- Amazon.co.jp ・本 (364ページ)
- / ISBN・EAN: 9784907188504
作品紹介・あらすじ
正しいことしか許されない時代に、「誤る」ことの価値を考える。
世界を覆う分断と人工知能の幻想を乗り越えるためには、「訂正可能性」に開かれることが必要だ。ウィトゲンシュタインを、ルソーを、ドストエフスキーを、アーレントを新たに読み替え、ビッグデータからこぼれ落ちる「私」の固有性をすくい出す。ベストセラー『観光客の哲学』をさらに先に進める、著者30年の到達点。
感想・レビュー・書評
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私はSNSはやらないが、SNSには、白黒ハッキリさせるような論議を生む機能が内蔵されており、その意見の差が大きい程、人は反論の熱意が高まるようだ。それは宗教論争のように相手を屈服させ、自らの正義を知らしめようとする。その根底には論に仮託した承認欲求の維持、自意識を失いたくないという気概すら見える。
その状態はヤバい。社会は、訂正し、実態にアジャストする機能を有していたはずではないか。また、完全な根拠で立論して最適解を弾く「人工知能民主主義」にはリアリティが無いが、実現するとしても、その無謬性ゆえに「訂正可能性」を欠くならば、あってはならない。こと哲学においても、過去の論考を引きながら訂正するのは、人文学における当然の作法である。あるべき筈の「訂正可能性」を訂正強度のミスリードにより敵味方に分断したり、片方の論説を過敏に扱い過ぎる、または自論を完璧に信仰し過ぎるのはいかがなものか。本著の論旨は、そうしたあるべき「訂正機能」を消失しないようにというメッセージを含むものだと読解した(あくまで個人の意見であり、書評)。
観光客とは、友にも、敵にも分類できない第三の存在。家族とは、自ら選択して集められた集団ではなく、いつの間にかそこにあるもの。こうした二つのカテゴリーを駆使して、確定した立場や意見の危うさを看破する。そして、クリプキのクワス算を象徴的に援用する。
ー 僕たちは、すべての問題に中途半端にしか関わることができない。これは決して冷笑主義の表明ではない。それはすべてのコミニケーションの条件。足し算の規則すら完璧に提示できず、ソクラテスの名前すら完璧に定義できない。そのような単純なことに対しても、原理的に他者からの訂正可能性にさらされている。
人文学者、いや社会学でも私は疑問に感じるのだが、誰それがこう言ったという言辞を弄して、それは実験データでも無いのに、なぜ得意気に論説を複雑化してしまうのか。彼らは皆、自信がない。あるいは教養=記憶力が売りのナルシストなのかと。東浩紀は、訂正可能性をモチーフに、その答えを本著で与えてくれた。
ー 人文学は過去のアイディアの組み合わせで思考を展開する。自然科学のように実験で仮説を検証するわけではない。社会科学のように統計調査を活用するわけでもない。プラトンはこういった、ヘーゲルはこういった、ハイデガーはこういったといった蓄積を活用し過去のテクストを読み替えることで思想を表現する。ヴィトゲンシュタインの哲学を訂正し、ローティの連帯論を訂正し、アーレントの公共性論を訂正するといった訂正の連鎖の実践である。この訂正こそが、人文学の持続性を保証する。
ー 成田氏による無意識民主主義、人工知能民主主義については、実現不可能だと考える。例えば戦争のように情動が沸騰する事態に対応できない。無意識が常に公共の利益を指し示すわけでもない。訂正可能性の概念を導きの糸としているのは、一般意思とその暴走を抑制するものの、拮抗関係についてより明確に説明できると考えたからである。アルゴリズムの構築そのものも疑わしい。人工知能民主主義は、訂正可能性を消去するから問題なのだ。
改善ではなく訂正。いや訂正にも「正しさ」を語感に含むので、少し齟齬があるようには思うが、社会構造上、当たり前にあったもの。必ずしも良い変化とは限らぬが、あるべきもの。それがインターネットやAIにより、消去されぬように。私はそういう読み方をしたのだ。後は訂正していけば良いではないか。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
事後的に解釈やルールを変えられる、それが人間と言語の本質にある、だから社会の無意識的な理想、一般意志の実現を目指すAIによる統治は、人の本質を欠いていて理想にはなり得ない。分人は責任を負わないので異なるポジションを取るのではなく、全人的に訂正していこう、とも理解した。こじつけ感あるなと思うところもあるが、合意できる内容。議論する、難癖つける、相手を思いやる、そういう社会性で人の幸福は成り立ってる。何かに意味を見出すのはこれからも人がやりたいことなはず。
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『観光客の哲学』の続編である本書は前書の主張を引き継ぎつつ新たに”訂正可能性”という概念にポジティブな可能性、それは究極のところ、民主主義社会における新たな可能性を見出す。
本書の主張は、末尾に収められた以下のようなテクストで要約される。
”だからぼくたちはけっして、民主主義の理念を、理性と計算だけで、つまり科学的で技術的な手段だけで実現しようとしてはならない”(本書p326より引用)
”ぼくたちはつねに誤る。だからそれを正す。そしてまた誤る。その連鎖が生きるということであり、つくるということであり、責任を取るということだ”(本書p343より引用)
