- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784908925863
作品紹介・あらすじ
ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ=ポリコレ)という正義の名のもとに、新たな次元の支配システムが、アメリカを、そしてこの日本を蝕んでいる。
BLM、LGBTQ……「人種差別やジェンダーによる差別をなくし、多様性を認めよ」という掛け声のもと、「新しい正義」が謳われ、その正義の基準に沿わないものは、全メディア総出で、逃げ場なき集団リンチのごとく手酷く批判され、社会的に抹殺される。キャンセル・カルチャーや批判的人種理論が幅を利かせるアメリカ。尻尾を振ってそこを追いかけようとする日本のメディアが、日本を誤った道に連れて行こうとしている。
森喜朗元首相たたきもそうだった。仮に失言はあったにせよ、異様なのは、その後の「全メディア挙げての集団リンチ、吊るし上げ」であり、反論さえ許さぬモンスター的人格攻撃だ。「差別をするな。多様性を認めよ」と叫びながら、その実「自分にとって都合の悪い多様性は一切認めようとせず」「新たな差別を創造する」流れは、今後さらに増加し、極端化し、過激になっていくと思われる。それでいいのか? 防ぐ方法はないのか?
多様性とは、自らと違った立場の意見を尊重し、相互に認め合うことのはずなのに、逆に「不寛容」ばかりが増し、企業も学校も社会も息が詰まっていく。
ポリコレ先進国・アメリカの悲惨さを見よ。非キリスト教徒に配慮するという大義名分のもと、すでに「メリークリスマス」という言葉は奪われ、性差別への配慮として、「お父さん」「お母さん」も公式の場では使えなくなってしまった。カリフォルニアでは、LGBTQに配慮するため、結婚式の際、「夫」とも「妻」とも言えないのだ。狂気だ。
日本は1日も早く先行するアメリカの過ちに気づき、本当の自由と平等を取り戻す努力を始めなければいけない。「機会の平等」でなく、「結果における平等」を保証することは、「新たな不平等を創造」するだけ。そこには絶望しかない。
今や、日本の学校では「あだ名」をつける事さえ、一律に禁止されようとしている。
「言葉狩り」や「#MeToo」、「マスク警察」や「ワクチン警察」、「お母さん食堂」へのいちゃもんなどに代表される動きが、今後さらにエスカレートし、モンスター化し、一方的なレッテル貼りをすることで、人々のつながりが分断され、冤罪事件を生んだり、暴力や殺人など、新しい深刻な差別を生む日も遠くないのでは、と不安を感じている人も多いように感じられる。
忠実で丹念な取材力を基本に、多くのノンフィクション作品で高い評価を得てきた著者が、「ポリコレ」という新たな敵の正体を見出し、追い詰めていく。
現状のまま進めば、日本もジョージ・オーウェルの『1984年』のような全体主義管理社会というディストピアにどんどん近づいていく。
なんとかそれを阻止したいとの強い思いが本書を書かせた。
感想・レビュー・書評
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ポリコレという言葉を、高橋源一郎「飛ぶ教室」で初めて知る。
???の頭で、本を探すとこの本が見つかった。
ポリコレなる意味は理解したものの、まだまだ勉強が必要である。
とはいえ、最近のなんだか気持ち悪い世の中に、この言葉がしっくりと当てはまる。
この本でいうと、同調できることと出来なこともあり、もう少しいろいろな本や記事を紐解く必要がありそうだ。 -
死ぬほどおもろい。
なんとなく今の世の中に不信感がある人こそ読んでみて欲しい。謎が解けてスッキリする。
