使ったが、錯覚であるから、私は無いという結論では無いと思う。
    様々な科学の知見から見えてきたリアルな「私(意識)の存在」という事態を、特別な魔法や神様の助けなしに理解することで、自己の可能性と限界を知ることができる本だと感じる。

    本書の考え方では、意識は知性とは別のものであり、人間だけのものではなく、動物などにもある(であろうこと)ことが自然に導かれる。

    また、錯覚は、もしそれが錯覚だとわかっても、錯覚してしまうことを避けられないということを、アルデソンのチェッカーボードで示されていて、意識がもし錯覚であっても、錯覚を錯覚として認知できない(難しい)ということは、面白く(意識の在りようの奥深さ)感じた。

    これについて別書であるが、悟り(諸行無常、諸法無我)を得るためには、手段として身体技法(座禅)の必要性があるということについて思い出した。

    また、錯覚(ラバーハンド錯覚など)をうまく使って、VR体験を向上させる、技術的な可能性を感じ、楽しみになった。また、ボディスワップ面白そう、やってみたい。

  • 意識のハードプロブレムとイージープロブレムの所謂「心脳問題」に対して現象性を視野に入れる事によって両者を架橋しようとするリアルプロブレムのアプローチについて説明。ただし、あくまでも神経科学の立場が軸足になっているのでイージープロブレムからハードプロブレムに迫るという体裁になっている。
    著者は「意識は知的であることよりも生きていることと関係がある」とし「私であることは身体に関わる事」と述べている。生物学的には確かにそうなのかもしれないが、であるなら犬猫やゴキブリにも意識はあり、その点では人間と変わらないという事になる(中世ではブタを裁判にかけていたというエピソードには驚いた)。
    自己は「不変の実体」ではなく「知覚の束」なのか。「私とはなにか」を考える場合、やはり物語的自己や社会的自己といったアイデンティティー的なものが問題になってくるのではないか。リアルプロブレムのアプローチはそれはそれでひとつの説明スタイルではあるとは思うが、このやり方では「この自分はどうして他者とは違うあり方をしているのか」すなわち「自己は特別な存在である」という誰もが抱える根本的な問いには何も答えられていないように思える。

  • 自由意志についての考えはまだまだ意見がわかれるところですね。

  • しゅうへいさんが読んでいた本

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