- Amazon.co.jp ・マンガ (188ページ)
- / ISBN・EAN: 9784872578126
感想・レビュー・書評
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エタ・非人。日本の表立って出てこない差別。当時の言葉をそのまま使っていること自体、嫌悪する人がいるかもと最後のページにコメントがついているが、日本だってこんな風に差別していて、それはきっと今でも消えていないはず。
とにかく、読むとつらい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
Kindle
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言わずと知れた「部落問題」に踏み込んだ作品。
人身売買や戦争、そして差別問題は、明るい話ではないので、怖くて避けてきた。
でも、森達也さんはある著作のなかで、私に言いいました。
批判するのも、嫌うのも自由だが、まずはそれを知って(見たり、読んだり、聞いたり、体験して)から言って欲しい。
日本には、ただ生まれてきた場所を理由にした、究極の短絡的なアホ歴史が存在していた。
それがどんなものだったか、日本人である私は目をそらしてはいけないと思うのよね。
森さんはきっと、「歴史から学ぶことをやめたとき、人は同じ過ちを繰り返す」と言いたいのだと思う。
人は弱いから、誰かを差別することで、優越感に浸りたい生き物なんだと思う。
(あなたは違っても、そういう人間はたくさんいる)
だから、歴史かや学んで、人間としてバランスを取るように、永遠に努力しないといけないということを理解した。
そして、忘れてはいけないもう一つの視点は、
差別された人も、子を愛し、誰かを慕い、悲しいものを見れば涙を流すのであり、自分と同じだということ。
(これも森さんの主張と重なる)
だから、差別された人は差別を当然だなんて受け入れるはずがない。
傷ついていないはずがないのだ。
一見、「何を言われても平気そう」な人間もいるし、それなりの耐性のある人間もいる。
だけど、それを喜んで受け入れる人なんて誰もいないよ。
でも、怖いのは、本文中にあるように、住む場所を奪われ、
仕事を奪われ
まともな教育も受けられない人々からは、戦おうという思想すら生まれないということ。
だから、悲惨なできごとは終わらない。
だから、学んだ人間から、行動をおこさないといけないよね。
もっともっと、勉強しようと思う。
誰かが、「学ばない人間は、猿と同じ」と言っていたけど、そうなのかもしれない。
猿は、虐げられてる人に対して、戦おうと呼びかけることはないもんね。
食って、ヤって、寝るだけじゃあ、もったいない。 -
穢多の教師が穢多であることを隠しながら生活している、葛藤。
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明治末期、日本の自然主義文学の始まり。人間の内面を追求する文学の始まり。そして、私小説の始まり。
100年前から特に時代は進んでないですね。多少豊かになって、他人のこと一々に気にしなくなったぐらい。
貧しくなったらまた差別は戻るんだろうね。 -
差別
今はもうこのようなことがないことを望む。。。
島崎藤村の文章は読んでみたい。 -
小諸、長野、飯山などを舞台とした作品です。
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タイトルは知っていたけれどまだ読んだことがなかったので、まんがで簡単に読破しようと手に取った。重い。テーマが重い。文庫本だったら完読できたかどうかわからない。でも、いつかは原作に向き合って、じっくりいろんなことを考えなくてはならない気がする。
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封建的身分差別が残る明治時代。青年教師・瀬川丑松は父の戒めを守り、素性を隠し暮らしていたが、同じく被差別部落出身の解放運動家・猪子蓮太郎の生き方に感化されてゆく。ある日、丑松の素性を疑う人物が現れ、生活は一変する…。「差別」という人間に根ざす社会悪を描き、漱石からも激賞を受けた自然主義文学の傑作を漫画化。
(「BOOK」データベースより)
原作は読んだことがない。
まんがでどれだけ原作の雰囲気が伝えられているのかわからないが、「穢多」の苦悩がにじみ出ているような気がした。
生まれ落ちた瞬間から人に差別される運命を背負うというのは、どんなふうなのだろうか。自分が何か悪いことをしたわけでもなく、ただこの世に生をうけただけで、人から石を投げられる運命とは・・・。
私が生まれ、小学生まで暮らしていた大阪では、道徳の時間に「部落問題」についてよく話を聞かされた。つまりは差別に対する考えを小学生の頃から教えこまなければならないほど、深刻な問題だったということだ。大人達の「部落民」に対する差別意識は根強い。だからこそ、幼い頃からそれに対する問題意識を植え付けなければならなかったということだろう。
主人公・丑松の父が我が子に自分の生まれた土地を隠せ、素性を隠せという戒めを与える。父の苦しみもいかばかりだったろう。何故、普通に我が子の旅立ちを心から喜ぶことが許されないのだろうか。自分の息子が立派に教師として働く。それを誰にも話すことができない。ただ遠くから無事を祈ることしかできない。恐らくいつ息子の出生の秘密がばれてしまうかと不安に怯えて暮らしていたのではないか・・・。そのあげくに、自らの葬儀の場にさえ、息子は人目を忍んでやってこなければならないなんて。
「穢多」とは、「穢れ(けがれ)」が「多い」と書く。
そういう仕事を請け負っていた人々の子孫だということだろう。誰かがやらなければならない仕事なのに、その仕事に就く人を差別する。何という矛盾。何という傲慢さ。
何と言うことなく灰谷健次郎氏の「兎の眼」を思い出した。ゴミ焼却場の処理作業員たちも同じように差別を受けるんだ。自分たちはゴミを出さずに生きられないくせに。
人間って、なんなんだろうね。
悲しくなるけれど、情けなくなるけれど、それでも「破戒」の最後に光りは見える。救いは全くないわけではないんだ。差別意識を持っている人間だけじゃない。それに立ち向かおうとする人間も存在する。
今ある数々の差別も、いつかは無くなっていくだろうか・・・。