自分の答えを出す手助けになる。
正義は振りかざすものじゃなくて、ただ存在してるだけのものなんだよ。 -
ポリティカルコレクトネス=政治的正しさの名の下に、行き過ぎた言葉狩りや差別主義者のレッテル貼りが行われるのを目にするにつけ、何かおかしいと思っているのは私だけじゃないだろう。
ちょっとした言葉尻を捉え、しかも故意に切り取られた言葉をあげつらって、まるで集団ヒステリーのように対象者を社会的に抹殺せんとする勢いで追い詰める人々。
彼らを扇動するものの正体を論じたこの本が、様々な違和感やモヤモヤを明らかにしてくれた。
行きすぎたポリコレに毒された今のアメリカの恐るべき姿に暗澹たる思いとなり、日本は遅れている、アメリカを見習えとばかりにポリコレを煽る勢力に決して踊らされないようにしようとつくづく思う。
多様性という言葉をやたらと使う人たちが、反対意見を頑なに封殺する現状を見れば、自ずと彼らの胡散臭さはわかるもの。まだ間に合う。どうか日本は踏みとどまって欲しい。
マイノリティでないというだけで迫害される、そんなディストピアにならないで欲しい。 -
フランクフルト学派というらしい。「文化マルクス主義」。
資本主義の矛盾から共産革命が起こるはずだったのに、何やうまいこといかんので、資本主義を弱体化しようとした。そのためには、保守の苗床である「家庭」を崩壊させるべき。
もはや労働者は資本家に組み込まれており、「被差別」マイノリティこそが、階級闘争の主体になっていくのである。
こんな発想が「ポリコレ」の根本にあるらしい。
うーん、なるほど。
BLMにしても、かなり組織だった活動が根っこにあって、特に米国は酷いことになっている。
安易な正義感、浅薄な倫理観、原罪感や、贖罪意識をうまーく利用されてるわけだ。それに、残念な人たちが乗っかっている。
もちろん、日本の今の環境も例外ではなく、つか、戦後かなりボコられ慣れてるところから今やっとおかしいやんけ、という運動が立ち上がりつつあるところに、コレがやって来ている。
マスコミと教育と、大半の政治がすでに乗っ取られている。
Xが有料になったら、さらに情報が遮られて、えらいことになりそうな予感。 -
恥ずかしながら、ブレイディみかこさんの「ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー」で初めて”ポリティカル・コレクトネス”なる言葉を知った。
その後仕事でもポリコレについて取り扱ったり、意見を交換する機会があったので、本作の序盤で書かれていること(アメリカではキリスト教でない人への配慮のために、メリークリスマスとは言えず、ハッピーホリデイと言うようになった、など)は、既に知っている知識がほとんどだったが、アメリカの極左化と日本の今後の項については、驚き、呆れてしまった。
こちらの著者・福田ますみさんは、かなり保守的な視点から執筆しているようにも思えて、なかなかニュートラルに読むことは難しいけれど、多文化共生社会を目指し深い考えもナシにLGBT法などに賛成している人は、一度本作を読んだうえで自分の考えを整理した方が良いと思った。
多文化共生社会と他文化強制社会はまったく別物だ。
P.35
カリフォルニア州で結婚式を挙げるなら、式の最中に「夫=husband」と「妻=wife」という言葉を使ってはいけない。なぜなら法律的に禁止されているから。性的に中立な「配偶者=spouse」という言葉がポリコレにかなっている。「夫」「妻」という言葉は、ゲイやレズビアンに失礼だ。
歌手のジャスティン・ビーバーがドレッドヘアにしたところ、批判が殺到した。なぜならドレッドヘアは黒人特有のものと考えられているから。
