- Amazon.co.jp ・本 (221ページ)
- / ISBN・EAN: 9784877143930
作品紹介・あらすじ
せめぎあう記憶、ひびきあう言葉。米軍に占領された小さな島で事件は起こった。少年は独り復讐に立ち上がる-60年の時を超えて交錯する記憶の物語。連作小説。
感想・レビュー・書評
-
女はしょせん共同体の資産扱いなのか、という虚無感が残った。そういう価値観が支配する世界が舞台だから女はそのようなものとして描かれるしかないのか。作者も含め、最終的に殴り合いになったら勝つ側にいる者同士が、縄張りを荒らされた!と情緒たっぷりに獲物の取り合いをしているように感じてしまった。
正視に堪えない暴力が延々続く『虹の鳥』に続けて読んだので、もう自分の許容範囲を超えていたかもしれないのだけれども。強姦されて気の狂った女が共同体からも貶められて、でも自分のために体を張った男を忘れないってテンプレ過ぎるしナイーブにもほどがあるんじゃないですかね。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
沖縄戦下、米軍によって占領された小島で起きた米兵による少女暴行事件と、それに対して独り復讐に立つ少年の記憶を軸に、二人に関わりをもった人々のいくつもの記憶がアラベスクのように織り合わせられていく長編小説。人々の内面を、そこにある葛藤を含めて抉り出していく作者の筆致は、きわめて細やかであり、それだけに非常に鋭い。そして、このことが戦争の傷が、さらには暴力の傷が、長い年月が経ってもけっして癒えないことを浮き彫りにしている。「眼の奥の森」という表題が象徴する記憶の深みから、沖縄の戦争が未だに終わっていないことを浮き彫りにする作品と言えよう。
-
生協の「沖縄戦跡・基地めぐり」という企画に参加してから、沖縄が心にのしかかり、真取目俊作品を続けざまに読みました。読んでいて涙が止まりませんでした。それは65年経ったいまでもなお払拭することはできない沖縄の痛みと悲しみ、心に突き刺さりました。小夜子と盛治の悲しい人生を通して、沖縄戦の身も心も切り裂くような戦争の痛ましさが身もだえするほどに伝わってきました。だからといって、この物語のなかに出てくる中学生のように「もう二度と戦争はおこしたくありません」などという常套的な優等生的なことばを吐くことだけで終わりにしたくはありません。
「普天間問題などは国民の生活にあまり関係ない」というような発言を栃木県出身の民主党の議員が発言したようですが、それでは、「沖縄県民は日本国民ではない」ということなんでしょうか。65年前の沖縄戦と同様に、ずっと沖縄の人々を「日本の安全」とか「抑止力」などといって「やまと」の盾にしていることに大して申し訳なさを感じます。
戦争がいかなるものであるのかをほんとうに語ってくれる物語だと思います。くだらない発言ばかり繰り返している政治家の方々にも呼んでほしいと思います。
202ページの「聞こえるよ(ちかりんど)、セイジ。・・・号泣しました。 -
重い…読むのに体力が要った。人間としての、心の持ち様について深く考えさせられた。「悪事をしたのは、アメリカーだけではなかった…」という文があったけれど、これが、筆者が一番言いたいことではないか、と思った。
-
切羽つまった状況で、八方塞で、残りの光は少ない。
沖縄の人々、アメリカの人々、本を読んでいる人々、昔の人々、あなた。
どうしようもない。定めというものの上を歩いてゆく。
強姦を眼の前で何もできずに見る。
銃の前をして殴られ蹴られ嘲られるのを我慢する。
立ちすくむ。怒る。妬む。嘲る。涙する。痛む。逃げる。塞ぐ。狂う。忘れる。
復讐する。怒りがあふれ逆の立場になる。
人々は簡単に残酷になってしまう。
生きる者は、受けた残酷さ、与えた残酷さをどうにか処理して歩むしかない。心の中で残酷さはくすぶり、残る。
せいじは行動をしたときだけ生きていたと思うのも残酷だろうか。
光とは彼の行動であるのか?いや光も暗闇となった。
雑多な感情入り混じったような思いを与えてくれる書物。
読むことにぼくは勇気が必要だった。 -
さまざまな文学的手法を駆使することで,個人の単なる一事件を「沖縄」「暴力」により増幅した作品。小夜子と盛治がどのように分断されているかに注目するのが良さそう。
-
