新・原子炉お節介学入門: 次代に何を残せるか。戦わないで得られる、将来の「国産エネルギー」のための体験的基

著者 :
  • 一宮事務所
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  • Amazon.co.jp ・本 (415ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784885553059

感想・レビュー・書評

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  •  金言の数々。共感できるものが多かった。

     責任を取る気のない人、何かあったら困る人、何かあったら他の人のせいにする人ばかりでは、この資源のない国は立ちいかない。そういう人達は自分だけの立場をまもっているだけならまだしも、自分と違う考えで進めようとするのを妨害する傾向がある。せめて妨害だけはやめてもらいたい。何かあれば責任は取ると言っているのだから。

     ある時、向坊隆先生が筆者のことを「何でも普通の値段の三分の一で作る人です」と紹介されたことがある。何か無理に値切る、とか営業マン的な体質を強調されたようで、少し気になった記憶がある。しかしよく考えてみると、メーカーへの発注には細かい構造まで指示し、結果の責任はこちらで持つ、という形が多いので、材料費、工数はおよそ計算でき、当然、余計な加算はいらないので安くなる。大学、研究所で物を作るときの当たり前の形をとっているだけのことを評価されたものだが、近ごろでは珍しいということで、高い評価をいただいたものと勝手に解釈して喜んでいる。
     節約して経済的に作るということは、実はいい加減な考えではできない。性能、安全性など最も良い作り方をしないと結果として節約、経済的にはならないと信じている。

     …一直線上に等間隔に並べたり、見た目にきれいにすることが目的ではなく、誰でも、迅速に、間違いなく、容易にできることこそが目標であり、安全につながるものと考える。

     責任感を持たせ、他にない、いやな仕事を続けてもらう所員には、それなりの処遇は必要と信じて頑張ったが、給与の実態の変化もあり、筆者の定年退官とともに大幅な変更が行われたように聞いた。それに対するコメントは本書の至るところの行間に暗に表したつもりである。つまり、責任を軽んずることは大きな危険につながるということである。

     一つのことだけを気にして、物事を判断することの危なさを自ら体験した。

     …三倍、五倍の高い値段で購入しても本質的には故障破損を絶無にすることはできないのは同じである。そして、滅多に起きない方が、場合によっては油断が起きやすい、という欠点となることさえある。

     当時筆者は四十歳を少し過ぎたくらいの年齢で、少々生意気に見えたものと思われる。しかし、いろいろな人達と激しいやりとりも数知れないほど経験している。「私のことを普通の大学教授と思っておられるようだが、戦争中命がけで軍用機を設計、製造する仕事をしてきた経験がある。図面などちょっと失敗するとアッという間に何十個、何百個と変なものができてしまう。気が付いたら、上司に報告する前に現場に飛んでいってストップをかけ、超特急で変更図面を仕上げ、持ち回りでハンコをもらって処理する、というようなこともあった。…」
     おかげで、その機械はハイテクの遠隔操作のロボットなどの世話にならなくても簡単にどんな事態にも対応できる構造に仕上げることができた。

     …緊急時の対応には頭の良さより精神力の強さが必要ということを実感した。

     わが国では戦争中の体験が被害者としての立場のみ強調されることもあって、他人のために危険な作業をするのは損だ、問題だ、と考える風潮が次第に強まってきた。
     しかし、現在でも警察官や自衛官など、強い使命感を持ってその職に当たっておられる方も少なくない。筆者は、直接原子力に携わる人は、警察官や自衛官のような使命感を持って仕事をすべきだと考えている。つまり、一般社会人の安全のためには多少の危険を冒すことも仕事のうちと考えなければならない、ということである。
     給料をもらって仕事をしている人が、仕事の上でも一般人と同じ感覚でAs low as……(低いほど良いという原則)の原則を振り回していては一般人に信頼され、安心感を持ってもらうことなどできるわけはない。
     ところで、安全に関しては百点満点は望めない、と強調しているが、そうであれば大切なことでミスしないように、重点の置き方というか優先順位をはっきり決めておかねばならない。
     安全を保証する対象の第一優先順位はいうまでもなく一般人でなくてはならない。自身では何の手段も講じられない人を守るのは当然のことである。
     同じ人間でも、所員や契約で自分の意志によって仕事をする人は少し違う。何桁も大きな危険を冒しても一般人を守る役割がある。自分たちの努力次第で安全にも不安全にもなる立場にある者としては当然のことであって、人間として差別しているわけではない。よってこれは第二順位である。
     次に、冷たい水を注入して熱応力が生ずることを避けるといったようなことは、機器にとっては重要でもその下の順位であると強調しておく。
     さらに、使うお金の問題はその下の順位に過ぎないのである。「安全」のためならお金はいくら使ってもよいという意見があるが、そのお金は自分が出す場合のお金であって人に出させるお金のことではない。余計なところに使うお金を安全に回せ、という意味にとるべきである。