2017年2月に米国のファッション雑誌ヴォーグが、白人のモデルに日本の着物を着せて撮った写真を掲載したところ、編集部に強い抗議が寄せられた。ポリコレ的には、白人が日本人の着物を着ることは不適切なのだそうだ。
P.62
ポリコレの特徴として、表面的な言葉の言い替えに終始することで、むしろ本質的な問題を覆い隠してしまう欠点がある。つまりポリコレは、本音を隠して偽善的にふるまうことを強いる。
ポリコレを肯定的にとらえていたのは、「進歩的活動家」、つまり左翼活動家だけであることが分かった。
P.95
よく引き合いに出される世界経済フォーラムの「ジェンダーギャップ指数」によれば、毎回日本は3ケタ代の順位に沈んでいる。日本のマスメディアは、毎回この不名誉な数字を好んで取り上げる。いかに男性優位社会で女性が差別されているかを強調するにはもってこいのデータだからだろう。その割には、どういった性格のランキングでそもそもどれほど信頼性があるのか、詳しく解説した記事は意外に少ない。
「ジェンダーギャップ指数」とは、スイス・ジュネーブに本拠を置く非営利財団「世界経済フォーラム」が、政治、経済、教育、健康の4分野について、男女の間にどれくらいの格差があるかを数値化して発表しているものである。
実は世界にはほかにも、「国際開発計画」の「ジェンダー不平等指数」など、さまざまなランキングがある。わが国には女性の国会議員や官僚がわずかしかおらず、女性の首相もいない。民間企業にも女性の経営者や管理職が少ないので、意思決定の場に女性が少ないということになり、それが理由で、日本の順位がかなり低くなってしまう。
だが、他のランキングでは全く違った結果が出ているのである。「国連開発計画」の2020年版の「ジェンダー不平等指数」では、意外なことに我が国は162か国中24位である。こちらは、女性が安全に出産できる環境が整っているかを重視しており、「妊婦死亡率」や「未成年出生率」などの指標が入っている。
P.137
あなたはこう言うかもしれない。ジョージ・フロイド事件しかり、トレイボーン・マーチン事件しかり、ロドニー・キング事件しかり、武器を持たない黒人たちが毎年何人も警官に殺傷されている事実こそが、明白な制度的人種差別ではないか、と。
2019年、1004人が警察官によって射殺されたが、そのほとんどが武装していたか、警察官にとって危険なケースだった。このうち黒人が占める割合は235人で、約4分の1だが、この割合は2015年以降変わっていない。
警察による銃撃は、武装した相手や、危険な容疑者に遭遇する場面が多いほど増えるが、黒人の犠牲者の割合は事実として、黒人の犯罪率からみれば低い。2018年のデータによれば、黒人が全人口に占める割合は13%にすぎないのに、彼らは殺人犯の53%、強盗犯の60%を占める。警察官に射殺された黒人が全体の4分の1というのは、犯罪率から推計される人数より、むしろ少ない。
黒人女性で、トランプ前大統領支持を鮮明にした保守派の若き論客、キャンディス・オーウェンズのツイッターは次のように主張した。
「毎年黒人は、白人に殺される数の倍以上白人を殺している。我々(黒人)は全米の暴力犯罪の85%を占め、すべての殺人事件の50%が黒人によるものだ。事件に巻き込まれて殺害される黒人の90%以上は黒人によって殺されている。にもかかわらず、我々は(黒人が白人に殺されるたびに)それを人種差別だと訴えているのだ」
P.155
今アメリカでは、自分は「クィア」だとか、「ゲイ」だとか、「レズビアン」だとか、「トランスジェンダー」だとか称するのは、クールなこととされているようだ。(日本のファッションオタクみたいな感じか?)
