冬虫夏草

著者 :
  • 新潮社 (2013年10月31日発売)
4.11
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感想 : 299
5

なんだろう…この世界観。騒々しい展開でありながら、凛としていて、それでいてほんわりと暖かい。ほんの100年くらい前の設定でありながら遠い、遠い昔のように感じる。こんなに自然が近く、人と共存し、動物と共存し、そして人は人と繋がりながら生きているんだとしみじみと感じる。
また、独特な言い回しでありながら、その表現が透明(clear, transparent ではなくてどちらかというとpureのイメージ)で、梨木香歩さんらしさを感じる。
だから、物語の中に河童だのイワナ人間だのと実在しない生き物が出てきたとしてもすんなり受け入れてしまう。
また、一方で一つ一つの表現に深い意味があり、知らないとついつい読み過ごしてしまう。そんな難しさも感じる。

梨木香歩さんの作品を読むといつもこんなふうに感じる。きっと、私だけではないはず…

本作は少なくとも10回は読んでいるかと思う。それでもまた、パラパラと見ていると、読みはじめてしまう。一部、私の知識不足でやっぱり意味がわからないところもあった。

(以下は自分の読者録なので、ネタバレ含みます。読み飛ばしてください。)


クスノキ
山積みにしてある本のうち1冊を抜き取ろうとしたら山なだれを起こし、それにより右手の中指と人差し指を負傷した。
あくる日診療所で、患部を黒い膏薬を塗った油紙で巻き、晒しで縛ってもらった。
この黒い膏薬の匂いが思い出せそうで思い出せないのだが、数日後、窓を開けて外の空気を入れた時に山の草木の息の中に混じっていたクスノキの香が膏薬のにおいだと気がつく…その後に登場する蝦蟇の描写。痛み→膏薬→蝦蟇。
「蝦蟇はのそりのそりと池の端まで歩き、それから池の中に入っていった。……どうせそのうち浮いてくるだろうと思ったが、これがなかなか出てこない。外で待つのは諦めて、家の中に入り、縁側で本を読みながらちらちらと池の様子を観察、蝦蟇が出てくるのを待っているが、出てこない。二、三日気をつけていたがとうとう出てこなかった。蝦蟇を、待っているうちに、指の痛みも去ってしまった。」
この描写が『そうそう、こんなもの。痛みにばかり集中してしまうが、他に気になることが有れば忘れてしまうことってあるなぁ。』と、この描写に感じ入る。

オオアマナ
朝方起床、晴天のため窓を開けて日差しを取り入れた時に聞こえてくる若い夫人のソプラノの歌声。表に出てふらふらと声の源に歩いて行くと歌の主はダァリアの君であることがわかる。
何の歌であったか問う綿貫に「詳しくは知らないのですが、季節はずれに違いないのです。降誕祭の夜に教会で教わったので。英国のチェスターの修道女の歌らしいです。厩で幼子が生まれた、その喜びと祈りの歌らしいのですが。でも、晴れやかな感じはあまりしませんでしょう。何だか生きてあることへの慰めの歌のようで。」
その足元に咲くオオアマナ。「Star of Bethlehem(ベツレヘムの星)」という呼び名もある。聖書では、キリスト誕生の時、それを人々に知らせる星が輝いたという場面があり、この星が、人々をベツレヘムの地へと導いたという話もある。
オオアマナは星形の白い花を咲がさくことからベツレヘムの星と呼ばれる。ダァリアの君の歌とオオアマナが繋がり、意味深い。

露草
「ふと、目の前を何か黒いものが通り過ぎる。顔を上げてよくみると、近在に見慣れぬ黒マントの男が、何やら仔細ありげに荷物を抱えて毘沙門堂の方へ歩いて行った。少し気にかかったが、そのまましばらく歩いてようやく、それが私の姿と瓜二つであるのに気づいた。これはいわゆる、ドッペルゲンガーというやつであろうか。」

原稿を締め切りのために、雨の中、穴が空いた傘をさして駅舎に向かう。送付の手続きも終わり、傘を再び開けたところ軸が外れてバラバラになってしまった。ええい、ままよと、雨の中を飛び出したが、「然し思ったよりも鋭く激しい雨つぶてに、これは甘く見ていた、小雨になるまで待つのであった、と後悔しかけたとき、ふっと、目の前が暗くなり、雨が遠のいた、と思ったら、隣に誰か傘を差し掛ける人がいた。おっと見ると、なんと、カイゼル髭である。以前、湖方面を彷徨っていたときに知り合った男であった。」

