文庫本900ページに及ぶ原作。それを尺135分の映画にまとめている。その分非常にテンポがよく、かつわかりやすい。にもかかわらず内容が希釈された感じがしない。
ここでは原作から省かれたり改変された箇所、あるいは映画用に新しく付け加えられたエピソードなど、つぶさに見ていくことにしよう。
1.
■映画の方は始点が赤ちゃんガープで、そこから時間軸に沿って一直線に物語が進む。
■原作は、作者がガープとジェニーの人生をふりかえり、そのあいまに二人が残した著作の一部を引用しながら伝記風に話が進められる。
2.
■映画では一貫したテーマとして、ガープの空を飛ぶことへの強い憧憬が描かれる(オープニングの空を飛ぶ赤ちゃん、深夜ベッドから抜け出して屋根にのぼる、子供のとき書いたらくがき、夜ライトを消して車を走らせる、そして最後のヘリコプター)。
■原作にこのアイデアはない。
3.
■映画ではオープニングとエンディングでビートルズのWhen I'm Sixty-Fourが、劇中で何度かナット・キング・コールのThere Will Never Be Another Youがでてくる。クラリネット、サキソフォーンが活かされた控えめのBGMとともに非常に印象的である。
■原作では、ウィーン時代のガープがオペラに行くシーン、脂肪シチューの葬式での曲の話があるが全編を通して音楽は全然聴こえてこない。
4.
■映画には出てこないが―――、
■原作ではジェニーの兄たちやフィールズ家の家業にもふれられる。
5.
■映画には出てこないが―――、
■原作ではジェニーが痴漢に大けがを負わせて撃退するエピソードがある。
6.
■映画ではガープの父親は瀕死のけが人で、”Gaarp”は彼の断末魔のうめき声である。
■原作では彼の名前が”ガープ三等軍曹”と明記されている。
7.
■映画には出てこないが―――、
■原作ではガープ三等軍曹が戦場で致命的な傷を負う話がある。
8.
■映画ではガープが屋根に上ったのは、憧れの父がかつてそうだったパイロットのマネごとをするため。
■原作ではハトを駆除するためである。
9.
■映画では屋根からガープが救出される際、ボジャー補導部長が、落ちてきた雨樋を頭に受けてケガをする。ジェニーは医務室でその手当をしながら、問わず語りにガープに彼の出生の秘密を打ち明ける。
■原作ではボジャー補導部長はこの時ケガをしない。ジェニーがガープに彼が生まれたいきさつを知らせるエピソードは全編を通してでてこない。
10.
■映画には出てこないが―――、
■原作ではパーシー一家の構成員が紹介される。またその後の彼らの人生にも言及される。
11.
■映画ではクッシーがガープに”赤ちゃんのつくり方”を教えている時に、プーがボンカーズをけしかけてガープの耳に咬みつかせる。
■原作ではここにプーは登場せず、ボンカーズがいきなりガープに咬みつく。
12.
■映画ではガープは、たまたま見かけた"パイロットのヘルメットっぽい耳当て"をつけたレスラーに魅かれてレスリング部に入る。一方ジェニーはレスラーたちを”Animals!”とののしって軽蔑している。
■原作ではジェニーの方がたまたま迷い込んだレスリング道場を気に入り、本人に無断でガープをレスリング部に入部させてしまう。
13.
■映画には出てこないが―――、
■原作ではガープより先にジェニーの方がヘレンに出会う。またこの時ヘレンは、家出した母が戻ってきたと勘違いしてジェニーにいきなり抱きつく。
14.
■映画ではプーがヘレンを誘い出し、クッシーがガープにフェラチオしているのをヘレンに見せつける。
■原作ではここにプーは登場せず、ガープが自分からヘレンに手紙を書いてそのことをうちあける。
15.
■映画ではガープが、原稿の一枚を奪って返さないボンカーズに怒って襲いかかりボンカーズの耳を咬みちぎる。
■原作ではガープが、クッシーをセックスするために誘い出す時たまたま居合わせたボンカーズとケンカになってボンカーズの耳を咬みちぎる。
16.
■映画では、ガープ誕生のいきさつについて先に文章にして世に出そうとしたのはガープ本人である。その原稿をこっそり読んだジェニーが”これは自分の物語だ”と怒って、ガープの執筆を中断させて自分で書き始める。
■原作では特になにもなくジェニーが自伝を書き始める。
17.
■映画では、プロの作家になるためにガープはジェニーといっしょにニューヨークに引っ越す。
■原作ではウィーンに引っ越す。だから原作ではこの後ウィーンらしいエピソード(ウィーンの作家グリルパルツァー、ウィーンで死んだマルクス・アウレリウス、ウィーンの娼婦たちとの交流など)が続く。
18.
