魂にふれる 大震災と、生きている死者

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  • Amazon.co.jp ・本 (225ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784798701233

作品紹介・あらすじ

私たちが悲しむとき、悲愛の扉が開き、亡き人が訪れる。死者は私たちに寄り添い、常に私たちの魂を見つめている。悲しみは死者が近づく合図なのだ。大切な人をなくした若い人へのメッセージを含む、渾身のエセー。

感想・レビュー・書評

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  • 周りで身近な人をなくされた方が立て続けにおられて、手に取った。
    深い深い話が多く、時間をかけて読み進めた。
    感想がまとまらない、まだ自分のなかで考え続けている。また、時間をおいて読みたい本。
    他にもこの著者や、本のなかで出てきた著者の本を読んで深めてみたい。

  • ラジオ番組で筆者の存在を知り、手繰り寄せるように読む。筆者は何物かに用いられている感覚を書いている間中抱いていた、とあるが、私は涙の塊が喉元から去らなかった。確かに死者は死なない。読みにくさもあって先月末から時間がかかって読了。

  • ☆ふむ

  • 亡くなった親や友達のことを思いながら、ゆっくり時間をかけてかみしめるように読みました。その時たぶん近くに彼らがいて、お互いを感じあいながら過ごしていたんだろうなと思います。本書を読んでこのテーマについて興味を覚えたので、もっと知りたいし考えてみたいと思いました。古典から現代の作家まで様々な本が紹介されているので、これらを参考に読んでいきたいです。とくに池田晶子さんにはとても惹かれました。

  • 図書館。

    死者は死者として生きている。死ぬことによって死者として生きはじめる。

  • カテゴリ:図書館企画展示
    2014年度第6回図書館企画展示
    「命 -共に生きる-」
     
    開催期間:2015年3月9日(月) ~2015年4月7日(火)【終了しました】
    開催場所:図書館第1ゲート入口すぐ、雑誌閲覧室前の展示スペース

  • 涙が滝のように流れ出てきたので、
    今読むのは、少し危険と判断した。
    もう少し時間が経ってから、読もうと思う。

  •  喪い、最愛の存在が死者となってはじめて、人は「存在」の途方も無い深みを知る。存在/非存在の二分法――存在論の帝国――において、その死者は「生者だった者」としてしか存在できない。過去形で、今はもう存在しない、時の流れに取り残された遺物として。しかし、わたしたちはその人がいま、ここに、ともにあってほしいと願う。たしかな「実在」として、いつも変わらず傍らに寄り添いそっと微笑んでいてほしい。そしてわたしたちはある時不意に、だが確かに、実体を超えて、沈黙のなかで懐かしい声を聞き、暗闇のなかで瞳の輝きを見、虚空のなかでふれる手のぬくもりを感じる。「喪の作業」とは、死者を閑却に付すこと、あるいは記憶の中の面影にしがみつくことではない。魂の実在、「〈存在する〉のとは別の仕方で」(レヴィナス)の存在を、換言すると「死者の生」を確信し、存在の神秘に啓かれ、単なる哲学談義を超えて「存在論」を生きることである。

    「存在論は知識ではない。哀しみであり神秘である内なる「無限」を魂深く感受したとき、それは誰の意識にも、懐かしく知られているあの生活感情として甦る。たとえば私たちは言ってきたではないか。「あの人は死んだけれども、私のこころのなかで、いつまでも生きている」と。素直に、あるいは、最後に手に入れた結晶のような想いとして。そして、既にない人に向けて、ことばを紡ぎ続けるではないか。」(池田晶子、本書14頁)

     「素直に、あるいは、最後に手に入れた結晶のような想いとして(...)既にない人に向けて、ことばを紡ぎ続ける」。本書『魂にふれる』も、そうした身を切り痛みに引き裂かれた営みを通し生まれた、「最後に手に入れた結晶のような」珠玉の散文集である。著者である若松英輔氏は本書刊行の二年前に愛妻を亡くされた。悲しみに暮れたとは想像に難くない。書き進める手はふるえ、端々に慟哭の残響が谺している。インク瓶の底に溜まった暗い夜の残り香に息も詰まりそうになる。しかし、本書に悲嘆の痕跡はあっても、絶望はない。なぜならば氏が、自らと彼方の「隣人」としての死者との共同性を確信しているからである。数多の文学者・哲学者との対話を通じてその確信を深めてゆく道行――著者自身の「喪の作業」――において、余白にそれぞれの個人的な想いを紡ぎながら、わたしたちもまた、すぐそばでねむる死者の息吹を截然と感じる。若松氏が〈君〉に語りかけ、それを受け取った生者ひとりひとりがそれぞれの最愛の死者に語りかけ、死者のひとりひとりが生者ひとりひとりに語りかけるように。永遠の喪の最中を生きる読者と著者自身、そして遺し去っていった死者に向けて紡がれる散文の、引用される文章のひとつひとつに込められた、「遺された者」の希求、「遺した者」の慕情。その痛切な想いで繋がれた生者と死者の間に、存在/非存在の酷薄な分断線はない。