露草の花言葉は「なつかしい関係」。綿貫にとって、きっとカイゼル髭は懐かしい関係であったのだろう。雨と露草、懐かしさ。

サナギタケ
サナギタケは冬虫夏草属に属する寄生菌。蝶や蛾などの鱗翅類に寄生し、棍棒状の子実体を発生させる。簡単に言えば、林床の腐葉のなかに潜み、そこにサナギ があると菌が体内へ侵入し、サナギが死ぬまで菌糸を伸ばす。
平くは冬に虫だったものが、夏になり始めるころに寄生していた虫を養分としてキノコを作る。

ここで菌類研究者の友人、南川が登場する。
昨晩、松籟が響いているような音がして、人の言葉のように思えて書き写したものを南川に聞かせる。
「わたしくし、この世に生まれ落ちてからこれより、天涯孤独の身の上でございました。おっかさんはありましたが、体二つに別れたときから、わたくしはずっと独りでございました。それがあるとき天啓とも云うべき事態が起こり、お相手を授かったのでございます。わたくしはそれより孤独地獄とは決別いたしました。お相手と一つになり、孤独地獄から救われたのでございます…」

よくわからない。南川いわく、これは幼虫の言葉であるとのこと。昆虫界から植物界へ身を転じようとしている時の感慨だそうだ。雰囲気は伝わってくるが、よくわからない…

サギゴケ
夢の中で、南川が土の中の縄から出てきた瘤のような白い物を取りだし、掌の上に載せて神妙に眺めている。南川は、その手をふいと上に上げると、それは白い鳥になり、ひらひら舞ったかと思うとドクダミの林の合間をどこまでも飛んでいった。夢から覚めた時、マイマイガを探しにやって来た南川が目の前に座っている。二人で庭に出た時に、庭を覆っているドクダミの中にサギゴケを見つける。
ムラサキサギゴケは、花が紫色で、形がサギに似ている。その中でも花が白いものをサギゴケというようである。サギゴケとマイマイガが意外な組み合わせだったのだが、「蛾だけあって不気味に醜い奴だが、求愛の時にはひらひら舞うんだよ。」
サギゴケの花言葉、「思いを募らせないで」と繋がる。

梔子
和尚の寺へ碁をうちに出かけた帰り、鼻先を梔子の花の香か流れた。来るときは全く気づきもしなかったが、山門の脇に梔子の低木に、咲く白い花を見つける。

イシガメ、和尚、タヌキの法話…梔子…
この繋がりがいまいちわからなかった。

ヤマユリ
梅雨の日のある晴れた気持ちのいい日に汽車に乗り、隣町まで出かける。その汽車で真向かいに洋装のおしゃれな婦人が座っていた。婦人の持っていた六角形の墨色の美しい箱鞄にヤマユリの絵の象嵌が施されている。ヤマユリの向こうには山水があり、月が出ている。山の中腹には家があり、人もいる。真ん中に柿の木らしき木があり…じっと細工を見ていると、白魚のような婦人の指が、鞄の中から飴玉を摘み出し、それを綿貫の口に入れた…
この怪しげな仕草が次に繋がる。

満月が中空にさしかかる頃、池の水面にかなりの数のイモリが口をあけて空をあおいでいるのが目に入る。サルスベリから落下してくるアオモリガエルのオタマジャクシを食べるためである。

口を開けていたイモリのその口中にアオモリガエルのおたまじゃくしが落下した!「その瞬間イモリは口と目を同時に閉じて、うっとりと得も云われぬ至福の表情を見せた。そのとき私は、口中に白魚のようなゆびで飴を入れられた瞬間、自分の総身ごその甘みを悦んだことをさまざまと思い出した。やはりうれしかったのだと、ここでようやく認知することであった。」

ここの題は、サルスベリとはせずに鞄の細工のヤマユリにしているのは、ヤマユリの花言葉に「荘厳」があるからだろうか。おたまじゃくしの誕生とイモリと私の恍惚な様がヤマユリを介して鮮明に印象的になる。

茶の木
隣のおかみさんから百足封じの札を配るので、毘沙門天に行った。参道で醜い女の顔に、綿貫の目が釘付けになる。
その夜半、大音響に叩き起こされる。ゴローほえ声と、何かはわからぬ獣の唸り声。
翌朝、隣のおかみさんからムジナの話をきく。「混んだところに、よく交じってますから、目を合わさないように」

