- Amazon.co.jp ・本 (286ページ)
- / ISBN・EAN: 9784909242068
作品紹介・あらすじ
アメリカ・アイオワ大学に世界各国から約30名の作家や詩人たちが集まり毎年行われる約10週間の滞在プログラム「インターナショナル・ライティング・プログラム(IWP)」。そこに参加した小説家・滝口悠生が綴った日記本。お互いをほとんど知らないまま集まった各国の作家たちが、慣れない言語や文化の違いに戸惑いながら、少しづつ変化していく関係性の機微を書き留める。『新潮』連載「アイオワ日記」を改題。大幅な加筆修正とともに複数の媒体で掲載された関連原稿も集約しました。
感想・レビュー・書評
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図書館から「予約本が届きました」と連絡が来て受け取ってみたものの、なぜこれを読もうと思って予約したか、すでにあまり覚えていなかった。
本書は著者の滝口悠生さんが、アイオワ大学で開催されるIWP(インターナショナル・ライティング・プログラム)に参加した時の日記である。日記と書いてあるから、当たり前だけど、滝口さんのアイオワでのあれこれが綴られていて、読みたい本が山とあって時間が足りないのに、なんで私は人の日記なんか読んでるんだろう、と思いながら読んだ。
滝口さんは、そもそもこのプログラムになぜ呼ばれたかよくわからないまま参加し、わからないまま日記を本にしたというところが面白い。前年度参加の作家さんも、一通のメールがきて、それで参加したらしい。色んな国から作家が集まる中、英語がままならない滝口さんは、それでもなんとか約10週間をアイオワで過ごしたんだから、もうそれだけですごい。そりゃ、ただの日記とは違うわ、と思った。海外で奮闘する話を読み聞きするたびに痛感することは、私にはこういう経験がなさすぎる、ということ。言葉だけでなく、習慣やマナーや考え方、感じ方が違う人たちと混ざりあって生活して、大いに苦労する、ということを若い時にしたかったと、歳をとるにつれ強く思う。
この日記の中で、当然だけれど、滝口さんとプログラムを共にしたライターたちの名前がカタカナでたくさん出てくる。私が語学が弱い一因だと思うけれど、とにかくカタカナの名前が全然覚えられない。本書がぶ厚かったのと、時間がないのとで、ななめ読みになってしまったことも良くなかったのだけれど、名前が出てくるたびに、この人どこの国の人だったっけ、とあやふやな記憶で読み進めてしまった。反省。
途中、滝口さんが雑誌かなにかに投稿したチャンドラモハンというインドから来た詩人についてのエッセイが掲載されていて、そこにこんな文章がある。
「・・・私たちはやがて別れて、多くのことを忘れる。私はチャンドラモハンと、その他の作家たちと、やがて忘れてしまう私たちの過程の、途中にいまいる。」
あ、これだと思った。私がこの本が気になって図書館で予約したのは「やがて忘れる過程の途中」というタイトルがいいなと思ったからだった。なんか、端的に「暮らし」とか「生活」とかもっといえば「人生」を表している気がして。私たちは忘れたくなくても忘れてしまう。どんなに書き留めても忘れてしまう。それでもいろんな経験をしていく。「忘れる」ということは救いでもある。あぁ、そうだ、私たちは常に「忘れる過程の途中にいるんだ」となんだか壮大な思いに浸った。
ところで、本書の感想ではないけれど、アイオワ大学はアイオワシティ全体がキャンパスのような状態らしく、つまり日本と違って、町全体に大学のキャンパスや施設が点在していて、ここからが大学の敷地ですよ、というような作りではないらしく、これはオックスブリッジなんかもそうだという認識なんだけれど(合ってるのかな?)、それっていいな、と思った。単純に比較すると日本の大学はなんとなく閉鎖的だし、大きな大学ほど、広大な敷地を確保しようとして、少し便が悪いところに引っ込んで、本来、もっと密着すべき都市や一般市民から離れてしまう傾向がある気がして、なんとなく淋しいな、と。一概にどちらが良い悪いではないかもしれないけれど、そんな大学で大学生活をエンジョイしてみるのもよかったな、と。