■映画ではガープと個人的に親しかった娼婦はのちにジェニーの取り巻きの一員になる。
■原作ではガープと出会ってから比較的早いうちに(たぶん全身の癌で)病死する。
19.
■映画では、ジェニーが『性の容疑者』を書きあげたとき最初にその原稿を読ませたのは彼女が原稿を持ち込んだ出版社の編集長ジョン・ウルフだった。
■原作では、ジェニーが原稿をウィーンからアメリカに郵送してまずヘレンに読ませている。
20.
■映画には出てこないが―――、
■原作ではガープが幼女強姦魔を捕まえるエピソードがある。そしてジェニーが関わることになるエレン・ジェイムズ強姦障害事件、ベビーシッターたちとの不倫などを経験してガープは、男の性の中にあるどす黒い性欲を意識する。
21.
■映画では、ガープとヘレンが新居を購入しようと建売住宅を物色しているとき、ちょうど目星をつけた物件の二階にいきなりセスナ機が墜落する。目の前で起きたことに呆然とするガープたちだったが、ガープはすかさず「この家にしよう、飛行機が二度墜落する確率などゼロに近いから!」と言い放つ。
■原作にはこのエピソードはない。
22.
■映画には全然出てこないが―――、
■原作にはガープ夫婦とフレッチャー夫妻とのスワッピング生活が描かれる。そしてガープはこの経験を下敷きにして「寝取られ男の巻き返し」を書く。さらにその作品をめぐって、ガープとプール夫人(読者)とのけんか腰の書簡のやりとりが続く。
23.
■映画には全然出てこないが―――、
■原作にはガープ一家の日常の描写がある。料理にうちこむガープ、ウォルトに寝物語(「トラックに繋がれた犬の話」)をするガープ、ダンカンの友人の母親ラルフ夫人との一件など。
24.
■映画ではガープとロバータが、住宅街を暴走する運転手を追いかけ、また逆に追いかけられるエピソードがある。
■原作にはこのシーンはない。が、劇中劇であるガープの短編「用心怠りなく」に暴走車がでてきて、それが上記のエピソードの元となっている。
25.
■映画ではハロウィーンの仮装をしたウォルトが死神を怖がり、彼の幼い死を暗示させるシーンがある。
■原作にはこんなシーンはない。
26.
■映画では、海に泳ぎに行くガープにジェニーが ”Be careful of the undertow!” と叫んで注意を促す。後年ガープは泳ぎに行くダンカンに向かって ”Be careful of the undertow!” と同じセリフで注意する。ウォルトはこれを聞いて海の中になぜ "toad" がいるのか不思議がる。
■原作ではこのウォルトの発想から、ガープは何か悪い予感がするときガマガエルが身近にいる気配を感じるようになる。
27.
■映画でジェニーの屋敷で共同生活を送っているジェニーの取り巻きたちは、ジェニーやロバータを中心に一致団結していて何の問題もなさそうである。
■だが原作では彼女らはマイノリティ同士でお互いに反感を抱いている。ロバータはガープに「あのいやらしいレズビアンの連中ったら……」などと陰口をたたいてさえいる。
28.
■映画では事故のあと、ともに傷ついたガープとヘレンとの反目がしばらく続き、のちに感動的に和解、そしてガープは執筆を再開して家族は再びひとつとなる。
■原作ではこのあたりがちょっと不明瞭で、結局ガープとヘレンのセックスをもって旧に復する。
29.
■映画でのガープの処女作は、エレンに原稿を巻き散らかされたタイトル不明の短編である。次に書いたのは「マジック・グローブ」でこれはエレンの激賞を買う。のちにガープは名声のある小説家となるが、エレン・ジェイムズ本人がエレン・ジェイムズ運動(強姦など、女性が虐待される現実を、自らの舌を切除して世間にアピールする過激な運動)を非難していることを知り、周囲の反対を押し切って、エレン・ジェイムズ党員たちを攻撃するノン・フィクション『エレン』を発表する。
■原作では処女作は「ペンション・グリルパルツァー」。そのあとが『遅延』、「寝取られ男の巻き返し」、「用心怠りなく」。ガープはもうけ本位ではないまじめで寡作な作家である。しかし事故のあと、妄執にとりつかれたあげく破滅する男たちと彼らに翻弄されながらも力強く生きる女を描いた『ベンセンヘイバーの世界』を上梓してセンセーションを巻き起こす。遺作は『父の幻想』である。
30.
■映画では、知事選の応援演説のためにジェニーが屋敷から自家用ヘリで旅立つ。ガープ一家はそれを見送るのだが、これがジェニーとの今生の別れとなる。
■原作では、『ベンセンヘイバーの世界』を書き終えたガープ一家がウィーンへ骨休めに出かける。彼らを空港で見送るジェニーが最後の見納めとなる。
31.
