新訳『ロリータ』の訳者が、『ロリータ』について書き下ろした書物と聞いて、アッペルの書いた注釈本のような本を期待すると裏切られる。たしかに、『ロリータ』について書かれた論考を集めたものだが、「これが、ロリータだ」といった、いわば『ロリータ』解読の定本を目指した体のものではないからだ。これまで折にふれて書かれた『ロリータ』についての文章をもとに自分の考えをまとめたもので、整理はされているものの体系だったものではない。
著者はまず、ナボコフがチェス・プロブレム作者であったことにふれ、チェスとチェス・プロブレムのちがいを説きながら、一般の文学作品とナボコフのそれの差異について次のように述べる。一般の文学作品はチェスに似ていて、「指される一手の意味や価値が、見る者の主観によって変化する」。ところが、プロブレムというパズルの場合、主観性の介入は起こらず、誰が解いても同じ答えが出てくる。ナボコフの小説は文学の中でいちばんプロブレムに近いものだという。
「ナボコフ=パズル小説作者」論とも言うべき、著者のこのナボコフ理解を受け容れられる読者だけが、この本の読者たり得る資格を持っている。評者は、文学の読み方の一つとして、そのような理解の仕方があることを認めるのに吝かではないが、自身プロブレム作者でもある著者のようには、とても読むことはできない。しかし、ことナボコフに限って言えば彼の小説を読む面白さのかなりの部分がそこにあることは理解できる。
著者は、「プロブレムを解くように論理の筋道をたどることでしか小説を読めないし、曖昧な美ではなく、論理が鮮やかに結晶したような作品を最も美しいと感じる」ので、作者の構想がつかめたときがいちばんうれしいという。その著者にして、『ロリータ』における駒の配置の意味はつかめたものの、その配置が意味する作者の構想はまだ読み切れていないと言う。この本は著者の読み筋を示す中間報告のようなものであるらしい。
さて、その読み筋だが、新潮文庫版でわずか5ページ分にあたる文章を精読することで、ナボコフを読む実例を示している。二つの映画版を参考にしながら、脚本と原作では何がつけ加えられ、何が省略されているかを追うことで、作者ナボコフの意図したことを探ってみせる。なぜ、小説では壁に掛けられた絵がゴッホ作「アルルの女」とあるのに自身が書いた脚本では、その絵の記述がないのかという、言語レベルと映像レベルの想像力の喚起するものの差異を論じたあたりは知的なミステリでも読むようで、論理と想像力の結びつきが愉しい。
最も考えさせられたのは、ハンバートの改心が本物かどうかという問いである。たしかに、谷間から少女たちの声が聞こえてくる場面でのハンバートの心情には、ニンフェットではない現実のロリータへの愛がうかがわれ、評者のようなナイーブな読者は感動を禁じ得ないところだが、著者はそれに疑義を呈する。果たして、ハンバートは本当に改心しているのだろうか、と。その一つの根拠として、話法の問題を採り上げる。直接話法の記述を間接話法に変換することから生じる滑稽味を例にとり、ハンバートの回想録の信憑性を括弧の中に入れるのだ。
真に反省している人間が、自分の過去を語る文体を喜劇的なタッチで飾ろうとするだろうか、という疑問はたしかにあり得る。作中のハンバートには登場人物としてのハンバートと回想記の作者としての二つの位相があり、先に採り上げた場面を含め、その場面のレベルでは感動しても、読みすすむ中で文章を記述しているハンバートという話者のレベルに立つと、回想録に一切の作為がないとは言えなくなるからだ。
『ロリータ』はジョン・レイ・ジュニア博士の序文にはじまり、第一部、第二部とハンバートの回想が綴られる。多くの読者は最後まで読んで、もう一度序文に戻るだろうが、二度目に読むときは、同じ場所ではなく一段高い位置に立っている。著者はその構造を円環的でなく螺旋的と表現する。すなわち、読めば読むほどより高い読みが発見できる。『ロリータ』という小説の持つ魅力はそこにあるのではないか。緻密な読みであるが、これですべて語り尽くされた訳ではない。なにせ、たった5ページ足らずである。読者には著者に倣って自分の読み筋を見つけていく楽しみが残されている。『ロリータ』読みなら、外せない一冊である。