- Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
- / ISBN・EAN: 9784826902502
作品紹介・あらすじ
生命とは何か?
誰もが納得できる生命の定義は、いまだに存在していない。
生物と無生物を分かつものは、いったい何なのか?
現代屈指のサイエンスライターが、波乱に満ちた生命研究の歴史をひもときながら、最先端の研究が進行中の数々の現場を探訪し、「生命とは何か?」という人類最大の難問に迫る。
全米で高い評価を受けた、科学ノンフィクションの傑作。
【各紙誌で年間ベストブックに選出!】
NYタイムズ・ブックレビュー「今年の100冊」(2021年)に選出
PEN/E・O・ウィルソン賞(2022年)ファイナリスト
ライブラリー・ジャーナル、サイエンス・ニュース、スミソニアン・マガジンの2021年ベストブック
【有名科学者による賞賛多数!】
現代のフランケンシュタイン博士たちが研究に勤しんでいる今、実にタイムリーな探究の書。
――ジェニファー・ダウドナ(ノーベル化学賞受賞者・『クリスパー』著者)
ジンマーは鋭く魅力的な書き手だ。ふさわしいところで感慨深い逸話を紹介し、科学的な話を描き、
研究室での実験に命を吹き込む。
――シッダールタ・ムカジー(『がん 4000年の歴史』著者)
軽やかで奥深い本書を読めば、生命についてまったく新しい見方ができるようになるだろう。
――エド・ヨン(『世界は細菌にあふれ、人は細菌によって生かされる』著者)
感想・レビュー・書評
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生と死の境界線。実験室で育てられるオルガノイド。古代地球での生命の発祥。宇宙での生命探索。ウイルスや赤血球といった「半生命」について、などなど。タイトルに偽りなく、「生きている」という現象に惹きつけられた研究者たちの冒険の数々。科学系の翻訳本にありがちな総花的なところがあって、読むのはだいぶ骨が折れたけど、おもしろかった。今では否定された(が発表された当時にはもてはやされた)生命に関する仮説や研究についても触れている本は珍しい。
「生きているとはどういうことか」を3行で知りたい、という人にはおすすめできない。 -
タイトルになっている昔からの大きな問いを巡る歴史を、気鋭のサイエンスライターが辿っていく科学ノンフィクションである。
科学者に焦点を当てた、エピソード中心の科学史として楽しめる。
生命科学が長足の進歩を遂げたいまでさえ、生物と無生物の境界はなお不明瞭なのだという。その境界を探る最前線の動向も、取材によってリポートされる。
生命と呼べるか否かについて論争がある「半生命」(ウィルス、ミトコンドリア、赤血球など)を巡る解説も面白い。 -
生命とは、という観点で科学的な面や哲学まで視野を広げ現時点でのわかるところまでが書かれている。結論が確定したわけではないが興味深い歴史である。
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原題:Life's Edge: The Search for What It Means to Be Alive (Dutton, 2021)
著者:Carl Zimmer
発行:白揚社
四六判 416ページ
定価 3,100円+税
ISBN:978-4-8269-0250-2
生命とは何か? 誰もが納得できる生命の定義は、いまだに存在していない。生物と無生物を分かつものは、いったい何なのか? 現代屈指のサイエンスライターが、波乱に満ちた生命研究の歴史をひもときながら、最先端の研究が進行中の数々の現場を探訪し、「生命とは何か?」という人類最大の難問に迫る。全米で高い評価を受けた、科学ノンフィクションの傑作。
【目次】
はじめに 境界領域
第1部 胎動
魂がどのようにして骨に入るのか
死に抗う
第2部 特徴
ディナー
意思決定する物体
生命の状態を一定に維持する
コピー・アンド・ペースト
ダーウィンの肺
第3部 数々の難問
驚くべき増殖
刺激
宗派
この泥はなんと生きていたのだ
水のふるまい
スクリプト
第4部 ふたたび境界領域へ
半生命
設計図に必要なデータ
見てわかる茂みもない
四つの青いしずく -
【本学OPACへのリンク☟】
https://opac123.tsuda.ac.jp/opac/volume/713391 -