    Murphy's Reliability Engineering Law(抜粋)
    ①"If there is a possibility of several things going wrong, the one that will be the one to go wrong."
     物事は一番悪い方向に行くことを考えよ、というように解釈する。
    ②"It is impossible to make anything foolproof, because fools are so ingenious."
     不注意で、操作の順序を間違っても、連錠装置などで、それが働かないように抑えるfoolproofは装置が正常な時は問題はない。異常が発生したときが問題で、計器が変な指示をするようになったとき、"fools"は何を考え、どういう動作をするかわからない。
    ③"Nature always sides with the hidden flaw-Mother nature is a bitch."
    ④"The probability of anything happening is in inverse ratio of it's desirability."
     この二つは、自然は意地悪である。起こってほしくないことほどよく起こる、という注意。
    ⑤"A fail-safe circuit will destroy others."
     何かが破損したり、故障したときは安全側になるようにするというFail safe方式は、他が犠牲になることがある。すべてを通じて同じphylosophyで計画、設計することは非常に困難、という教訓。
    ⑥"A failure will not occur until a unit has passed inspection."
     変な検査、試験をするとかえって調子が悪くなることがある。機械的固定的な考えは問題があるという教訓。
    ⑦"Installation and operating instructions will be discarded by the receiving department."
     説明書などなくても自然に正しい操作ができるような設計こそ理想。緊急の場合、安全を確保するには特に大切な教訓。
    ⑧"Any system which depends on human reliability is nureliable."
     これは一応正しいが、場合によっては逆のこともある。自動操縦中の航空機のパイロットが、装置の異常に気付き、手動で修正しようとしたが、狂った自動制御動作が外れず墜落した例がある。最終的な段階ではやはり責任をもって人間が制御する方式をとるという考え方に戻した。米国のスペースシャトルでも地球に戻る時、地上数百メートルから着陸までは熟練パイロットの手動操縦によることになっていると聞いた。
    ⑨"Investment in reliability increases until it exceeds the probable cost of errors, or until someone insists on getting useful work done."
     あまり過剰な設備を作ると、事故で生ずる損害より費用が多くかかる。
    ⑩"You can't win-you can't break even-you can"t even quit game." 
     最後で、しかも最も重要な教訓。安全確保はゲームに例えて言えば、勝てない、引き分けもない、棄権もできない、というものである。つまりその仕事に就いた人は、絶えず努力をする必要があり、しかもそれでもなお永久に「絶対」という段階には到達できない。

     原子炉が完成して十年ほどたったころの話である。東京出張中の筆者に緊急電話が入った。
     裏の池で、近くの子供さんが水難にあったということである。周辺のフェンスは十分に整備してある筈だし、どうして池に入れたのか分からないが、いずれにしても重大な事態である。とにかく、できるだけの手を尽くすよう指示して、用もそこそこに急いで帰所した。
     若い所員が二、三人、アクアラングを付けて飛び込み、救助活動をしてくれたが、残念ながら小学生の子供さんを助けられなかったと報告を受けた。このアクアラングは原子炉の保守作業用に備えつけたものである。原子炉全員に夏、二次冷却水貯留プール(排出前の水のモニター用)でこれを付けて潜水訓練をしたのが何年も経った後に思わぬ役に立つことになった。
     ところで、その若い所員が筆者にそっと話してくれたことがある。アクアラングを付けて飛び込もうとした時、他部門のある教授が来て、「業務命令も出ていないのに、勝手なことをして二次災害が起こったらどうする」と制止された、という。しかしそこで彼らは「柴田先生は、我々が良いと思ってしたことなら、たとえ失敗しても責任をとってもらえる。やります」と振り切って飛び込んでくれた、ということである。
     さて、水難事故であるが、本当に残念なことに、お葬式となった。…
     ご家族は、当方の行動については、ただ「アクアラングを付けて助けに飛び込んでいただいてありがとうございました」とお礼だけ申されました、と事務部長の報告があった。原子炉の存在そのものまで問題にされるのではないかと心配していた自分が少し恥ずかしくなった。知らぬ間に人間性の抜けた仕事人間になりかかっていたのではないか、と気が付いた。若い人達がしっかりやってくれたおかげだが、世の中誠実にやっておれば、ちゃんと評価していただけるということを改めて感じた次第である。