    ***

     そこにあった人を想いその名を呼ぶ。応答はない。骨を燃やし肉を灰にする炎よりも残酷な沈黙だけが闇に居座る。名伏し難い感情が胸の内で渦巻き、蠢き、「悲しい」と弱々しく呟く以外に自らを慰める術はない。星々が翳る仮借ない夜には憐憫が入り込む隙間さえないけれども、まずは湧き上がる悲愁に身を委ね、燃えさかる不条理の只中でその弱さを肯おう。そうしたありきたりな「悲しみ」という心的現象を、著者は「悲愛」と名付け救い上げる。「悲愛」こそ、わたしたちが「生きる死者」に出会う契機であり、共時性、協同性の証しである。

    「死者を思い、悲しむ。しかし、悲しみは死者が私たちの近くにいる合図でもある。悲しいのは、死者を見失ったからではない。眼で見、この手で抱きしめることのできないことへの悲しみだろう。そのとき、悲嘆にくれるほど愛おしい人に出会っていたことを知るのである。」(59頁)

    「深く悲しむ君は、深く愛することのできる人だ。なぜなら、君は愛されているからだ。君が悲しむのは、君が想う人を愛した証拠だけれど、君もまた、愛されていることの証しでもある、悲しみとは、死者の愛を呼ぶもう一つの名前だ。悲しみはいつか、かならず愛に変じる。君のなかに生まれた愛は、悲しみに支えられているから「悲愛」と呼ぼう。」(15頁)

    「妻を喪い、悲しみは今も癒えない。しかし、悲しいのは逝った方ではないだろうか。死者は、いつも生者の傍らにあって、自分のことで涙する姿を見なくてはならない。死者もまた、悲しみのうちに生者を感じている。悲愛とは、こうした二者の間に生まれる協同の営みである。」(222頁)

    「自己の復活は他人の愛を通じて実現せられる。自己のかくあらんことを生前に希っていた死者の、生者にとってその死後まで不断に新たにせられる愛が、死者に対する生者の愛を媒介にして絶えずはたらき、交互的なる実存協同として、死復活を行ぜしめるのである。」(田辺元、本書180頁)

     悲しみを通し死者を想うわたしは、同時に死者に想われてある。その協同性に開かれた時、恩寵のようにして訪いわたしにふれる、死者の慈しみ。それは肉体があろうがなかろうが関係なく、生前と変わらずにどんな時も優しい。随伴者としてわたしから片時も目を離さず、保育者が嬰児を見守るようにして、不断にわたしに働きかける。「現れずに働くもの」としての死者。たとえ仮構であったとしても、その親密さにわたしたちのこころは確かに安らぎを覚える。
     
    ***

     死者とともにあるために。死者を生かし、活かしめるため、というより現れずに臨在する死者が微かに垣間見える瞬間を新たに描くため、僭越ながらこの名著の余白にひとつの場面を付け足したい。
     『夜と霧』を著したオーストリアの精神医学者フランクルについて論じながら、著者は以下のように述べる。

    「彼(生者)が「死者」たちに出会うのは、その存在を考えることによってよりも、彼が日々生きる、その行為の中においてである。「死者」たちは空をさまよっているのではない。「死者」は営みのなかに自己を顕す。行為のなかに「死者」を見ること、生きることそのものが「死者」との交わりであり、協同であることを、フランクルの著作ははっきりと伝えている。」(40頁)