それから、滝口さんが日本語で読み書きする私たちは恵まれているという気づきをされていて、それは私にとっても新しい気づきだった。滝口さんが英語が苦手なのにこのプログラムに参加できるほどのサポートがあるということもその気づきのひとつだけれど、日本語に翻訳されている世界の本は多い、ということに、あぁそうなのか、と思った。他国からの参加者が古書店で英語の本を買い漁る様子を見て、滝口さんは、彼らがそもそも英語で本が読めるのも、読みたい外国語の本が自国の言語に訳されていない場合が多いという環境が背景にある、と気づく。私は日本人作家さんの本ばかり読むから実感としてはそんなにないけれど、そうか、日本語になっている外国語の本は多いのだなと思った。(ちなみにうちにある絵本は圧倒的に外国のものが多いです。もちろん翻訳されたもの。)
プログラムの終わりになるにつれ、参加者との別れを惜しむ気配が濃くなり、ななめ読みしていたわりには、なんだか私まで無性に淋しい気持ちになった。あの人とあの人には地理的にもまた会えるかも、でもあの人には・・・みたいな記述になるともう、なんかアイオワが懐かしい気にさえなってきた(行ったこともないのに)。
ということで、結構楽しめました。
軽いタッチの日記が続くかと思いきや、途中途中、滝口さんの深い思考がさらっと入っていて、急にはっとさせられたりします。ななめ読みが悔やまれます。(とりあえず返却せねば。)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「茄子の輝き」を読んで面白かったことと、インタビューで、滝口さんの温和だけれど自分の意志を持った生き方を知り、滝口さん自身に興味を持っていました。
そんな中、およそ30カ国の作家が3ヶ月間、アイオワで共同生活を送るプログラムに滝口さんが参加されるというこの本の概要を知り、あの飄々とした滝口さんがこのプログラムでどんな日々を過ごしたのかとても知りたく、読んでみました。
私の個人的な留学経験から、日本人は諸外国の非ネイティブの学生に比べて、英語を話すのが不得手だし、欧米の音楽やドラマのカルチャーにも疎いです。そして、海外の学生は性格に関わらず、物おじをしません。(もちろん個人差はありますが。)そこで自分も含め、初日から意気投合する諸外国の学生に引け目を感じ、異文化体験が苦行となることが多くあると思います。
滝口さんもご自身でおっしゃるように、他の作家さんたちに比べて英語が不得手で不安だったし、深い会話が中々できなかったと書かれていました。けれど、滝口さんには、強い意思があり、物おじもしにくいようで、自分の興味の興味のあること、ないことに素直に動き、周りに質問し、答え、作家たちととても友好な関係を築いていきます。バーに行く、コンサートに行く、街を歩く、お馴染みの店でご飯を食べる仲間がいて、互いの仕事の話、国の制度、歴史、映画、文学などについて幅広に語り合っています。書かれていないだけかもしれませんが、誰かに追従して、そのコミュニティで自分の居場所を作ってしがみつきたいという姿勢が見られませんでした。日記には他の作家との関係性、アメリカでの生活が加工なく書かれていて、とても面白かったです。
率直さも自分の考えも曖昧な自分にとって、行けない世界を見せてくれた作品でした。 -
面白かった。
友人の薦めで、滝口悠生を知る。
とりあえず、ブクログで人気の高かったこの本を手に取る。
この本で作者の名をユウショウと読むことも初めて知る。
各国の作家が集まっていろんなイベントを行う三カ月にも渡る、アイオワでのプログラムIWPに参加した様子が日記の形式で語られる。
古くは中上健次も参加し、近年では、柴崎友香、藤野可織も参加しているらしい。(この中では、私には、藤野さんだけ最近はじめて読んだが、ほかの作家は名前しか知らない作家である。)
あまり英語がわからないまま、参加し、当初は他の国の参加者ともなんとなくしかコミュニケーションがとれない滝口さんが、3ヶ月を経て、次第にお互いにいろんな感覚を共有し、理解する努力を持ち、仲良くなっていく様子が詳細に記されていて面白い。
人とのことだけでなく、アイオワの大学都市との付き合い、生徒たちとの授業や、ほかのさまざまな文学や言葉、映画などの学びが日常を過ぎていく。
滝口さんの飾らない、率直な表現が心地よかった。
その中で各国の作家との、その人柄やバックボーンを知りたい、言語や文学を通して何かを感じ、伝えたいという気持ちが感じ取れた。
たくさんの人が集まれば、いろんな摩擦もあったはずで、それも年齢性別民族も違うなか、3ヶ月も共同生活をするのだから当初のストレスは大きかったはず。
家族が恋しい、食べ物が合わないなどの声は最初から聞こえるうえ、滝口さんだけが英語があまりわからないので不安な様子が多かったが、上達しつつも、わからないことはわからないままで生活していくことに慣れていく。