生垣の山茶花の花の中に、貧相なできそこないのようなものが混じっていた。茶の花である。
祭りでの接待茶は、この茶の葉で作ったとのことであった。
祭りの中のムジナ、山茶花の中の茶の花。


隣のおかみさんが柿の葉ずしを持ってくる。
「柿の葉ずしは初夏の柿の木の、緑の若葉を用いて鯖ずしをつつんだ、大和路の名物だが、さらに吉野から紀伊にかけての隠国の方では、紅葉した柿の葉を用いて、晩秋にもまたこのすしを作る。柿の葉の紅葉は、楓のごとく全面深紅には至らず、ぽつぽつと緑を取り残したまま黄色や朱色が入ってくる。さながら、緑の針葉樹、赤や黄色の広葉樹の入り混じった秋の山そのものの綾錦が、一枚の葉に映り込んだ様子である。虫食いの跡もまた、風情があるものである。」

龍田姫が日枝で景色に見とれて季節が進まないと高堂がその夜、掛け軸から出てきた。
里心を誘うものを献上して季節を進めらため柿の葉ずしを狙っている。

翌日、おかみさんの柿の葉ずしは秋を急かせたことを知る。

ショウジョウバカマ
ゴローが2ヶ月ほど不在である。ゴローの探索のために南川に地図と宿泊できそうな地名を書いてもらい鈴鹿に探しに行くことを決意する。
いなくなったゴローの犬小屋にジョショウバカマのシロバナ型が咲いていた。

ショウジョウバカマの花言葉…「忘れられない人」それは、綿貫に対するゴローの想いか?あるいは、ゴローに対する綿貫の想いなのか…と、考える。

ここからゴローの消息が気になって仕方ない。一章、一章丁寧に何度も読んでいたが、読むスピードが上がっていく…(絶句)

彼岸花
水屋にある使い込んで飴色になった木地の皿。中央に四重の縁が浅く彫られ、それが池の真ん中の波紋が浮かんでいるように見える。
編集者の山内が道明寺のおはぎをその皿に入れて持ってくる。そこでその皿が君ケ畑のものではないかという話になる。
鈴鹿の山奥に、蛭谷、君ケ畑という土地がかり。その辺りは、惟喬親王が皇位継承ならずして都から隠棲した場所だと言われるところ。噂ではその奥に、イワナの夫婦が峠越えの旅客を泊めている宿屋があるというのを聞いた綿貫は大好物のイワナを思うと、山内の木地師の説明はもう耳には入ってこなかった。
翌日、南川の研究室を訪ねてイワナの宿の情報を得ようとすると、南川からゴローらしき犬を見かけたと聞く。
ゴローに会えて、イワナの饗応にも与れたらと鈴鹿行きが決まる。
時は彼岸花の頃、彼岸花が咲いている。ゴローとの再会、イワナの宿への情熱がこの章のテーマであろうか…

節黒仙翁
鈴鹿に行く途中の蕎麦屋で、愛知川の水神のことを教えられて、神社の神主を訪ねる。天湯河桁命を祀る神社。
川の源は、龍ヶ岳。そこから四方へ流れ出る、宇賀川は白竜、青川は青竜、田美川は黒竜。愛知川を守るべき赤竜が長い間留守で、この留守を守っているのが天湯河桁命と説明する神主。
「その先に、如来という土地があります。八風街道と千草越えの分れ目となる場所だが、昔、瀬田の竜神は、例祭に駆けつける際、そこで旅人に姿をやつし宿をとったものだ。いつの頃か、宿の亭主に本性を見られ、それからは川を直接遡って行かれるようになった。例祭の日は、逆巻く川が白く濁ります。今日の宿はそこで取られるがよろしい。」と言われる、頭を下げた時に節黒仙翁が目に入る。
この宿が転機、機知となる予感。

紫草
蒲生野と紫草と聞いて思い出す2つの歌。

「あかねさす紫野ゆき 標野ゆき 野守は見ずや 君が袖振」

「君」は、額田王の元夫、大海人皇子。次期天皇と目されている。額田王は最初に弟である大海人皇子と、後に兄である天智天皇と結ばれている。

蒲生野の地で開催された遊猟の行事で大海人皇子は人目もはばからず袖を振って額田王に合図を送り、それを額田王が咎めるといった相聞歌の有名な歌である。

対する海人皇子の歌「紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我れ恋ひめやも」
(美しい紫草のように匂い立つあなたが憎いのなら、もう人妻なのに何で私が恋をするだろうか。)

