- Amazon.co.jp ・電子書籍 (26ページ)
感想・レビュー・書評
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冷静に眺めるとストーリー展開自体は複数の意味で「ひどい」のに、緻密な構成と豊潤な文体のおかげで、「谷崎ってやっぱりすごいわ」と感嘆。
煩わしい人間関係を断とうと隠れ家を手配して遁世した男。彼は夜毎、気晴らしなのか遊び心なのか判然としないけれど、誰にも気づかれないように変装して街を歩くようになる。
ある日街で見かけた女物の縮緬着物の美しさに心を奪われた男は、その夜以降、女装して街に繰り出すようになる。
古風だけど粋な装いと美しくも不可思議な雰囲気に、すれ違う人たちは目を留めるようになる。
注がれる視線と己だけが知る秘密による高揚感に浮かれる男。
しかしある夜、彼以上に人々の視線を奪う妖艶で謎めいた美女が現れる。
彼女は男が昔捨てた女だが、その夜をきっかけに、二人の交流は再開する。
捨てた男と捨てられた女ではなく、虜になった男と虜にする女として。
けれど…。
一見繋がりのなさそうなものたちが「秘密」というキーワードのもとで巧みに繋ぎ合わされ、情景描写が的確な豊潤な文体で描かれることで、虚飾と妖艶に満ち満ちた耽美な世界観が確立されています。
秘密を持つ側の優位性と惹きつけられる側の劣性、愚行からもたらされるその呆気ない転換も、その筆力によって余すところなく描かれています。
谷崎潤一郎が生半可な変態クズ野郎とは一線を画す、本当に知的でしかも語彙力豊かという、ある種完璧なハイスペック変態クズ野郎であることをあらためて噛み締めた作品でした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「秘密」が「秘密」であることの魅力が描かれた作品です。つまらない日常も秘密というフィルターがあることによってロマンチックで刺激的なものになる、ということを伝えたいのかなと思いました。主人公がT女へ抱く感情の変化の表現が上手で谷崎潤一郎の凄さを改めて感じます。『私は美貌を羨む嫉妬の情が、胸の中で次第々々に恋慕の情に変わつて行くのを覚えた。』「女」として負けてしまったので、「男」として征服してみたら興醒めしてしまった主人公の虚しさを感じました。
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主人公は日々の生活に疲れ、交際を続けてきた人々から逃れて気分を一新するために、寺の庫裏の一間を借りて、隠棲を始める。やがて、女装して外出することに秘密の喜びを見出すようになる。外出を続けていると、ある日、映画館で昔交際していた女と再会し、女の自宅で逢うことを約束する。目隠しをして、車に乗せられて、女の家に行って逢い、再び目隠しをして帰るという奇妙な逢い引きを何度も繰り返すうちに、女の自宅の場所を知りたいと思うようになり……。
秘密というものは知らないからこそ価値がある、知ってしまうと一気に興覚めする、ということでしょうか。
冒頭にある、普段生活している場所でも実はよく知らないところがたくさんあるということが書かれている箇所も、なかなか趣きのある文章です。 -
この話を読んで二つのことを思い出しました。
まず、ツァイガルニク効果という心理状態があること。これは要は、「ミステリアスな人は魅力的に見える」という心理効果のことで、確かゲーテだったと思いますが、「ミステリアスな奴は魅力的だ」みたいなことを言っていた気がしますね。いずれにせよ、不思議な存在と魅力というのは谷崎の場合でも繋がっていて、「秘密」が暴かれた途端に、その魅力は瓦解してしまうものなのです。
もう一つは谷崎の最後の妻、松子夫人の存在です。彼は彼女と不倫関係の末に契りを交わしますが、松子夫人と『秘密』のT女の性質に近いものがあることに注目しました。個人的には、この2人は自ら小説に登場する人物に「なりきって」生活を送っていたようにも映ります。
どちらの面から見ても、谷崎潤一郎にとって切ってもきれない概念である「秘密」。今作は短編ながらそのエッセンスが綺麗にまとまっていたと思います。