「クィア」と言うのは実に便利な言葉である。もともとは、同性愛者に対する侮蔑後、日本語にすると「ヘンタイ」というようなニュアンスがあったようだが、現在では、LGBTだけでなく、LGBTに含まれない性的少数者をも広範に含む肯定的な総称になったのだそうだ。
自分はレズビアンであるとかゲイであるとか、具体的に名乗らなくて済むので、漠然としたクィアと自称している分には、嘘をついていることにはならない。
P.170
米国の左翼も日本の左翼も、いったいいつまで黒人を、人種差別の絶対的被害者で社会の最底辺であるというステレオタイプに閉じ込めておきたいのだろうか。
ジョージ・メイソン大学特別教授で、保守派コラムニストとしても活躍する黒人のウォルター・ウィリアムズ氏はこう話す。
「私は2011年に書いた「人種と経済学」という本で、米国の黒人社会を1つの国家と仮定した場合、2008年の統計でその国内総生産は世界18位の国家に相当すると指摘した。米国の黒人は、ポーランドやベルギー、スイス、スウェーデンより裕福ということになる。これは目覚ましい進展である。」
P.196
文芸評論家・小川榮太郎氏は、LGBTに対して、欧米由来の概念が胡散臭いと説く。欧米のキリスト教世界で、同性愛者はつい最近まで宗教的異端者とされ、刑事罰の対象であった。イスラム世界ではいまだに同性愛を禁じている。あのイスラム国に至っては、見つかり次第即刻殺害されていたのである。
対して日本では、歴史上、彼らに対してそのような差別は一切なく、かなり寛容であった。その我が国に、欧米のムーブメントをそのまま輸入することへの疑問を呈しているのだ。
ゲイを公表している元参議院議員・松浦大悟氏によれば、「国際レズビアン・ゲイ協会」は国連に加盟するにあたり、これまでともに活動してきた「米国少年愛者同盟」を切り捨てたという。変えられないセクシュアリティを持つという意味では、ゲイも少年愛も同じだそうだ。つまりは、特殊な性的指向のどこまでを公に認めて支援の対象にするか、その線引きが恣意的になされているわけで、LGBTという概念があいまいなままであることがわかる。
ゲイをカミングアウトしているかずと氏も、LGBTのうちTの一部を除いたLGBは社会的弱者ではない、Tの一部以外は社会的支援は必要ないと書いている。
P.220
二次元のキャラクター、たとえばアニメや漫画しか性愛の対象と感じない人たちがいる。これは性的指向だから、自分たちも性的マイノリティに加えてほしいという意見が出ている。しかし、LGBTの研究者は頑なに拒絶したそうだ。
「ペドフィリア」とは「小児性愛者」、つまり、幼児や小児を対象にした性愛、性的嗜好のことである。
「ズーフィリア」とは、動物に性愛感情を抱くセクシュアリティで、感情だけなら問題はないが、獣姦行為となると国によって罪になることもあり、衛生上も問題になる。
「ネクロフィリア」とは、死体に性的に興奮、性愛感情を抱くセクシュアリティで、死体性愛者、屍姦症ともいわれる。
「抑圧すべき性衝動」とはまさに、こうした性的嗜好を指すのではないかと思われる。おぞましく感じるかもしれないが、いずれも性愛感情にとどめておく限り、わが国では問題にはならない。彼らにも人権があり、繰り返すが、「性的少数者」という大きなくくりの中のれっきとした一員なのである。
ツイッター上では、これら3つの頭文字を取ってPZNと称し、「LGBTばかり権利を主張するのはおかしい。PZNも加えてLGBTPZNとすべきだ」という声がある。これは、数多ある性的少数者の中でLGBTだけを政党扱いし、よりアブノーマルな部分を持つほかの性的少数者を排除する現在の欺瞞的な運動への抗議、揶揄が込められている。つまり、自らの「性的マイノリティ性」は「被抑圧者」「被害者」として認知してもらい、保護も受けようとする傍ら、同じ人間が、もっとマイナーな指向の人に対しては、激しく拒否・断罪する歪んだ構図があるのだ。
P.224