額田王の歌に詠み込まれた「紫」の言葉を受け、神社で紫草を持って石段を上がろうとする小さな巫女がいる。太郎坊が採ってきた紫草。これで太郎坊の所望する紫の布団を染めるという。

ここは、阿賀神社。阿賀神社といえば、天狗。山は太郎坊山とも、神社は太郎坊宮とも呼ばれるようである。太郎坊とは、ご神祭を守護する天狗の名前と知る。

椿
地蔵林の地蔵たちに小豆飯を配る。小豆飯は椿の葉に盛る習い。
「昔から、大水が出た後の飢餓の折には、子たちがようけ、亡うなりましたのでね。」と、仲居が説明する。
先程、同宿の若い、まだ少年のような男性から聞いた「瀬田の竜神は、萱尾の大滝の淵の辺に生る、枇杷の実を目当てにやってきていたのですよ。」だから梅雨の中頃に現れる。「秋雨が続くならまだしも」の意味をようやくここで合点する。

また、如来という土地の由来を「本田善光が信州で善光寺を開く前、難波から三尊仏を背負ってこの地を通りかかり、ここで一夜を明かされた。その折、三尊仏を置いていた石が光り輝くようになったので、阿弥陀如来を彫られて祀った。」と、博学の同室の男性が説明する。
なぜ、この男性がこれほど良く知っているかはこの後でわかることになる。

河原撫子
「萱尾の滝壺で、イワナを獲ってくると言ったまま、帰らない。今日で十日になります。」と、父の失踪を語る日陰のキュリのような少年と出会う。
どこからも連絡はないかと聞く綿貫に「トビも知らぬ、サルも知らぬ、と」とその答えに感ずるところがあり、「私の借りている家は、もともと友人の家なのだが、この友人もまた、君の父上と同じように行方が知れぬ。ところでそ野家に池がある。池は湖からの疏水の水を引いてある。どういうわけか、遡る道を間違えて、ときどき河童がやってくる。やってきた河童は、外へは出られない。入ってくるはよし、けれど取水口が、出ることかなわぬ構造になっているのだ。以前は私の飼い犬が、詰まった河童を朽木村まで送っていったものど。けれど今ではその飼い犬すら行方不明だ。」に少年は「ゴローさんだ」と、返す。

なんとなんと、ゴローはとても有名であったのだ。

この章の河原撫子の「大胆」というのが、(河童の)少年の母が、十日で夫の失踪に見切りつけていることによるものなのだろうか。そして、この後に、この母の大胆さを確信する現場に出会う。

蒟蒻
高野の集落は、蒟蒻の製造に秀でたところで、永源寺の精進料理に使う永源寺蒟蒻もここで作られている。

白鹿背山で当たりで河童少年の父がゴローを見たと云う情報を入手し、高野集落の蒟蒻を作っていた民家の主人に白鹿背山について尋ねる。飼い犬を探し登ってみようと伝えたところ、主人がオオカミが出たという。オオカミと聞き己の身の危険を案じるが、主人曰くは白鹿背山であれば大丈夫だと云う。

昔、山火事で逃げていた動物たちが進路を急峻な峡谷に阻まれた時、白鹿が現れ前足二本を向こう岸に渡し自分の背を橋にして動物たちを救う。最後にやって来たウサギを渡らせると、力尽きて峡谷に落ちていった。という仏教の説話がある。その説話に因んで命名された白鹿背山では、無闇な殺生はおきないと主人が説明する。

白鹿背山に登るという綿貫に、主人は途中の明神さんに水をあげてきて欲しいとお願いする。この日照り続きで、二百年ほったらかしでも自生してくる蒟蒻も青色吐息であると言って、綿貫にお茶の竹筒と握り飯、そして明神さんへの竹筒を持たせる。

