小説を映画化する場合、必ずしも小説に忠実である必要はない。
しかし、絶対に変えてはいけない部分というのは必ずある。
信念のようなもの。これを訴えたくて筆者が筆を取ったテーマのようなもの。
ゲド戦記の原作は5巻からなる。
1巻は既にテレビドラマに使われていて使えない。
ジブリは3巻をメインに話を作るという。
それが公になったとき、ネットなどでは
『美少女を出して空を飛ばなきゃ気が済まないジブリなんだから
きっとテルーも竜も出すに違いない』
と話題になっていた。
残念ながらその予想が事実になり
寧ろ予想以上の駄作となってしまった。
原作者が激怒するのも無理はない。
これではまったくゲド戦記ではない
世界中の原作ファンに対して失礼極まりない出来。
アニメとしても色がどぎつく作画が汚く
ストーリーも意味不明でしりすぼみの自己完結で、成り立っていない。
確かにゲドの魅力は過ちを犯してしまう1巻、
それを乗り越えて人を助ける2巻、
と経て、やっと死力を尽くして世界を救う3巻に至るので
3巻だけとりあげて作るのは難しいことはわかる。
だが、やりかたはいくらでもあったはずだ。
小説を本当に読んだのか、面白いと思ったのか疑ってしまうほどの
吾朗氏の作り方なのである。
映画を見た人全員にゲド戦記の1~3巻を無償提供すべきと
半ば本気で思う。でなければ、アーシュラの傷つけられた魂はどうなるのか。
ほとんどはシュナの旅をモチーフに作っている、とまで言ってしまうくらいなら
最初からゲド戦記ではなく、原案シュナの旅のオリジナル作品として
作って発表すればよかったものを、なぜ世界的名作を捕まえて
貶めるような真似をしたのだろう。
amazonのレビューで犯罪、日本の恥とまで酷評されていた方がいたが
私も全く同意見である。
以下、詳細について論じる。
そもそも3巻の『さいはての島へ』というのは
エンラッドの王子アレンが世界の異変に気付き、大賢者にお伺いをたてに
ロークの魔法学院に訪ねてくる物語である。
1、2巻で活躍し、若気の至りで失敗もしたゲドが大賢人となり、学院長を務めている。
学院のある島は非常に幻想的なところで、それにみとれている内
ハイタカと出会い、国許だけでなく世界全体の均衡が崩れつつあることを知り
その原因究明の為にハイタカとふたり、アレンは船旅に出る。
その旅路で、魔法はおいそれと使っていいものではないことを学び
ハイタカを尊敬し、ついに辿り着いたさいはての島で生と死を隔てる石垣を見つけ
実はこの石垣にクモが穴をあけていて…
というのがあらすじ。
けして、突然無意味に父親を殺したアレンが逃亡中に会ったおっさんと旅をして
情婦の家に転がり込んで、農作業を手伝わされて
小生意気な少女の歌をきいて何故か心が洗われて
急に仲良くなって、悪役を倒して国に帰って処刑されることにする、と決める物語
ではないわけなのだ。
そもそも、キャラデザからして酷過ぎる。
ジブリが描く王子なので、アレンはまぁ良しとするが
ゲドの傷とテルーの火傷の痕は物語上非常に重要であり
直視できないほどひどいものでなければならない。
当然子供向けアニメでそこまで描けないのはわかるが
あれではただシミやアザになっているだけで、傷跡にすら見えない。
ただでさえ3巻のゲドはラストシーンまではサポート役という感じで
1、2巻のように派手な活躍はしないのに
あれではただの肌の汚いおじさんにしか見えず、魅力の欠片もない。
アーシュラのこだわりのひとつが、ゲドたちは有色人種であるということで
テレビドラマ版も約束を破り白人を起用したことで彼女の怒りを買ったが
ジブリもまた同じ轍を踏んでいる。
(この点に関して、黄色人種から見ればあのゲドの肌の色でも
有色人種に見えると聞いた、とアーシュラは一応の納得をしてくれているのだが)