プログラムのあとにもう一度会えそうなひと、二度と会えないかもしれないひと、きっちりした情報を提供してくれる人、いつもアバウトな人、ほどよくみんなと付き合う人、1人が好きな人、など、まるで一つのクラスのなかでだんだんグループが形成されるよう、との表現。
バイサ、カイ、チョウ、モハン、アリ、アラム、ジャクリーン、アウシュラ、はじめはただの名前と出身国の羅列だった彼らも、私の中で鮮やかに姿をとりはじめる。
最後の二週間ほどは、私まで彼らとの別れが寂しくなってしまった。
各国の出版事情の違いが面白い。みんなで作品賞の賞金を話題にしたり。笑。
古本屋でみんなが目の色を変えて本を買い漁る様子を見て、自分は恵まれていると思ったと滝口さん。
日本では翻訳文学がさかんで、各国の大作はいずれ翻訳されてたいてい読むことができるが、他の国ではそうはいかない。
英語で読むしかないものも多く、アメリカでさらに他国の本を英語で買えるのが貴重な機会になるのだ。
英語を学ぶことと、文学が密接に関わっている、と知る滝口さん。
誰かの誕生日のたびにパーティがあり、あたりまえのようにダンスをする人々がいる。
総じて東アジアの男性陣はダンスが下手、とのくだりで笑った。私もできないけど。
滝口さんが往年の洋楽が好きだったこと、お酒が飲めることはすごくプラスに作用してるなあ。
いろんなものを共有できたはず。
この本で思い出したのは、ガンビア滞在期(庄野潤三)。
小さな大学都市で、周囲の人や小さな店を開拓しながら生きていく様子を思い出した。
今はSNSやメールの発達で、このプログラム中も、終わった後も、庄野のころに比べれば、簡単に文章や写真でコミュニケーションがとれるので、そこは素敵だなと思った。(ヒアリングが即座にできなくても情報を取り戻せるし、知らない単語もすぐ調べられる。)
コロナ以降はまた世界がかなり変化したはずだけど。
表紙の絵はなんだろう、と思っていたけど、ラストのニューヨークのアラムの逸話でハッとさせられた。
女性の膝に置かれた拳を見てしまう。
付録に、街の地図や、柴崎さんとの対談があって面白かった。
IWP関連の本をまた読んでみようと思う。 -
アメリカのアイオワ大学の、世界各国からライターが集まるプログラムに参加したときの日記、っていうことで、アメリカかぶれとして、あと、数年前に同プログラムに参加した柴崎友香さんの滞在記「公園に行かないか、火曜日に」がおもしろかったので、読みたいとは思っていたんだけど、著者のことを知らなくて作品も読んだことなかったので買っていなかったんだけど、書店で実物を見た瞬間、ペーパーバックのような大きさでかつカチッとかたい感じの本の体裁になにかものすごく惹かれて、ガッと本をつかんで即買ってしまった。本の形に惹かれて買うとかってあんまりないんだけど。
で、読みだしたら止まらなくなった。
別にハプニングとかおもしろいことが起きるわけでもなくて、まあ、いろんな朗読会とか勉強会とかパーティとかイベントはあるんだけど、そうした日程を、著者が英語があまりわからないままに、不安になったりしつつも、淡々とした感じですごしながら、ほかの各国のライターたちと少しずつ親しくなっていく、っていう日記なんだけど、すごくおもしろく感じられて。いつまでも読んでいたかった。
みんなが大人のそつのない社交性とかでどんどん親しくなっていくような雰囲気ではなくて、静かにゆっくり互いを観察しながら距離を縮めていく、みたいな感じがすごく好きだった。英語が母国語じゃない人が多いからってこともあるのかもしれないけど、もしかしたらライターだからよく観察し、安易に言葉を発しない、みたいなことなのかなと思ったり。
英語があまり得意でない著者が、理解できていないんじゃないかとか迷ったりためらったりしながら、話したい、相手の話をききたい、知りたい、理解したい、と思うのがよくわかって共感できるというか。
読んでいて、すごく人と話したくなった。こんなふうに学生のころみたいに時間の制約もなく、社交辞令ぽい会話じゃなくて、日常のなかで食べたり飲んだりしながら夜遅くまでとかしゃべりたい、と本当に強く思った。
すごく好きだったところがあって、それは、親しくなったメンバーで夜出かけて、お店に入れなかったりなんだりあってすごうくうだうだして、本心ではもう帰りたいなと思いつつ最後までつき合うはめになったときに、台湾から来ているライターに、こういう感じでみんなにつき合ってしまうのは日本や台湾の文化的なものがあるよね、と心のなかで話しかけるところ。そして相手もきっと内心で同じことを思ってると思うところ。この「心のなかで話しかける」っていうのがなんかよくて。