サカキ
「サカキは人界と神界の境を分ける、という意味で、サカキ、と名がついたのだ…」

明神さん経由で白鹿背山に向かっている時、長虫屋に非常によく似て男を見かける。一瞬、目があったが会釈するでもなく、明神山の方に歩いていく。男の後を追って行くと、やがて一本の松の裏に「八鷹城大神」と書かれた石碑を見つける。
その時、何か下から長虫屋と旅館の仲居が上がって来た。仲居は風呂敷包みの結び目にサカキの枝を数本差したものを抱えている。仲居の失踪中の主人が長虫屋のまたいとこに当たるとのこと。
綿貫に見つかり長虫屋はまたいとこの消えた方向に、仲居は明神さんに雨乞いに行くという。
仲居と長虫屋の関係もサカキでわけられているように感じる。
 
リュウノウギク
八大龍王雨宮明神社に着く。そこで仲居が雨乞い儀式をする。仲居は三太の母のようである(河童少年の名前は、牛蔵ではなかったのか?)。
仲居は綿貫と別れ、、リュウノウギギの群れが咲く斜面を堂後谷の方に降りて行く。
綿貫の降りる道もいつしか平坦になり、そこここにリュウノウギクが現れ出した。

この辺りにはリュウノウギクがたくさん咲いているので、こな花が出てきたのか、あるいは意味があったのか、またもやわからなくなる。

キキョウ
雨乞いの儀式からすぐに雨が降り出す。
蒟蒻屋の主人が綿貫に白鹿背さんの雨乞いをお願いしたのは、主人の母親が弱ってきており、晴天が続きで空気が乾いてつらかったのか、雨が欲しいと、言ったからだという。母親の名前は松子という。女学校に行きたかったが、継母に無理にこんなに遠い土地での縁談をまとめられ、嫁いでから一度も帰ったこともないという。主人の母親思いが綿貫にも伝染する。
翌朝、庭にキキョウの花が一輪咲いていた。
松子さんの部屋の戸は既に開けられていた。
松子さんは布団に横になったまま、ぼんやり外を眺めていた。そして、綿貫が声をかけると「おなつかしい。」と、返ってくる。
「キキョウが庭に咲いています。」
「キキョウではないわ。それはマツムシソウ。」
この後に続く会話がせつない。若い頃の想い人との会話。「永遠の愛」、「変わらぬ愛」を想像する。

マムシソウ
愛知川沿いをひたすら上流へ歩いていたはずが、迷って山路に入ってしまう。そこで娘さんと出会う。「どちらへ」と、尋ねられ「この辺りの様子がわける、景色のいい場所がないかと探しているのですが。」に「着いておいでなさい。」と、案内される。 娘さんは綿貫が発する言葉の意味や漢字に関心を示す。学ぶ意欲はあっても、学べなかった環境を嘆いている娘さんの気持ちを変えるために、近くに咲いていた花の名前を尋ねる。
「マツムシソウ」を説明する娘さんの想像力を褒めた。

蒟蒻屋の松子さんの言葉…「広い原にいっぱい。あのとき、私が云ったこと、覚えていらっしゃる?」と、「その力があれば(想像力があれば)、どんなところでも、マツムシソウが群れ咲く広い原だと思うことができる」ということなんだろうか?

アケビ
たまたま目が合ったお婆さんと会釈し、その雰囲気に「イワナの宿」を尋ねてみた。お婆さんでは情報不足のため、ご自慢のお爺さんを連れて来る。
イワナの宿は、情報不足であったが、ゾロゾロ出てきたサワガニをイワナが採りにきたのは、見たことがあると言う。では「犬にも会いませんか。」とゴローの姿形を説明して尋ねてみる。するとお爺さんの従兄弟で近くに住んで射る源助が炭焼きの帰り、猿の子を拾ったので背負い袋に入れていたところ、キイキイと鳴く鳴き声に親猿たちに囲まれてしまう。子猿をそこに置いて逃げるも親猿たちは、追いかけて来る。そこに犬が駆けてきて、里に出るまで源助の横について歩いてくれたという話を聞く。ゴローに間違いない。「うちの犬だと思います。一度、サルと親密な様子でいるところを目撃しました。」と、いう話にお爺さんもお婆さんもすっかり感心の体で、縁側でアケビを薦める。
ゴローの「才能」からアケビなのか、お爺さんのお婆さんのwelcome 精神からアケビなのか、どちかわからない。

次の章で、「私にはわからぬ、なにかこの世の超法規的手段を使って、ゴローはサルに、乱暴はやめとけと伝えたのだろう。サルがそのようにすぐに云うことを聞いたのは、もとよりゴローに備わった人望の故に相違あるまい。」やっぱり「才能か」と、思った。

