明治維新という過ち 改訂増補版: 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト
- 毎日ワンズ (2015年1月14日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (319ページ)
- / ISBN・EAN: 9784901622820
感想・レビュー・書評
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本書は昨年1月に出版され、Kindle化を長らく待たせられて上で最近ようやく読むことができた。
本書が気になったのは『<strong>長州テロリスト</strong>』というキーワードである。
戦国モノに続き、幕末維新モノをいろいろと読みふけってきたが、幕末から大政奉還にかけては各陣営の枠組みが次から次へと目まぐるしく変わり、どこの陣営が何をしようとしているのかが非常にわかり辛い時代である。
が、唯一常に疑問に感じることは『天誅!天誅!!』と江戸・京都市内を暴れまわっていた幕末の志士といわれているものたちのやっていることはテロリストでしかなく、なんでそれが尊皇攘夷の『志士』という位置づけなのかがさっぱりわからないのである。
当然のことながら、当時は廃刀令もなく武士は刀を差して大通りを闊歩している世の中であり、現代の感覚で当時を評価すべきではないことは重々承知の上である。
それにしても、『<strong>尊皇攘夷</strong>』を掲げておきながら、有力公家を脅し、朝廷を私有化せんがための京都の動乱は、学校で教えられてきた歴史や正史にのっとった歴史書だけでは非常にわかり辛い。
また、昨年の大河ドラマ『花燃ゆ』の残り1/4以降で、吉田松陰の妹である文が初恋の人である楫取素彦が群馬県令として群馬に下ってからのシナリオになんか気持ち悪い違和感を感じたのだ。
最初のうちは富岡製紙工場も世界文化遺産になったんで、その観光PRも兼ねて明治殖産興業の中心の一つであった、群馬の養蚕をテーマにしたのかとおもって観ていたが、その内にどうも楫取素彦と文の人心掌握の過程が、明治維新を成し遂げた長州人の進歩的な施策で、江戸幕府以来遅れた風土の群馬を近代経済の中心に改革を重ねて実績を上げていく。まさに長州人の進取の気概は素晴らしいものである!
という長州讃歌のようないやらしさを感じたのである。
これは本当か?というのが従来疑問に感じ続けてきた『長州がやっていることは所詮テロリスト』と重なり、本書をはやいとこ読みたかったのだ。
そんな中で出会った『<strong>長州テロリスト</strong>』というキーワードを掲げる本書は、明治維新は官軍教育による幻想であるという立てつけである。
<blockquote>まだお若い天皇を人質とし、勅許を偽造してまで決行した長州・薩摩と岩倉具視の討幕のためのクーデターは失敗に終わり、『王政復古の大号令』は実質的に消滅した。そこで長州・薩摩は『鳥羽伏見の戦い』へと幕府の挑発に成功し、一気に『戊辰戦争』という内乱へもち込んで、結局武力で討幕に成功した。そして、戦争に勝利した長州・薩摩が、世に「明治維新」と呼ばれる麗しい歴史を書いたのである。</blockquote>
現代の感覚で評価すべきではないという点では、若干現代の基準で考えている面も無きにしも非ずであり、行き過ぎた官軍教育の視点にこだわりすぎて、冷静な判断ができていない面も無きにしも非ずである。
明治維新というものがなんだったのか?という点においては、これまで教えられてきた勝者側の歴史と本書のような敗者側の歴史の両面を知った上で、読者が冷静に判断すればよいものと思う。
ちなみにボクは明治維新というものは、尊皇vs佐幕でも攘夷vs開国でもなんでもなく、ただの外様大名の政権奪取でしかないと考えている。
そこに司馬史観のような明治維新至上主義のような感傷は全く持ち合わせていない。
作者は薩長のやり方にかなりの不満を抱いているらしく、江戸・京都での天誅をはじめとして、戊辰戦争のきっかけとなった見回り組の江戸放火連続事件等、とても武士のやり口ではないと非難しているが、歴史を回天させた事実を振り返るに、その原動力はみな既存の勢力ではない別の勢力・指導者による既成概念を越えた戦略・戦術によるものである。
そういう意味では、ただ正規の武士階級ではなく土豪や農民出身者だからといって、避難できるものではないと考える。
このあたりが、独自の観点で歴史を整理しなおすモノではなく、作者のイデオロギーの範囲にとどまってしまっている本書の限界か。
また、明治維新を整理し直すという視点は大変興味深く、そのために本書を手に取ったといってもいいのだが、薩長に対する怨恨、そしてそれが現代にも続いていることへの不満に終始しており、では薩長による新政府のなにが悪かったのか?それに変わりえるモノはなんだったのか?という面での考察がほとんど述べられていないことが残念である。
本書を読む限り、下賎な薩長と下級公家による御一新等というモノよりも、すでに開国し、海外列強と渡り合っていた優秀な幕府の幕閣による新政体が構築出来れば、民族の破滅に繋がるような昭和の大戦や、現代の欧米追従の自立できない国家のような体たらくにはなり得なかったと言い切るが、ではなぜ薩長ではなく幕閣であればそれが成し遂げられるのか?なぜ歴史はそのように動かなかったのか?という考察が全くなされていないのである。
しまいには、最後の1/4くらいからは戊辰戦争における二本松・会津への哀悼や、西南戦争における武士階級の最終的な消滅への哀悼が続く。
乱暴なまとめ方をしてしまうと、『武士の気質をわきまえて、しっかりとした武士教育を受けてきたエリートたちにより新政体が構築されるべきであったが、武士道をないがしろにするような下賎な輩が、ただ権力欲を満たすために日本人にとって大切なモノを全て崩壊させてしまったことが、現代の日本が不甲斐ない根本である。』ということがいいたかったのか?