3巻メインではおじさんと王子の延々船旅なだけなので
吾朗氏はこのままやってもつまらないと思ったようだ。
その考え方も既に原作を全く読み込んでいないし、リスペクトもしていない。
つまらないなら映画にしなければよかったものを。
つまらないので、船旅は全くなしにして、4巻以降で出てくるテルーとテナー
しかも2巻のエピソードはとってつけた「墓所にいると昔を思い出す」程度の台詞だけで
全く描かれていない為、あれだけの物語の主人公であったはずのアルハも
ただのおばさんとして無意味にテルーの母ポジションでいきなり出されてしまい
彼女の家にころがりこむという、よっぽど動的でなくつまらない展開に変えてしまった。
どころか、石垣の穴による世界の異変を、鬱屈した若者のストレスとイコールにしてしまい
「もうこれ以上我慢できない。なんでそうしたかわからないが父親殺しをする」
という吾朗氏の考え方から、突然のっけから父親を刺す(吾朗氏の考える)現代の若者に、
王子であるアレンは仕立て上げられてしまう。
更に、農作業をしながら「ゲドのようなおじさんに諭されて回復はできない」
だからテルーが必要だった、という、
ならなぜに『ゲド戦記』なのだ
とつっこみたくなるような考えから、テルーは登場しゲドはただのおっさんにされてしまう。
本当はアレンは前向きでゲドを尊敬する少年なのに、吾朗氏の思う若者は
「積極性が無く後ろ向き」だそうで、アニメにあたりアレンは性格も改竄されてしまった。
しかも吾朗氏はラストについて
「原作では世界のバランスが崩れているのは、
クモという魔法使いがあの世とこの世の境にある扉を開けたせいではないかと。
それを塞げば均衡は戻るという書き方。でも、それはないだろうと感じたんです。」
と、原作に納得がいかなかった、だから変えたと発言している。
ここまで原作に納得がいかなかったのなら、なぜ原案シュナの旅のオリジナルで
作らなかったのだろうか?
原作者と原作ファンを馬鹿にしているとしか思えない。
そこまでして訴えたいことは、
「最近の若者は無気力で消極的でやる気が無く、ふいに人を殺したりして
結局その罪を反省することもあるかもしれないが、処刑されます」
というのがこのジブリ版ゲド戦記なのである。
大賢人ハイタカが旅に出て、魔力の全てを投げ打って世界を救うのに
「それはないだろう」と言うのは、物語がちゃんと読めていないし
ハイタカの偉大さや素晴らしさがわからず、尊敬の念もまったくないという証拠だ。
だから物語が意味がわからないし、訓戒も安っぽく
取り敢えず竜だったり、不思議で変わった女の子に安易に頼ってしまう。
クモがただの悪役になりさがり、なぜあんなことをしたのかがまったく描かれない。
奴隷狩りについても唐突で、なぜあんなことが行われているのか説明がない。
原作の竜というのは偉大な存在である。
人は言葉を喋り、嘘をつくが
動物は言葉を喋らず優しく寄り添う。
しかし竜は言葉を話し、かつ嘘をつかない。
なのに安っぽくのっけから竜が出て、しかも共食い。
魔法学院の描写や世界の異変は台詞で誤魔化して描かれず
突然アレンが父親殺し。
魔法を使わない大賢人が、逃亡中の犯罪者を魔法で助け
開始10分間我慢して見ても微塵も原作と被る部分がない。
大体、アレンが既に侵されていたら 全て話にならないのに
なぜ原作通り、アレンが世の中をなんとかしようとして ゲドを訪ねないのか。
余りに酷い展開なので、ハイタカがよもやまさか
ゲドだと普通に名乗るんじゃないかと思ったほど劣悪だった。
とってつけたような奴隷が連れられていくシーンも、あれでは
ゲドよりナウシカ(漫画版)でケチャがユパに止められるシーンを思い出す。