茄子
三、四ヶ月前にゴローらしき犬に助けられたという源助さんがやってくる。
鈴鹿には、オオカミがてるという話からゴローの身を案じるが、オオカミだけでなくクマも茄子を食べに来たという。

クマと茄子、餡巻きの話がよくわからないまま終わってしまう。

アケボノソウ
話の流れから、綿貫の生業の話に変わり、源助さんより、この辺りの由緒書きを読んで欲しいと言われる。お爺さんと源助さんの会話は識盧の滝に流れてゆく。

文武両道にすぐれた武将小倉実澄は、応仁の乱によって荒れ果てた京都の相国寺の学僧をむかえ、永源寺の地に庵を「識盧庵」と名付ける。こな庵の近くに落ちる滝を識盧の滝と名付けたそうである。

識盧の滝に着いた時、アケボノソウの株立ちを見つける。凛とした白花のかべんに翡翠の点を抱く、清楚な花。清澄な水の気配が生じるところに咲くその姿が、小倉実澄を心境とを表しているように感じる。


識盧の滝からお爺さんの言われるままに佐目の神社に向かうことになる。
そこで聞く「虫送りの祭り」。
源助さんによると「夏の始まりの頃、稲なんぞに悪さをする虫を、村中総出で、鉦太鼓で追い出して、村境のあの塔まで送るんですねん。ほんで次の村でも次の次の村の境まで同じことをする。」最後は湖においかむようである。

今度は足下の小さな祠に気が付き尋ねと、「虫迎えの祠」だと言う。「稲刈りがすんだら、ほこ、開といておすねん。追われた虫も、かわいそうでっしゃろ、いくら湖いけちうたかて、さよどすか、てなわけにはいかん虫もよういてるやろし。行きどこものうて、冬が来たらしんどいやろ。ほりゃ稲の育つまでは戻ってもろたら困るけど、刈り入れが終わったら、路頭に迷った虫に、ここで冬越ししや、ゆうて、あないして開けとくんですねん。」だそうだ。

この神社のご神木の杉は樹齢500年という。500年の間に毎年繰り返し行われる祭りをこのご神木は見守り続けてきたのであろう。

タブノキ
源助に連れられ神主の元に行く。そこで、萱尾の辻家の菊の話を聞く。佐目にに嫁て、臨月で実家にもどっていたが、お産中に亡くなったと神主から聞く。毎年は菊の母行っているダマ踏みをしているが昨年亡くなったために、菊がダマの実を踏んでいだ時に産気づく。父が帰ってきた時は汗まみれで苦しんでおり難産の末に亡くなった。婿ま間に合わず、婿も父も屋根に上がり、棟をまたぎ傘をさして嫁の名前を呼び続けていたと聞く。

ダマはこの土地の呼び名のようで、ダブノキと言う。調べたところ、アボカド と同じクスノキ科の近縁の常緑高木で、属は違うが、果実はアボカドの果実と似た味がするようである。見た目は、果肉がほとんどないためか、この土地では、油の調達としてダブ踏みを行えようだ。

ダブノキの名前の由来が朝鮮語で丸木舟を意味するtong-baiが訛り、霊が宿る木とされていたことから、「霊の木(たまのき)」と呼ばれ、それが訛ったという説がある。
この章ででききた意味は、菊の霊という意味なのだろうか。

ヒヨドリジョウゴ
人が賑わう冠婚葬祭に河童やイワナが振る舞いの饅頭や握り飯をもらって帰るために紛れていると聞く。菊の葬儀にも河童やイワナが来てきたと聞き河童やイワナとともに握り飯を相伴したいと思う綿貫が、この物語らしいと感じる。

そして菊の奪われた命を嘆く綿貫は、ダマ踏みをしてみたいと申し出る。水を入れた桶は冷たく、不安定な足場でうまく踏めず倒れそうになる。倒れかけて掴んだ栗の木の幹にヒヨドリジョウゴのツルが絡んでいた。「細めの花びらが全て向かい風に耐えているように反り返っている。ヒヨドリジョウゴはそういう寂しい花だ」とあるので、菊の人生を例えてこの植物が描かれたのであろうか。