     ある大学教授が、「このところ頼まれてJCO事故の説明に飛び回っていますから大変です」と挨拶がてら話があった。黙って聞くわけにはいかないので、「一片の謝罪も反省もないような説明は、百万べん繰り返しても何の意味もありませんよ」と毒舌を吐いた。早々に消えられたが、その後の世の中の動きは心配したとおり庶民に責任を押しつけてケリを付けるという形である。
     とにかく使命感を持たず、自分の安全しか考えない無責任な者の集団ほど危険なものはないし、滅ぶ運命にあることは歴史の教えるところである。そういえば、近ごろ権力とか権限という言葉ばかり出てきて、「公僕」という言葉はさっぱり聞かなくなった。公僕が死語では困るのだが。

     …無責任で、能力が足りないのに努力しない者を何重にも重ねるような組織を作っても、効果が増えるどころか、かえって信頼のできないものになる…

     日本はプラントを組み上げる力が足りない、といわれるが、筆者は個人個人の力もさることながら、体制に問題があると思っている。誰も責任をとらなくてよいようにする。そのために誰にも絶対的な権限を与えない。うまくいったときも失敗したときも、仲良く手柄とか責任を分配する。これで初めての大規模で複雑なプラントを統制をとって、隙間のない高性能なものに仕上げるのは不可能に近い。例えばどこかの部分で何か変更したとき、他の部分でどのような影響が出るか考えることもできないからである。

     現場のことを知らない者ばかりが指揮権を持ち、失敗すると前線の責任にする、ということでは安全を保てるわけはない。指揮官が最前線に出て、頑張ったが失敗した、と言えば、叱られはしても何となく許してもらえるのである。そういう体制なら、二度と同じことはやらないだろうし、まじめに改善してくれるに違いない、と理解してもらえる。
     遠いところから事情を知らない無責任な指示を出しておいて、事が起きて形だけ頭を下げて二度と起こしません、と言っても誰も信用しない。
     前にも述べたが、筆者は放射線下の作業の時は、自分で先に現場にこういう風にやってください、と見本を示すことにしている。企業の作業員の方は、後に続いて、会社内の労使協定などにあまり拘束されないで、必要な仕事をしてくれる。離れたところで監視だけするのは作業者の不安、反発の気分を生む原因になり、後々まで問題を残す。

     壊れることは自然で当然である。それを乗り越えて安全を確保する。これが原子力安全文化の基本で、いつ到達できるか分からないが100%の安全を目指して努力する、その道は無限である。そういう道を進むのは諸君の世代の任務だ、と現役高校生に話すと、彼らの目は一様にキラキラと輝くのである。
     原子力安全文化とはそういうものを指していたのだと賛同される人がおられたら、お願いがある。この文化向上のためには机上の話やお説教だけでは不可能である。実物の原子炉に触れて習熟することが必要である。日本全国に数か所ほど研究炉を中心とする地域センターを建設する案に関心を持ち、ご協力をいただきたいのである。

     神様の作るものではないから故障、破損はどうしても避けられない。しかもどんな大きな事故でも始めに起こるのは「ハイ正常です」というはっきりした状態から僅か変わった微妙な事象であるのが普通で、あらゆる場合に備えるという気構えが必要というのが原則である。
     原子炉の場合は普通の機器よりさらに不具合の起こる要因が多く、全体として家電、自動車などに比べて経験が少ないことから、人一倍の緊張と注意力が要求される。原子炉は安全ですか、と原子炉の体験会に来た高校生から質問をよく受ける。これに対しては、こんなに凄い力を持つ原子力が本来安全であるわけがない。一生懸命に努力して安全にしているのだ。より一層安全にし、性能を上げるのは諸君の世代の責任ですよ、と答えている。そして、もしこれを嫌うなら、他のエネルギー源を開発する必要がある。石油・石炭も天然ガスも、水素も日本には何もないことを頭に置かないと、土壇場でまた資源を入手するために戦争、ということにもなりかねない、と付け加えている。

