音をはこぶ -2006.11.09記
竹の管に息をふきつける。内側の空気の柱がはげしくゆれる。
これが音だ。ゆれが安定し、音は消える。瞬間の音は偶然だ。
音が消えぬうちに、できかかるバランスをつきくずす。
それはなれた手ではなく、注意ぶかい耳、そばだてた耳のしごと。これをくりかえし、音をまもる。
意志をもってしなやかに音をはこび、意志をもって音をたちきれ。自然は安定にむかい、耳はそれにさからう。
きくというのは受動的な状態ではない。
外に耳を向けて、すべての音をききとろうとすると、自分の位置に極端に敏感になる。
外へひろがるほど、内へ集中する。それは積極的な反省行為だ。音のイメ-ジは、きく行為をさまたげる。
きくのをやめると、音はそれぞれの位置におさまって、まとまったかたちをつくる。
イメ-ジの認識でくぎられ、つくったイメ-ジをこわすきく行為でさきへすすむ、往復運動。
一定の安定がくずれて、両極のあいだを往復するのが振動だとすれば、ちがう周期の干渉による瞬間的な局部変化は、音をつづける力だ。
くだけた波から、あたらしい波がたちあがる。
おなじもののいくつもの演奏が同時に、すこしずらされてきこえると、おもいがけない細部がうかびあがり、全体は空間的なひろがりをもつ。これらのずれのあいだにきこえるあたらしい音の関係をとりだし、なぞりながら協調することによって、展望がすこしかわる。
もとの音のながれと同時に「注釈」をつけたすことができる-runningcommentary-。注釈を注釈することもできる。