菅野完氏のツイートで知り、興味が湧き読んでみました。小説の手法には斬新なものを感じましたが、筋立て、ストーリーはどうしてもリアリズムとして読まざるを得ず、そこに面白さを感じられなかった。
-
友人の勧めにより読んだ。
これは良い。
章立てはないが実質この小説は10の短編で構成されている。
それらは全て<戦争>という一つの現実を軸に繋がり描かれている。
その短編はそれぞれ一人称が異なる。
そして時間軸も異なる。
被害者の視点、加害者の視点、過去の視点、現代の視点。
この小説について語るのに沖縄語は外せない。
これが強烈でありリアリティを増す。
盛治と小夜子の間で交わされる言葉。
二人にしか通じない言葉。
二人と、標準語を話す人々、また立場上衝突した人々との理解し合えない記憶と感情。
これはまた今を生きる沖縄の血を引く者とその他の人との関係ともシンクロする。
小説内にも出てくるが沖縄出身の作家にしか書けない小説がある。
それは誰にも理解されるものではない。
表出しなくても彼らには本源的に抱えている悲しみ、怒り、憎しみ、愛、意地、誇りがある。
それらを盛治を始めとした島民に込める。
しかし、島民にも闇はある。
占領するもの、占領されるものという二項対立では語れない善悪、光と闇が存在する。
その心の内を生々しく表現されている。
読み終えたばかりでうまく言語化出来ないが久しぶりに良い小説を読んだ。
タイトルも秀逸。
久しぶりに味わったこのインパクトと余韻の感触が堪らない。
他の作品も読もうと思います。 -
明確な章立てはないが、内容に鑑みて10節からなるこの長編は、短文の連なりで読者に息つく暇も与えない。「ポリフォニー」「意識の流れ」「象徴表現」「隠喩」「アナロジー」など近・現代文学の叙述手法を駆使して、事実よりも事実らしく編み上げられた一編である。それぞれの節が異なる視点から組み立てられ、アメリカ兵の強姦事件に関わったそれぞれの人物の言動が様々な人称を用いて語られていく。特にこの作品クライマックスの主人公の心の叫びは圧巻である。盲人となった主人公の眼の奥にある闇に「言葉の森」が茂っていくように沖縄語、標準日本語、通訳された英語(カタカナ日本語で表記される)、が、主人公の意識に上るままにちりばめられていく。(これに加えて心の奥底で通奏低音のように主人公の眼の奥には、米兵の英語が音声として響いているであろう。)沖縄戦をモチーフにして、著者は単に反戦のメッセージを伝えるにとどまらない。その怒り、悲しみをつきぬけ、人間本性として厳然としてある暴力性を赤裸々に描くことを通して、文学作品に昇華させている。
この作品で、おそらく洞窟(がま)は女性器(膣)の象徴であり、母性の象徴でもある。洞窟(がま)に最後まで立てこもって、アメリカ兵にとらわれた主人公と、主人公が盲人となった後、すでに狂気し洞窟(がま)に逃げ込んだ小夜子が、後に時空を超えて心を通い合わせるための磁場の役割(それは、歴史が進行していっても、変わらぬ慈愛で包んでくれる自然であり、母性であることを意味する。)を洞窟が果たしている。
一読して、ピンと来なかったのは後半の、強姦に及んだアメリカ兵が妄想にさいなまれるシーンである。「なぜ、強姦した若娘とともに、その赤子のことまで妄想に出てくるのか」という疑問である。妄想は、強烈な体験の連想や追憶等に関連して生起しうると考えられる。してみると、これは、白い催涙剤(精子の象徴だろうか。)を身に浴びながら、洞窟(がま)(=女性器)から出てきた主人公を見たときのアメリカ兵士の忘れがたい記憶に、赤子のイメージが潜在意識的に植えつけられたのではないだろうかと見当づけている。であれば、その”妄想の赤子”は盛治の幻影に他ならない。このことは、以下の2つのことを我々に暗示している。
①盛治が赤子のように純粋無垢に小夜子を思う気持ちから、アメリカ兵に対する復讐を行ったということが、アメリカ軍に了解されるということ。②小夜子と盛治(赤子の姿で)が共にアメリカ兵の寝枕に立つということで、二人の思いが通じあう契機を与えているということ。
だが、この二人の思いが昇華し、同じ時間・空間で出会うのは、皮肉なことに、全編を通じて、このアメリカ兵の妄想の中だけである。その後の現実の生活の中では、それぞれに狂気に陥り、疎外を受けながら過酷な運命を生きる。このあたりに、作家の透徹したリアリズムに徹する姿勢とこの作品にかける気迫を感じる。 -
消えないなあ