北陸地方のとある街に住むかずと氏は40台半ば。一周り年下の相方と暮らすゲイの男性だ。彼は「ホモも単なる男です」と言う。「ホモ」という言葉は最近、差別語ともいわれるが、かれはあえてこの言葉を使う。そして、「私はLGBTとは無縁なホモにすぎない」とも言う。
「気がつけば当事者とは無縁なところに、LGTBなんていう世界が完成していた。一緒に暮らす相方も知り合いの若いゲイたちも、誰ひとり自分をLGBTとは思っていません。同性愛者=弱者、不幸、なんてとんでもない。同性代のノンケが、家のローンだの子供の教育費に頭を悩ませているのに比べると、生活ははるかに楽、ホモでよかったと思います。」
「新潮45」休刊騒動で図らずとも露呈したことがある。テレビや新聞で騒動についてコメントした当事者の多くは、いわゆるLGBT活動家であり、その主張は必ずしも、普通の性的マイノリティの本音を代弁してはいないということだ。それどころか両者の間には深刻な断絶があり、活動家嫌悪という感情さえ生まれている。
P.227
LGBTの当事者の方たちから聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいといいます。
P.234
ゲイは、LGBTと分類される性的マイノリティの中で多数派である。一方で、レズビアンコミュニティは、ゲイコミュニティよりもかなり小規模だ。ゲイとレズビアンを比較すると、それはそのまま男女格差の問題にもなる。つまり、ゲイの男性二人で暮らせば経済的に余裕が生まれるが、女性同士で生活を支えるとなると、男性同士より厳しくなる現実がある。そうした経済上の問題もあり、レズビアンはフェミニズム運動に近づきやすい。その結果、ゲイは政治的に比較的穏健だが、レズビアンは先鋭化しやすい傾向があるようだ。
P.243
「トランスジェンダーという言葉は、アンブレラタームとされ、性同一性障害ですでに性別適合手術を受けて戸籍の性別変更も行った人から、同様に性同一性障害でありながら、持病があったり体に与える影響を考えて、ホルモン治療や手術が選択できない、あるいは選択せず、生まれたままの体で過ごしている人、さらに、単なる女装化、オナベ、ドラァグクィーンまで含まれます」
つまり以前は、トランスジェンダー=性同一性障害という理解だったが、現在はトランスジェンダーという抗議の概念の中に性同一性障害が含まれるという解釈である。
「彼ら(LGBT活動家)はトランスジェンダーの権利を訴えていますが、いかにも性同一性障害で生適合手術を終えた人の権利保護を主張しているように装いつつ、その中には単に、トランスジェンダーを自称する女装家も含む場合があります」
P.261
本事件(=一橋法科大学院生、アウティング転落死事件)を契機に、国立市がアウティング禁止条例を施行した。この動きを受け、その後、岡山県総社市や東京都豊島区、港区など、全国のいくつかの自治体でも同様の条例を導入する動きが続いた。2021年4月には、都道府県レベルでは初めて、三重県が、アウティングの禁止などを盛り込んだLGBT差別禁止条例を施行した。
だが、この条例については、実は当事者の側からも反対がある。なぜなら、性的少数者がそのことをノーマルな友人に告白したとして、告白された側は、その秘密を誰にも漏らしてはならず、極端な話、墓場まで持っていかなければならないのだ。それは大変な重荷だろう。だからこうしたリスクを孕んだ相手とは距離を置きたい、避けたいと思う気持ちがより強く働くようになるのも無理からぬことである。
当事者たちは、自分たちがますます腫物扱いとなってしまうことを恐れているのだ。
P.277
LGBTの当事者、および支援団体がしきりに主張する差別の事例については、現行法でも十分解決可能だと井上市議は言う。(パートナーの入院時の付き添いや遺産の相続などは、公正証書を作成・提出すれば問題は解決する)
本来こうした政策は、支援する対象の市民が具体的に存在して初めて決定され、議会に提出され、議決されれば予算がつき、税金が投入される。支援すべき対象がいるのかどうか不明なところに、どうやって予算をつけるのだろうか?