こういう黙っていてもわかり合える感じ、しゃべらなくても一緒にいられる感じ、っていうのもちょくちょく出てきて、そういうここちよさが、読んでいても多くの場面で感じられた。
プログラムが終わってみんなが別れていくところは、読んでいて泣きそうになるほどわたしも寂しかった。 -
どこか他人事のように淡々とした語り口調が続くかと思えば、一気に思考の根底に引き込まれる瞬間があったりした。自分とは違う目線で物事を考える方のようなので、とても新鮮な気持ちで読み進めることができた。
『ここに来るまで全然知らなかったひとに、これまで生きてきた時間があり、何事か考えたり志したりして、勉強をし、そのひとがものを書くひとになった、そういう時間と歴史があったことを知って、感動する。』(作中より引用)
国籍も母語も違う人々と共に過ごす数ヶ月間は予想外の連続だっただろうし、この日記では語られなかった出来事がたくさんあったかもしれない。でも、たった一つの共通項「文学」でつながる彼らの生活がなぜかとても愛おしく感じた。
滝口さんの2年前にIWPに参加した柴崎友香さんも、このプログラムをもとにした短編小説『公園へ行かないか?火曜日に』(新潮社)を書いているそうなので次はそれを読んでみる。
▼先日開催されたお二人のトークイベントの記事を発見。開催場所、地元だ……もっと早く本読めばよかったなあ。
【柴崎友香×滝口悠生 作家が街に滞在するということ】
https://kangaeruhito.jp/interview/13065 -
世界中から集まった作家たちが約3カ月間のプログラムを過ごすIWPに参加した滝口悠生さんの日記。
朗読会に参加した、原稿を書いた、散歩した、呑んだ‥。
作家の日常が、こんなに面白い読み物になるとは。
何気ない描写、思ったこと、感じたことが、なんだか沁みてくる。 -
この不思議なタイトルは作中の
「私たちはやがて別れて、多くのことを
忘れる(中略)やがて忘れてしまう
私たちの過程の、途中にいまいる」
という文章がもとになっています。
アイオワ大学の著述者を集めた
宿泊研修に参加したときの日記。
前に同じ企画で読んだ
『日本語が滅びるとき』の水村さんは
翻訳を介さないと
日本語の文学が読んでもらえないと
嘆いていたけれど
滝口さんは翻訳のおかげで
日本にいながらにして
世界の文学が気軽に読める環境にある
ということに参加して気がついたと書いてました。
気楽に留学日記としても読めるし。
つい固まってしまうアジア人
他人を気にかけてくれる人
まったく無頓着な人。
人種によるもの、よらないもの
各国の事情が形成するもの。
普段は言わないような発言が
英語だと抵抗なく出てくるのは
コミュニケーションのツールとしての
英語の特性なのか。
そんなことを考える日々。
次は誰が行って、何を感じるのでしょう。
まず、柴崎さんの記録から読んでみようかな。 -
2018年にアイオワ大学の「International Writing Program」に参加した滝口悠生の「日記文学」。
IWPに参加した経験を著した作品としては、恐らく水口美苗の「日本語が亡びるとき」が有名(彼女は2003年にIWPに参加した)。中上健次も参加して著書を書いている。近年では2016年に参加した柴崎友香が「公園へ行かないか?火曜日に」を発表している。
ほぼ英語ができない状態で、見知らぬ各国の作家たちと過ごす日々。あまりにも聞き取れぬ英語、参加者の多様な思考と文化、酒、飯、土地。
滝口悠生の著作は実は初めて読んだ。柴崎友香の「公園へ行かないか?火曜日に」の対比として手に取っただけれど、柴崎友香のそれが「私小説」の色合いを帯びるのに対し、こちらはもう純然たる日記文学である。途中から敬称が消えたり。呼び名が変わったり。取り止めのなさが突出している。
本人も書いているが、非常に持って回った(極めて日本的な)文体で綴られるその文章の、語られない部分に思いを馳せる。日記に書かれない余白、隠されたコミュニケーション。美しい文体ではない。ただ、そのストレートでなさが、美しく感じる。紛うことなき作家の日記。
そして世界各国の作家たちの個性。強さ、寂しさ、孤独。日本人である著者はspoilされているという指摘。こういうところで、日本のカルチャーってなんだかんだで恵まれているのだなあ、と思ったり。
最後の旅行の描写が重たくなるのは、柴崎友香と全く同じで興味深かった。 -
記録