人殺しのアレンが人が商品だなんて、と言いだしても説得力が無い。
アレンとハイタカの旅が描かれず何の思い入れもないのに
奴隷、そしてハジア云々言われても意味がわからない。
そして何故だかポートタウンにテルーがひとりでいる。
捕まったアレンを、またしてもゲドが魔法大安売りで使用し助けに来る。
そして向かうのが何故かテナーの家。
いきなりテルーとテナーを出されても、このふたりが背負っているものについて
全く描かれておらず、意味がわからない。
奴隷狩りがクモの家来というわかりやすいチープな設定で
何故かハイタカとアレンがクモに狙われることになる。
「私をいじめに?この子を殺しに?」
このテルーの台詞は笑うしかなかった。酷過ぎた。滑稽だ。
原作のテルーが聞いたら激怒するだろう。
テルーはこんな自己中心的で、命懸けで助けられても礼も言わず
自意識過剰で被害妄想な幼稚な小娘ではけしてない。
延々と続く旅。
ゲドの原作もそうだが、所謂ファンタジーというもの、
指輪物語や、ファンタジー系ゲームに至るまで
武器も食料も水も馬もマントも無しで旅をする者などめったに出てこないのだが。
そのあたりも全く描かれない。長い旅の苦労も全く伝わらない。ファンタジー冒険活劇において重要な点にもかかわらずだ。
たとえばラピュタでは目玉焼きののったパンとナイフ、ナウシカでもチコの実や鎖帷子あったのにである。
自由の重み。
魔法が完全なものでないこと。
結局は全て人に託されるということ。
これを語った2巻の主人公とも言えるアルハはどこ行ったのか。
ただのおばさんでゲドの女にしか描かれないことが不憫すぎる。
魔法は簡単に使えるものでも、使って良いものでもない。
これと同じくらい重要なのが、誠の名についての話なのだが
これについても殆ど描かれていない。
重みも全くない。
すっかりただの、悪い人を正義の味方がやっつける話になっている。
闇が単なる駄目な物にされて、それに冒されて父親殺しをしたことになって、
ゲド戦記の重要なところがなにも語られていない。
ただのプライド、恨み、醜い悪役にされたクモ。
テナーとテルーはただ女性成分補充で、肝心のゲドが役立たず。
世界を救うはずのゲドが。テナーとよろしくやっているだけ。
竜が出てきて、なぜかあっさりクモが燃え尽きる。
償いの為に国に帰る、と軽く、父親殺しの意味が無い。
(意味はないし理由はわからないものを吾朗氏が描こうとしていたらしいので
そういう意味ではとてもよく出来たアニメなのかもしれないが。)
そしてこんな中途半端なところで終わってしまう。
ほのかなテルーへの恋心。しかしアレンは国許に帰って自首し処刑される。
このどこが『ゲド』の『戦記』なのか。
ハイタカ=ゲドときちんと語られたようにも見えない。
アーシュラが懸命に、風景と歌はイメージ通りだったとか
優しいことを言ってくれているが
結局彼女の言う通り、これはアーシュラのゲド戦記ではなく
『吾朗氏の映画』に過ぎない。
ゲド戦記の欠片もないのに名前を引用した、同人誌未満の作品を
ジブリの看板をかかげて無理矢理嘘をついて契約した詐欺師が
金をかけてプロを名乗って作って公開し、原作ファンの怒りを買い
読んでいない人も意味がわからない、というものになってしまった。
こんなものを作ってておいて、どの面下げて作者に会えるのだろう。
彼女の家に招かれた時の振る舞いから考えても
やはり恥知らずなのだろう。
ジブリという名前に溺れているのだ。
プロがプロに対するリスぺクトもなく物を作ればこんな最低なものになる。
しかし、ジブリの威光があるから罰せられず、面白いという人まで出てくる。
こんなやり方でプロと名乗って映画を作れるなら
プロを目指して必死になっている良い仕事をしている人たちはさぞかし悔しいだろうとさえ思う。