【配架場所、貸出状況はこちらから確認できます】
https://libipu.iwate-pu.ac.jp/opac/volume/565944 -
生きているとは?、という問いかけがタイトルだが、答えが書かれているわけではない。
生命とはなにか?に対する答えがどれほど揺らいできたのか、真実を求める科学者達の葛藤。そんな歴史がエッセイのように時に文学的に綴られている。一流の科学ライターの素晴らしさを堪能できた。
生命をトコトンまで切り刻んでも最後の一線が分からない。しかし、もともと線なんて無いのかも知れない。そう思えば生命の不思議さが改めて実感できる。 -
ふつうこのタイトルで本を書くとなると、日本人のライターならおそらく、生命の崇高さや美しさを結論に持ってくるだろうが、本書は違う。
著者は『ナショ・ジオ』にも寄稿する一流のサイエンスライター。
出版されるや絶賛され、『NYタイムズ』誌など年間ベストブックにも選出された。
もともと大学で文学を専攻していたのも首肯けるほど、文章がうまい。
例えば、冒頭の自身の発汗の過程を脳のニューロンレベルで詳述した箇所を読むと、タダ者でないことがわかる。
電圧のスパイクが軸索を突っ走り、次々に新たにシグナルに変換され、脳を逆順し、無数の腺から水が絞り出される。
「そしてひとりの汗まみれの人間は、この浜辺に存在するさまざまな脳への思いを自身の脳に詰め込み、ニューロンに似たケルプの体についての記憶を自身のニューロンに収めて運び去る」。
痺れる書き出しだ。
生命観が歴史的にどのような変遷を遂げてきたかを綴る長大な物語の始まりは、ジョン・バトラー・バークという忘れ去られた物理学者から始まる。
一時は時代の寵児となって、生命の秘密を明らかにしたと讃えられたが、その後みじめな転落が待っていた科学者の話。
著者がなんでこのイカれた学者から始めたかは、最後の最後で判明する。
なんとも心憎い演出。
ところで私たちは普段生活していて、"生きているとはどういうことか"なんて考えない。
ましてや生命の定義なんかで思い悩まない。
なぜなら、馬鹿で関心がないからではなく、わかるからだ。
それもありありと瞬間的に。
経験的にわかるんではなくて、生まれたばかりの赤ちゃんでさえ、いや数多の動物たちでさえ、この(判別)能力を備えている。
生物を見分け瞬時に知覚する直感力は生得的なもので、丘を転がり落ちてくるのが岩か狼かなど、朝飯前なのだ。
だけど世の中には、生と死の間のあいまいな境界に属するものが結構ある。
脳死判定議論でも問題とされた人工呼吸器による延命措置や、干涸びて死んだように見えても生き返るクマムシや線虫、マムシのような蘇生可能な生物もそうだし、皮膚のサンプルからリプログラミングで初期化して育てたニューロンもそうだ。
もとは毎日剥がれ落ちている皮膚の細胞。
しかし、秘伝のレシピによっていくつかの化学物質を調合し加えると、あら不思議、ミニ脳の誕生だ。
これは一体なんだ?
脳に近づいてはいるけど、細胞のかたまりに過ぎない。
こうした時が、生と死の判別など容易にわかるはずだという直観がゆらぐ瞬間だ。
中絶をめぐる論争では、「生はいつ始まるのか」が焦点となっている。
「生は受胎した時点から始まる」というのが中絶反対派の言い分だ。
だが、受精卵は確かに生きていても、それは細胞が生きているという意味であって、人間が生きているという意味ではないはずだ、と賛成派は反論する。
人間性に関わる権利を有した比類なき個人の誕生は、精子と卵子が融合する瞬間ではない。
さらにヒトの発生の過程を丹念に追っていくと、精子が卵子と融合する瞬間を、新しい個人の始まりと特定することはできないことがわかってくる。
そもそも生きた受精卵も、同じく生きた2個(精子と卵子)の細胞が融合してできたものであり、それらもまたいきなり生を得たのでないことを考えれば、「生はいつ始まるのか?」という疑問に単純な答えなどないことがわかる。
命の流れは、前の世代から、途切れなく受け継がれていることを考えると、「生に始まりはない」とも言えるのだ。
細胞すべてがひとりの人間としての権利をもつと考えるならば、われわれの家の埃も、毎日何百万もの剥がれ落ちた皮膚細胞で構成されているため、細胞のリプログラミング技術によりヒトになる素質が獲得できる現状、そのひとつひとつが失われた命と主張することになる。
我々はあらゆる環境に適応し、知能を発達させるには脳が必要だと考えているが、粘菌の生存戦略を見ているとそうではなかったと悟る。