前著の『観光客の哲学』では「敵か味方か」という二元論を超える存在として”観光”という行為にスポットライトがあたっていたが、その二元論には「◯◯は正しい」という価値判断があり、その価値判断に合致したものが味方とみなされる。昨今の社会分断を見れば明らかなように、現代社会はこの”正しさ”をひたすらに追求してきているように思う。
しかしながら、我々は常に正しい判断を下せるわけではない。むしろ自らの”誤り”に気づき、その意見を変えていくことこそが重要であり、”誤り”、ひいては”訂正可能性”をポジティブなものとして受け入れるべき、という著者の主張は、極めてアクチュアルな意見提起であると私は強く感じた。 -
この本は、これからも何度も読み返すことになる。考え続けることの意味を、こんなにも優しく分かりやすく語りかけるような本を書いてくれたことに感謝する。人間とは、迷って間違ってどうしようもなく、だからこそ愛おしいんだ。
それから、理系の夫と文系の私で、「自然」という言葉の定義が違うのだろうな、という事に気が付かされた。違うところから出発して、議論を深められたらよい。 -
著者がおわりで述べている哲学とは、過去の哲学に対する再解釈であるという姿勢が体現された著作だったなと。 過去の文献の丁寧な読み込みと再定義から発する「訂正可能性」の意義。人間に対する親しみを込めた諦観が、著者の人間愛を醸し出す。
ところで過去の作品から文体が変わったとのこと。ぜひ、『一般意志2.0』あたりから振り返りたいなと。もちろん今後の創作活動にも期待しておりますです。 -
2024/5/1
導入部分は理屈っぽさを感じたけれど、その前振りの理由が判ると本論にスムーズに入っていける。
いわば予習と本題の繰り返しを続けながら進む形に慣れていった。
示される過去からの経緯やその関連資料が多く、その内容をきちんと把握できていないからかもしれないが趣旨は非常にシンプルな印象だった。
本書に限らないが右だ左だとか、何々派、何とか主義とかが出てくる度に、その主義主張はこうである、だからこうすべきとか、それは解釈が外れているとかいう事例や批判が伴うが、他人が提唱した理論がいかに優れていると思えても、それを理解し、それに合致した生活や行動を100%行うのは無理であるし、その意味もないように思う。
多くの人々は決して右や左、赤や青、特定の主義主張等、両極端に分かれているわけではなく、その内容や、その時に応じて両極の間を行ったり来たりしている。
社会には公の役割は必要だし、私のない世界などあり得ないのが普通の感覚だろう。
そこには絶対の基準などなく、あるのは公私およびオン・オフの程度の違いだけ。
昔、選挙の前に色んな政治テーマ(確か7つ)について、なにが最適と思うかという問いがあって、答えてみたところ自分の意見と合致する政党が各テーマで全て違っていたという経験がある。
驚いた反面、それが普通なのかなとも納得した覚えがある。
どんなに意思疎通が出来て理解しあえている間柄でも所詮人と人は異なるし、自分自身の事さえも決して全て理解できていない。
ましてや人間の集団や社会全体に共通した真実や善はなく、その近似値を常に想定、追求し続ける事が必要なのだと思う。
その試行錯誤は人間の活動が休止しない限り続くエンドレスなものだと思うし、生物が自らの破壊再構築でエントロピーを排出し続けることによって生命を維持しているのと同じかなと思う。
そういう意味では当然というか、その通りという内容だった。
逆に真実はこれだ、これが究極だと唱える者は、為政者であれ、宗教家であれ、学者であれ、そこには傲慢と腐敗が必ず付きまとうということを改めて自覚すべきと感じた…頂点に達したら後は転げ落ちるだけ。
追記
一般名詞と固有名詞についてはなかなか面白かった。 -
訂正可能性自体は可謬主義的なこととの違いがはっきりとは理解できなかった。
ヴィトケンシュタインの言語ゲームやクリプキの議論から原理的な訂正不可避性については新鮮さを感じたが、そこから導かれることは、可謬主義や批判的思考の重要性、脱構築の正義など既存の思想との違いがよくわからなかった。
一般意思が独裁などにつながる危険性も他書でも見られる主張に思った。人工知能民主主義とう概念は私は意識していなかったので、ルソーの思想とのつながりもふくめ、その発想や概念はなるほどとおもった。
私自身も、人工知能民主主義については、人間の理性の限界は、ほぼ原理(HW限界)におもうので、人間による政治では「加速主義的な技術のブレークスルーが起こるという希望を除けば」いきづまっていると思うので、非常に納得感がある。
ただ、むしろ、いまのように社会や政治が危うく混沌としたままのほうが、結果としてイノベーションが起こりやすく、加速主義的な希望を信じる意味では可能性があるのかもしらないとも思う。
また、結局著者も、人工知能民主主義自体は肯定しつつ、そこにあらがう人間の活動や感情を取り込むモデル(2院制みたいなものか?)が必要という主張なのかなと理解。それ自体も、人間のHW限界を踏まえると、非常にその通りだと思う(少なくとも、未来100年ぐらいのスパンで)。
また、筆者からは草の根の結社みたいなものが多く活動し、意見?なりを戦わせるような希望を読み取ったが、それ自体が、民主主義の比較的古い理想で、現代を見るに困難に感じた。 -
絶えず間違い、正しさを作り、また訂正する。それを繰り返す。「正しい」なんか無いんだという冷笑に陥らずに、かといって絶対的正しさに固執することも無く。
面白かった。別の著作も読みたい。