     …細かいところは実際に実験を体験していただくしか方法はないが、教科書では一般に実験データの取り方の簡単な記述しかなく、手順前後などのちょっとしたミスは避けられない。そして、そのちょっとしたミスの結果起こる事故は予想できないほど大きなものになる。
     難しい数学や物理学の問題ではなく、事柄は簡単で、どちらかといえば容易である。しかし、一度もやったことがなくて、本だけ読んだ人が間違いなくやれるのか、は甚だ疑問なのである。今の日本で、私のこういう意見に賛成しない人達は多い。本を読み、物は購入して説明書を読んで、その通りにやれば十分と考えている人達である。
     本はほんの一部しか書いてない。書かないのではなくて、書けない人が書いていることもある。身に付けた「作法」は単なる作業動作だけのためにでなく、原点に戻って設計・工作など技術的問題の解決のためにも良い影響を及ぼすもので、訓練は安全性はもちろんのこと、効率の面でも有効であると考える。また、訓練では初めからうまくいくものではなく、失敗やミスは避けられない。繰り返し行って上達する。訓練中の小さな失敗やミスはそれ自身貴重な体験であり、改善、改良のきっかけともなるものである。

     何か事故やトラブルが起こると、わっと集まって、これが悪かった、あれもやろう、などといっぱい改善案が出る。
     しかし、忘れてはならないことは、要員数も、お金も、無限に使えるわけはない。特にどこか知らぬところで起こった事故のためにやらされるのは庶民として納得できない。そこで考えるべきことは、あれもこれも、ついでにこれも付け加えて励行させよう、という考え方はやめて、従来の規制の中で、これだけは絶対やれ、あと、できればこれこれもやれ、そして、さらに余裕があればこういうこともやる方がよい、というように差をつけることを考えるべきではないか。
     …
     規則、基準にも必修と選択、課外と区別するのが現実に最も効果が上がる方法と考える。

  • 決して品のよい文面ではなく、正に「お節介」であるが、日本の原子力を作ってきたといってもよい著者の見識は、分野は違うが、設計者の端くれとして、共感するものがある。
    著者が心配していた風潮が、いま、ピークになっている。
    日本人は、過去の歴史とそれに付帯するエネルギー問題をしっかりと理解すべきである。

  • 原子炉の事故は「起こらない」のではない。「起こらない」と「起こる」の間の「起こさない」ための最大の努力をすることが重要であるというメッセージが込められている本。

    そのような努力として、設計思想、人材育成の両面が大切であるとともに、広報活動や地元への対応においても、原子炉を扱う側としての上記の姿勢を正面から伝えていく必要があるということが述べられている。

    設計思想の面では、筆者が長年にわたって関わった京大実験炉では、設計時に制御系に対する徹底的なfool proof、interlockを盛り込むこと、「原子炉仕様」としてほかより数倍以上高価なものを使ってそれで安心するのではなく、壊れたらすぐ分かりすぐ交換できることといった原則を徹底的に追及されていることが分かった。こうして1つ1つの細部にわたるまで設計思想を徹底して作られたものは、実際に稼動させる場合にも安全管理が一段高いレベルで行われるように感じた。

    一方、人材の育成に関して、日本では原子炉を実際に運転して訓練をする機会が極端に不足していることが指摘されている。研究炉の数も米国は日本の十倍以上あるという事実から、人材の育成について日本の原子力分野は「先端」であるのかといった点には、大きな課題があるように感じた。現状を率直に見つめて必要な対策を取っていくべきではないかと感じる。

    最後に、本書では原子炉建設やその後の運転期間中に、近隣の住民・自治体や外部からの見学者にたいしてどのように対応したかという点も、包み隠さず記述されている。法規制の強化だけでよしとする態度や責任の押し付け合いを繰り返すのでは安全文化が定着することは決してなく、実際に起こりうるトラブルを直視し、それに対して現場を預かるものが責任感を持って対処することで、「起こさない」ための最大限の努力をすることを伝えていくしかないという著者の決意が感じられた。

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