九居瀬の村の小杉家で部屋を借りる。
小杉家は、「旅館と銘打つような作りではなく、峠越えを目の前にして宿に困った旅人のために部屋を提供する、もしくは軒先を貸す、そういう施しの精神と経済をほどよく成り立たせた百姓家だ。」昔は歩いて峠越えをしなければならなかったからであろうが、今では考えられないような描写でありながら、その精神に感心するとともに懐かしさを感じる。
そしてここ小杉家で南川のと遭遇する。そして菊の霊と遭遇する。小杉家の内儀の話では、葬儀に行った神主がアシアライミズを、しなかったためだと説明し、樒を取りに行く。部屋の四方に樒を立てるや、菊の霊が白い影になってしまった。
樒は、魔除けのようだ。そして、綿貫は、菊の霊から「つし。つしのはこ。こんめ。もっていぬ。もっていぬる。」という頼まれごとを預かる。

寒菊
翌日、萱尾でカンセガキをするため、霊を落としてくるために行くことを内儀から提案される。カワセガキとは、川で溺れた人やお産で亡くなった妊婦を川で供養すると内儀が説明する。
神主から昨夜の菊の頼まれごとを相談すると、菊の幼なじみのサトを紹介される。
サトによると「つし」とは、天井裏の物置のことで、菊の嫁ぎ先に行って「つし」をあらためさせてもらうとのこと。
嫁ぎ先の天井裏には、菊の母が作った六角形に形作られた筺があり蓋を開けると6個のお手玉が入っていた。お手玉を興じる二人の少女の「けなげな姿」が一瞬はっきり現れ消えた。お手玉のひとつの生地の寒菊の黄色の彩りが鮮やかに目を射る。

ムラサキキシブ
佐目子谷の奥へ入って姫が滝を過ぎ、更に奥に進むと佐目峠にでる。そこを下ると御池鉱山がある。金や銅が取れる。そこには集落が存在し、都会とは比較にはならないが学校や警察まである。山は杣人や木地師が行き来するだけでなく、鉱山技師や鉱夫たちも行き来し、その家族も連れてきて町ができる。しかしそれも鉱床が尽きるまでの話。採算が合わないと会社が判断するとあっという間に誰もいなくなる。そういう幻の町がこの鈴鹿の山奥には昔からいくつも、出来ては消えて、消えては出来てきたと、南川が言う。綿貫が探しているイワナの宿がその町にあったのかはわからない…と、その時見事なムラサキキシブがあった。

ムラサキキシブ=紫式部。源氏物語を連想する。光源氏の栄枯盛衰のような話。源氏の復活と栄華、因果応報が脳裏をよぎった。

ツタウルシ
「愛知川沿いを行くのなら、天湯河桁命のことを覚えておいた方がいい。」と、南川に忠される。


枇杷
南川の勧めで萱尾の大滝を見に行く。滝は何段にも別れてそれぞれの段で麗しい滝壺を作り、清らかな流れで繋がっている。その一番下の滝壺で音がしたので覗くと、如来の宿で同室であった男性が素っ裸で水から上がって来るところであった。
枇杷を採りに来たという男は、ぞんざいで、世間などかなぐり捨てたというような雰囲気で、少年と思っていたのに、ずいぶん年寄りになっている。
まだ少年のような若い男だと思っていたのは、細くて猛々しさがなく、どこか自身の存在を恥じらうような印象があったからだったことに気がつく。それが、老いて弱りきっているせいだったとは…
病でもう長くはないという男は、「西洋の火の竜、マサンドラ」の話をしたところ両眼か爛爛と光る。

セリ
「九居瀬な小杉はんとこの紹介なら、と最初に訪ねた民間が快く中に入れてくれた」
子どもたちが綿貫を囲んで「うまいか。」「うまいぞ。」「それは俺が掘ってきた芋じゃ。」とセリの浸しものに箸をつけると「うまいか。」と尋ねる…良き昔の日本、人間的なところ風情がある。
夜、高堂が現れて「赤竜にセラマンドラの話をしただろう」と言われる。
やっぱり宿屋で同室だった、大滝で会ったあの男は赤竜だったのだと後でなんとなくがやっぱりに変わる。

タイトルがセリとなっているが、これも今ひとつ何故だかわからなかった。この子どもたちの家のことを伝えるためか、高堂か、赤竜のことなのか、それこそ「皆目わからない」だ。