     この一節を読んだ時、映画『プライベート・ライアン』の最後の場面が思い出された。 激しい市街戦の末に斃れゆくミラー大尉(トム・ハンクス)が最期にライアン(マット・デイモン)に遺す言葉、“Earn this”。呪いのように重く祝福のように厳かなこの約束は、すべての生者と死者の関係性を象徴しているように思われる。弔悼と協同のための責務として、死者はわたしに「“earn”すること」を望む。というよりむしろ、絶対的にわたしが望まれてある。その重責を伴う「選び」、振りかかる非対称な契りから、わたしは逃れることができない。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」(「ヨハネによる福音書」15章)。「選びは特権からではなく、有責性から構成されている」(レヴィナス『困難な自由』)。
     だが、「“earn”する」ために、わたしはなにをすべきなのか? 死者はわたしになにを望むのか? “earn”の責任、焦燥が無限に増大してゆくのに対し、その具体的解決としての行為は一向に示されない。「謎」としてあり続け、わたしはその「謎」自体を生きていかなければならない。レヴィナスならばこの「謎」に「エニグム」という術語を当てるだろうし、村上春樹の『海辺のカフカ』はまさしくこうした「謎を生きること」をめぐるイニシエーションの物語だった。
     池田晶子とともに、若松氏は「思索することは謎を呼吸することだ」と書く(58頁)。「読むとは絶句の息遣いに耳を澄ますことである」とも(61頁)。これはまさしく、死者との協同に臨む生者の作法を言い表しているように思われる。生者は行為する。空気のようにあたり一面に拡がる「謎」を呼吸しながら、沈黙によって伝えられる要請に応えるために。“earn”し、ともに今を生きるために。ことあるごとにわたしは死者を仰ぎ、問う。十分に“earn”できているか。あなたはわたしを赦すか、と。死者は問いかけに対し、その都度再び沈黙で応答するだろう。“earn”の閾は近づけば近づくほど無限に遠ざかる。果たされることのない約束。全うされることのない責任。
     そうした生=行為、責務の遂行の最中、その永久の「繰り延べ」の残像として、死者はほんの一瞬だけ、「営みのなかに自己を顕す」かもしれない。もしそうだとしたら、その瞬間には死者はねぎらいの笑みを浮かべて、贖いの言葉をかけてくれるに違いない。視ることや聞くことは叶わずとも、少なくとも、そう感じることはできる。わたしの「“earn”すること」への志向が、死者をもまた賦活し、(「〈存在する〉のとは別の仕方で」)甦らせる。そうした協同性、あるいは生者の有責性こそ、喪失の後の生の意味を基礎付ける。自らの呵責をわずかでも鎮めるため、そして死者を悲しませないために、やはり問題は、生者が生きることそれ以外にはない。「私たちが、ただ毎日を生きる。その無言の営みが、死者への絆となり、また、無上の供物となる」(42頁)。

    ***

     私見も交え長々と書き連ねてしまったが、本書から授けられる智慧、感銘、インスピレーションは、どれだけ語っても語り尽くせない。もちろん、震災被害者たちのグリーフワークは火急の問題である。しかし、その限定的状況に限らず、本書は喪い失ったすべての人、あるいはすべての見送る人、見送られる人に宛てられている。本書を手引きにして、紹介されている思想家たちの重厚な書物を紐解くのもよいかもしれない。
     「哲学は生の悲哀に根ざさなければならない」と、西田幾多郎は書いていたと記憶する。そうした営みの極致、「悲哀」を突き詰めたもっとも美しい結晶として、「悲愛」に培われたもっとも豊かな果実として、『魂にふれる 大震災と生きている死者』は永く読み継がれていくだろうと思う。

  • 「私たちが悲しむとき、悲愛の扉が開き、亡き人が訪れる」・・この言葉を忘れることはないだろう。
    悲しみは、死者が近づく合図なのだ。とすると死者は決して無ではない。池田晶子、井筒俊彦、鈴木大拙、小林秀雄、柳田國男、西田幾多郎、神谷美恵子・・これらの哲学者の言動を引きながら丁寧に自論を解説する。それは痛いまでの真摯さで。
    私はこの書籍をずいぶん長い時間かけて読んだ。というより立ち止まってしまい読み進められなかったのだ。救われた。

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著者プロフィール

1968年新潟県生まれ。批評家、随筆家。 慶應義塾大学文学部仏文科卒業。2007年「越知保夫とその時代 求道の文学」にて第14回三田文学新人賞評論部門当選、2016年『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)にて第2回西脇順三郎学術賞受賞、2018年『詩集 見えない涙』(亜紀書房)にて第33回詩歌文学館賞詩部門受賞、『小林秀雄 美しい花』(文藝春秋)にて第16回角川財団学芸賞、2019年に第16回蓮如賞受賞。
近著に、『ひとりだと感じたときあなたは探していた言葉に出会う』(亜紀書房)、『霧の彼方 須賀敦子』(集英社)、『光であることば』(小学館)、『藍色の福音』(講談社)、『読み終わらない本』(KADOKAWA)など。

「2023年 『詩集 ことばのきせき』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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