■映画では、男性出席禁止のジェニーの追悼式に女装をして紛れ込んだガープを、エレンジェイムズ党員になったプーが見つけだして告発、会場は大混乱になる。そしてそこからガープを救い出して、タクシーに押し込んで去らせたのが誰も実物を見たことがない、伝説のエレン・ジェイムズ本人だった。なおエレン・ジェイムズの登場の場面はこの一瞬だけである。
■原作でもこの追悼式に変装して忍び込んだガープを見破ったのはプーである。が、プーはこの時はまだ自分の舌を切断していない。そして姉クッシーが死んだのはガープのせいだとその場で騒ぎたて会場は大混乱となる。そこを抜け出そうとするガープを手助けしてタクシーに乗せて去らせたのは見知らぬ年配の看護婦である。このあと、ガープは女装したまま飛行機に乗って故郷に帰ろうとするのだが、この飛行機の中で本物のエレン・ジェイムズが近づいてきてガープと接触する。彼女はガープに筆談で、『ベンセンヘイバーの世界』を8回読んだこと、最近両親がふたりとも交通事故で亡くなったことなどを告げる。ガープはさっそく、エレン・ジェイムズを養女として引き取ることにする。
32.
■映画では、ジェニーの葬儀に参列したボジャー補導部長はすでにボケてしまっている。
■原作ではこの時は全然ボケてはいない。
33.
■映画には出てこないが―――、
■原作ではジェニーの死後ジェニーの遺志をついで、ガープとロバータとで”ジェニー・フィールズ基金”を発足、助けを求める女性への支援運動に取り組む。”ジェニー・フィールズ基金”には全国から助成金の申請書が届くが、そのうちのひとつがジェニーを暗殺してその直後撃ち殺された猟師ケニー・トラッケンミラーの寡婦、ハリオットからのものだった。ガープは身元をふせて彼女の居所を訪ね、その人となりを確認してから多めの助成金を贈ることにする。
34.
■映画には出てこないが―――、
■原作では、養女としてガープのところで暮らすエレン・ジェイムズがエレン・ジェイムズ運動を非難するエッセイを書いて発表する。これを受けて、もう時代遅れとなったエレン・ジェイムズ党員の残党たちは、偉大な母親を裏切ったガープ、そんな’男の悪の代表者’ガープにたぶらかされて地に落ちたエレン・ジェイムズを逆に攻撃してくる。するとガープは返す刀で彼らを痛罵し……両者の関係は悪化の一途をたどる。
35.
■映画には出てこないが―――、
■原作ではランニングをするガープをエレン・ジェイムズ党員の刺客が車で轢き殺そうとする。ガープは難を逃れ、この運転手は車ごと石の壁に激突して死亡する。
36.
■映画には出てこないが―――、
■原作では成人して画家となったダンカンがガープの「ペンション・グリルパルツァー」の挿し絵を描き、それを気に入ったジョン・ウルフは彼の挿し絵付きで『ペンション・グリルパルツァー』を出版する。
37.
■映画ではなぜプーがエレン・ジェイムズ党員になったのかは描かれない。そして彼女がなぜテロ行為に走ったのかも。彼女は子供の頃から、ガープとクッシーがいちゃつくのを常に遠くから陰険なまなざしで見つめていた。そのとき彼女の心の底に人知れず生まれたものが、この悲劇の濫觴となったということなのだろうか。
■原作ではそもそもプーの幼少期はほとんど何も描かれていない(幼児期を脱してもおしめを続けていたとはある)。読者も他の登場人物たちも彼女の活躍など期待していない。……しかしプーはジェニーの追悼式に忽然と姿を現す。そして姉クッシーの死をなぜだか勝手にガープのせいだと決めつけて詰め寄る(つまりプーの犯行の理由はクッシーが死んだことによるガープへの逆恨みということ?)。……ちなみに事件のあと、プーは精神病の治療を受け、おとなしくなってから社会復帰。その後は知恵遅れの子供たちのいる施設でまじめに働き、54の年齢で初産を経験する(父親の正体は誰にもわからない)。
38.
■映画では凶行に及んだプーをまず取り押さえたのはレスラーの学生だった。
■原作では、呆然とするレスラーたちをしり目にまずヘレンが取り押さえる。
39.
■映画では、凶弾を浴びたガープは救急搬送用のヘリコプターに載せられて "I'm flying..." とつぶやきながら死んで行く。
■原作では、ガープはレスリング道場から運び出される前に死亡している。
40.
■映画ではガープの死をもって物語が幕を閉じる。
■原作ではエピローグがあって、主要登場人物たちすべてのその後の人生が(そのほとんどは死に至るまで)けっこうな分量をとって言及される。
…………おしまい。