そういう意味では、テーマは非常に興味深いのに、作者による実証がほぼなされていない点が残念でならない。
ただ、大政奉還後に無理やり成し遂げたかのような王政復古の大号令が実は失敗に終わっていたという点は初めて知ったことであり、興味深い。
なぜ、その後の歴史では(アカデミズムの研究の中でも)このことに触れられていないのか?詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
帯文:”偽りに満ちた「近代日本」誕生の歴史” ”いまも続く長州薩摩社会”
目次:はじめに~竜馬と龍馬~、第1章 「明治維新」というウソ、第2章 天皇拉致まで企てた長州テロリスト、第3章 吉田松陰と司馬史観の罪、第4章 テロを正当化した「水戸学」の狂気、第5章 二本松・会津の慟哭、第6章 士道の終焉がもたらしたもの、あとがき -
著者、原田伊織は、司馬遼太郎の明治維新至上主義に、強く異を唱える。現代に通じる官軍教育の打破を目指すと、主張は激烈だ。しかしながら、歴史には必ず立場に応じた見方があるわけで、著者の主張にも一理ある、と頷くこともできる。とくに会津藩への共感や、斗南のことなど、これは司馬遼太郎の街道を行くにも取り上げられており、明治維新至上主義と断じておきながら、お互い相通じるものである。終末に、我々が持続してきた文化というのは、弥生時代に発し、室町時代に開花し、江戸期に固定し、明治以降崩壊を続け、昭和40年頃に滅んだ、という司馬の叙述を引用し、最大限の賛同を与えている。最初は、タイトルから正直毛嫌いしたが、読み終えて、こういう著作もあってもいい、と感じることができた。物事には二面性があるという、ある程度落ち着きを保った知的姿勢の中にいるべきなので。
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確かネットで流れてきて興味を持ったのが初め。
祖先が山川捨松であることも、現首相が山口県出身なのも、おおいにこの本を読むきっかけとなった。
レビューを読んだ時は「そんなワンピースみたいな話があるわけない」と思いつつも既に読む腹は決まっていたので購入し読み始めた。
数ページ読み進めると、著者がこれまでどれだけのデータを集めてきたか、どれだけ文献を読み込んだかがありありとわかった。
『歴史とは血の通った人間が作り上げてきたものである(大意)』
という著者の主張には大きく首肯する。
(時折著者の政治的スタンスを押し付けてくるのが煩わしいが。)
著者の頭の中には人物が存在し、それが勝手に動くのだろう。
「◯◯はこのような人物であったからこう考えた可能性が高い」
と言った文言が散見される。
その著者の情熱に唸るわけだが、それよりも驚いたのが、『正史』を紐解いていっても、『学校で習う明治維新』は不可思議なことばかりであるということである。
不可思議というか整合性が取れない。
尊王攘夷の流れから、徳川家が潰れ、朝廷に政権が渡ったのになぜ西欧化を目指したのか。
この観点からでもどんだけでも突っ込みどころがある明治維新。
今まで疑問も抱かずによくここまで来たものだ。と思う。
著者の意見を鵜呑みにするわけではないけれど、正史を疑ってかかることも非常に重要だと感じた。
理解しきれていないところもあるのでもう一度読み直したい。 -
2015/12/21 図書館(パパに薦められて)
アンチ明治維新!で確かに面白そう。ただ熱量があり過ぎてこちらにまるまる共感するのも恐いように感じている。はてさて、読後私は明治維新をどう評価する人間になっているのか楽しみだ。
後で「幕末史」とも文章を比較してみたいな! -
「会津藩vs長州藩〜なぜ“怨念”は消えないか」を読んでいたので、大抵の内容は知っていることでした。
外国語をそのままカタカナで使う事への違和感は僕も感じているので、ウンウンと頷きました。
「アジェンダ」やら「モメンタム」なんて単語を使われると、日本語ってそんなにダメなのか?と呆然としてしまいます。
難しいですが、正しく日本語を使っていきたいと思います。 -
現代日本の病巣がいつ頃発生していたのか、小泉、安倍らの政権がなぜ悪辣な政をなすのかがよく分かる。彼らのようなゴロツキを、外資がグラバー商会などを通じて手先に仕立て上げたのだろう。
日本人必読。読まずに死ねない。 -
原田の基調は「会津史観」ともいうべきもので、会津戦争(1868年:慶応4年/明治元年)の悲劇に寄り添う感情に傾く。良し悪しは別にしてその情緒こそ本書の読みどころであろう。
http://sessendo.blogspot.jp/2015/11/blog-post_22.html -
着眼点は面白い。尊王攘夷の志士はテロリストであり、坂本龍馬は英国武器商人の手先であり、彼らは結果として日本史上稀なほど好戦的な政権を生み出し、80年後の破局を招いた。日本書紀の例を引くまでもなく、歴史は常に勝者の立場から語られることから、明治維新史も疑って読む必要がある、というのはその通りだと思う。
ただ、そういう大事なことを語る割に、論証が不足し、感情に走り過ぎて同じことの繰り返し、といった文章が目立った。
尊王攘夷運動の果てに出来た明治政府は、廃藩置県、四民平等、徴兵令と次々と革新的な政策を打ち出し、封建社会的な枠組みを完全に捨て、西欧型の近代国家へと舵をきる。おそらく、背後には戊辰戦争で薩長を支援した英国の存在があり、加えて維新を主導した岩倉、西郷、大久保、木戸といったミドルクラスが、摂関家や藩主、家老など上層部を排して主導権を握ろうと動き、さらに伊藤、山県、井上らの維新第二世代にまで引き継がれたところで明治政府は安定期を迎えた。そういう血生臭い歴史をどこまで論証できるかでこういう本の価値が決まると思うと、ちょっと残念。