脳を持たない粘菌の記憶方法を見ると感心する。
複雑な迷路に置かれた粘菌は、探索の触手を伸ばした先々に粘液を残すことで、つまり経験の記録を外界に残すことで、出口への最短ルートを見つけ出す。
単細胞なのに体全体で周囲の状況をたちまちに把握する。
本当の知能とは、習得能力ではなく、環境の変化への対応力だということを思い知る。
生物への物理的解釈は衝撃だった。
量子物理学者のニールス・ボーアに言わせれば、光を調べる時、粒子として、あるいは波として個別に調べることは可能だが、両方を同時に調べることはできない。
つまり、あらゆる物理的現実を同時に見ることはできないのだ。
生物も同じように、生物として見るか、分子の集まりとして見るかのどちらかしかできない。
細胞の中の分子や元素をいくら分析しても、そこから生きた細菌を知ることはできない。
部分と集合の二面性と言い換えれば、我々の体内の個別の細胞が生きていても、部分が組み合わさって、全体としての新たなレベルの複雑さを失えば、それは死なのである。
「宇宙は、その秩序が崩壊するようにできているようだが、生命は途方もない秩序を維持している。ワイングラスが床に落ちて100個のかけらに砕けても驚きはしない。だが、100個のかけらが集まってワイングラスになったら驚きだ。鍋に湯を沸かし、色とりどりの食用色素を入れると、虹のようにきれいな縞になるとは思えない。泥のような色になるだろう。生命は、この必然に逆らう。卵が孵ってハクチョウになり、種子は芽吹いてヒャクニチソウになる。一個の細胞さえ、分子の驚くべき秩序を維持できるのだ」
シュレディンガーも語る通り、生命だけがその他の流れとは逆行している。
あらゆるものが時とともにエントロピーが増大する、無秩序で乱雑な方向にあるのに、生命はそれに逆らって、エネルギーを取り込んで秩序を保とうとすることで、子孫にDNAを受け渡していく。
しかも完璧なコピーを受け渡すのではなく、ミスを含んだものを。
なぜならミスを犯すからこそ、進化が起きて生命が新たに環境に適応できる。
ミスをするからこそ、世代を超えて伝えられていく。
誰もが賛同できる明確な生命の定義はなく、定義しようとする人の数だけ、生命の定義がある状態。
生命の謎を追い求めていくと、筋肉や組織の解剖学から始まり、細胞や化合物の化学に行き着き、とうとう原子や電子という量子力学に、まるで命のないものに行き着いてしまった。
その間、機械論者と生気論者の対立や、生化学の誕生などいろいろあったが、光は粒子でもあり、波でもあり、電子はここにもそこにも同時に存在しうるという量子物理学の衝撃は大きかった。
予測可能な厳然とした世界観から、不確定で予測不能な世界観に突入したからだ。
しかしそんな量子物理より生命のほうがもっと奇妙だったのだ。
やがて遺伝子の概念が生まれて収束をみるかと思われた、生命の定義をめぐる議論もいまだ混沌としたままだ。
その過程では、これが生命の定義だと自信をもって主張がなされるが、どれも一部の側面に焦点を当て過ぎていて、特徴を正確に言い当てることは思いのほか難しいことに気づかされる。
セント=ジェルジに言わせれば、「生命」という名詞に意味はなく、そんなものはないのだ。
「生命は、何か特別な性質によって特徴づけられるものではない。むしろ、そうした性質の、特定の組み合わせによって特徴づけられる」とオバーリンは結論づけている。
しかし、生命が何であるかについての合意がないというのは、科学にとって耐え難いことだ。
なぜなら、生命について議論するのに、その一番重要な対象に定義がないまま進められるだろうか?
誰かが人工生命を作ったって、そんなものは生命じゃないと言えちゃうわけだから。
案の定、火星からやってきて南極大陸に落ちた隕石「アラン・ヒルズ84001」によって議論は沸騰する。
NASAの科学者たちが、この隕石にかつての生物の化石が含まれていると主張したことによって、宇宙のどこかほかの場所にいる生命の可能性が論じられるようになったためだ。
そしてついに、新進気鋭の女性哲学者が颯爽と登場して、「生命を定義するのは間違いだ」とちゃぶ台をひっくり返すのだ。
なんともはや、面白すぎます。 -
生物とは、という疑問にずっと答えるような実験や観察を書いた本である。筆者が科学ジャーナリズムということで、ひとつの研究を深く書いていくことはなく、多様な研究を引用して面白く書いている。
したがって、生物学に全く興味がない学生も、あるいは高校生も面白く読むことができるであろう。