対訳でたのしむ船弁慶

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  • 檜書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (30ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784827910292

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  • 素人が学ぶ能、今月は「船弁慶」。

    義経、弁慶、静御前が登場する人気の演目です。以前、『安宅』でも触れましたが、一体に源義経という人は、謎の多い人で、史実というより伝説で大きく膨らませたところのある人です。戦の名手でありながら、兄に疎んじられ非業の死を遂げるという悲劇性がそうさせるのでしょうか。
    平家を滅亡させて数か月後には、もう兄から絶縁され、西国に落ち延びます。その後、どうにかして奥州平泉へと落ち、そこで追っ手に迫られ自害します。壇ノ浦からわずか3年ほど後のことです。
    このとき、義経がどういった経路を通ったかについてもはっきりしたことはわかっておらず、「玉葉」(九条兼実の日記)などの文献にも、あのあたりにいたらしい、こちらを通ったようだ、山伏に身をやつしていたらしい、と断片的な記述しかありません。こうした文献は、都に入ってくる風の便りを書き留めたに過ぎないためです。
    そこをおもしろく物語に仕立てたのが「義経記」などの読み物で、弁慶が大活躍するのも後世に作られたフィクションです。

    さて、本作は、世阿弥の孫世代の観世信光の作です。信光は応仁の乱の頃に活躍した人で、世情のためもあるのか、派手でわかりやすい作品を多く残しているそうです。
    本作では、義経が頼朝に疎まれて西国に落ちる場面を取り上げます。静御前は、史実的には吉野まで義経に随行し、そこで捕らえられていますが、本作では、大物浦(現在の尼ケ崎付近)で義経と別れます。「厳しい旅路に、これ以上静御前を連れていくのは難しい」との弁慶の助言で、この地で別れることにしたのです。このあたりは、史実というよりも、静という人物の心情を象徴的に描くための舞台設定ということでしょう。嘆き悲しむ静はそれでも、心を込めてはなむけの舞を舞います。前半はこの静御前との別れが主題で、主役は静です。
    静と別れて船路につく義経一行ですが、海の上で滅ぼしたはずの知盛の怨霊に出会います。後半はこの亡霊との戦いが描かれます。主役は知盛の亡霊です。
    つまり、前半は愛する義経と別れる静の悲嘆、後半は知盛の怨念、と、まったく異なる場面を描く、緩急のあるダイナミックな展開の物語です。前半と後半の間には、間狂言として、荒れ狂う海上で波風と格闘する船頭を、狂言役者がおもしろく演じることになっています。
    表題は「船弁慶」ですが、弁慶は主役ではなく、しかし、物語の要となる重要な役割を担うという、ちょっと変わったおもしろい構成になっています。
    もう1つ能で特徴的なのは、義経役を子方(子役)が演じることになっている点です。静御前に相対する役なので本来はおかしいのですが、どこか生々しさが薄れ、また牛若丸伝説も重ねられるような、独特の世界となっています。

    都を落ちていく際に、
    世の中の、人は何とも石清水、澄み濁るをば、神ぞ知るらん
    などといったところは、掛詞も使いながら、神仏の加護を祈る悲痛さがあります。
    静の
    げにや別れより、勝りて惜しき命かな、君に二度(ふたたび)、逢はんとぞ思ふ行末
    (別れの辛さより命が惜しい、我が君にもう一度逢いたいのだもの)とのセリフも切々と胸に迫ります。

    物語としておもしろい作品ではあるのですが、静御前の嘆きも知盛の怨念も、いずれもいくさのために生まれたもので、結局は争いごとの残酷さ、虚しさを描いていると見ることもできるのかもしれません。
    信光と同世代の観客たちは、この演目をどのような思いで鑑賞していたのでしょう。

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著者プロフィール

横浜国立大学名誉教授・奈良大学教授。専門は中世日本文学(特に能楽)、古典教育。
主な著書に『世阿弥は天才である―能と出会うための一種の手引き書』(草思社、1995年)、『歌舞能の確立と展開』(ぺりかん社、2001年)、『歌舞能の系譜―世阿弥から禅竹へ』(ぺりかん社、2019年)などがある。

「2021年 『もう一度読みたい日本の古典文学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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