「圧倒的多数の市民は、児童虐待や難病支援、防災対策、医療、介護の充実など、他に優先的にやるべきことがあると思っているんじゃないでしょうか」
税金が投入される異常、より緊急性の高い問題から手を付けることは当然だ。国政と違い、住民により近い地方行政の場合は、なおさらである。
P.282
いくつかのアメリカの州では、自称トランスジェンダーの少女が、自分は性自認が男なのでホルモン治療を始めたいと言えば、患者主体の医療がまかり通ってしまう。驚くべきことに治療の内容は親にまったく知らされず、介入も許されない。ある日突然「自分は男だ」と言い出した娘に対し、保護者が「それは気の迷いよ」とうっかり反論すると、保護者はトランス差別者とみなされ、娘から強制的に引き離される。
近年、米国では、このような性的違和を訴える少女たちが急増している。しかし、熱狂の季節が過ぎ去り、我に返ると、男性になった少女たちの多くが深く惟男を後悔するようになるという。そして、実にその約8%が元の性別に戻る手術を受けるそうだ。 -
3.81/97
『正義の名のもとに、過激化し暴走するポリティカル・コレクトネスで社会はむしろ「新しい不平等」ばかりが生まれている!?
ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ=ポリコレ)という正義の名のもとに、新たな次元の支配システムが、アメリカを、そしてこの日本を蝕んでいる。BLM、LGBTQ……「人種差別やジェンダーによる差別をなくし、多様性を認めよ」という掛け声のもと、「新しい正義」が謳われ、その正義の基準に沿わないものは、全メディア総出で、逃げ場なき集団リンチのごとく手酷く批判され、社会的に抹殺される。
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多様性とは、自らと違った立場の意見を尊重し、相互に認め合うことのはずなのに、逆に「不寛容」ばかりが増し、企業も学校も社会も息が詰まっていく。ポリコレ先進国・アメリカの悲惨さを見よ。非キリスト教徒に配慮するという大義名分のもと、すでに「メリークリスマス」という言葉は奪われ、性差別への配慮として、「お父さん」「お母さん」も公式の場では使えなくなってしまった。カリフォルニアでは、LGBTQに配慮するため、結婚式の際、「夫」とも「妻」とも言えないのだ。狂気だ。
日本は1日も早く先行するアメリカの過ちに気づき、本当の自由と平等を取り戻す努力を始めなければいけない。「機会の平等」でなく、「結果における平等」を保証することは、「新たな不平等を創造」するだけ。そこには絶望しかない。今や、日本の学校では「あだ名」をつける事さえ、一律に禁止されようとしている。「言葉狩り」や「#MeToo」、「マスク警察」や「ワクチン警察」、「お母さん食堂」へのいちゃもんなどに代表される動きが、今後さらにエスカレートし、モンスター化し、一方的なレッテル貼りをすることで、人々のつながりが分断され、冤罪事件を生んだり、暴力や殺人など、新しい深刻な差別を生む日も遠くないのでは、と不安を感じている人も多いように感じられる。
忠実で丹念な取材力を基本に、多くのノンフィクション作品で高い評価を得てきた著者が、「ポリコレ」という新たな敵の正体を見出し、追い詰めていく。現状のまま進めば、日本もジョージ・オーウェルの『1984年』のような全体主義管理社会というディストピアにどんどん近づいていく。なんとかそれを阻止したいとの強い思いが本書を書かせた。』(「方丈社」サイトより)
冒頭
『 まえがき
「北朝鮮は本当に狂っていた。でも、このアメリカほどではなかった」
これは13歳の時に母親とともに北朝鮮を命懸けで脱出し、壮絶な経験を重ねながら米国に渡り、アイビーリーグの名門・コロンビア大学に入学した、パク・ヨンミさんの言葉である。』
『ポリコレの正体』
著者:福田 ますみ
出版社 : 方丈社
単行本 : 288ページ
ISBN : 9784908925863 -
かなりいかがわしい言葉「ポリコレ」や「BLM」。こんなのに騙されないように生きていくために必須な本だ。
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よくわからん、難しい、面倒くさい、という感想を持ってしまう理由がこの本でよくわかった気がする。