百日草
「河桁というのを知っているな。」と見た目が明らかに若い高堂が綿貫に教えを垂れようとする。高堂が亡くなっているということをここでも仄かに匂わせる。「南川から聞いた。水底の国から神霊を召喚するのだろう。そのための足場を川の中に組むのだな。」と答える。
愛知川は長い間、主が不在である。今は山の恵み大地の恵み深くして保っていられるが、虚のなっているこの河の統括する神霊を大きな力で満たしたい。それゆえに、老いた赤竜は、西洋の何度も再生する火の竜、サラマンドラの話を綿貫から聞き、自分も再生しようと日の岡の稲荷に頼みに行くのだ。

高堂から将来、相谷、佐目、九居瀬、萱尾の将来、水底に沈んでしまうという。今、あの男がサラマンドラの力で動いたとて、未来は決まっている。巨大な河桁がこの四村を飲み込んだ後に、神が召喚する。

そして、茨川の上流にある滝の裏の洞…と、言っていつものようにいなくなってしまった。
相谷のお爺さん、お婆さんの家の前庭の畑にに、墓参り用の百日草の一群が動かずに咲いている。百日草は、「不在の友から聞いた言葉を思い出し」この村々で出会った人たちとの「絆」を綿貫に思い出させているのであろうか。

水たまりに、一升瓶ほどあるアメノウオが白い腹を見せて浮かんでいる。アメノウオがどんどん綿貫に向かって動いてくる。気がつけば水が増えている。水はどんどん湧き上がり、道へ溢れてくる。慌てて岩の上に登る。水はどんどん、村へ流れて行く。…そんな夢を見ていた。

スカンボ
翌朝、昨夜の高堂の言っていたことを思い出し憂鬱になるも、イワナの宿のことを高堂に聞かなかったことを後悔する。
三郎とともに朝食を食べ終え、芋入り飯の弁当を2食分と、三郎から竹皮包みをもらい、茨川に向かう。
峠で三郎から渡された竹皮包みを開けるとスカンポの茎が何本か、葉をきれいに取り、束ねて入れてあった。スカンポを齧ると口中が酸っぱさで潤った。そして野山を駆ける三兄弟の姿をを想像し、「親愛の情」を募らせる。

カツラ
茨川を目指して、愛知川の支流の一つである御池川の上流で、カンカンという音につられてある一軒の家を覗く。そこで道具を整備しているという木地師の尾倉氏と目が合い、少し話をする。それでイワナの宿も尋ねてみる。「茨川は途中から茶屋川と呼ばれています。昔、茨川村の奥が鉱山で栄えた頃、茶屋も建ち、女郎部屋まで建った。その名残の中で生きているうち、イワナもそういうことがやりたくなったのか、旅客相手の旅籠を、出すようになった。が、所詮イワナのことだから、やることはまねごとくらいだろうが、それでも客には雨露凌げる場所や曲がりなりにも食事が提供されるのだから、ほめてやってもいいくらいです。」
ここで、ようやくイワナの宿の具体的な話を聞くことができる。

御池川途中の道の端、河原との境目の小高くなったところに、幾本かをひとまとめにしたようなカツラの大木がたっていた。
「すでに天に近いところなのだ、ここは、と独り合点する。」カツラの葉が陽の光を通して金色に美しく輝く様がきれいで俗世的ではないからということもあるのだろうが、湿り気のある肥沃な土壌に生えるため、この土地がいつか水底に沈むことも暗示しているように思う。

ハウチワカエデ
峠道に入った山奥に集落が現れる。夢うつつの心地で坂道を下って行く。そのうちの一軒の物陰から八、九歳くらいの女の子が瓶をもって現れた。綿貫の姿に気づき、目丸くして、すぐに満面の笑みを浮かべ、家の方に走って行くと父親らしき人物を連れてくる。
山奥の集落なので人が来ると、外の話を聞きたくて、大喜びのようだ。
父親にイワナの宿を尋ねたところ、行き方を教えてくれた。峠の登り口に紅葉した一本のハウチワカエデが、周囲を圧しつつ立っていた。その下の立て札に「治田峠」と並んで「おやど いわな」と書かれている。
その坂の上方を見上げると、あの河童少年がいた。
少年の肩から魚籠がかけられておりその中に数匹のイワナが入っている。
「雨が降るとイワナが山を歩くというのはよく聞く話ですが、あれは雨が降ったからイワナが歩くのではなく、イワナが歩くから雨が降るのです。...いや、雨が降ると察知されたところをイワナが歩くのかな」

ああ、だから立て札のところだけが雨に濡れていたんだと…だから少年は手首のところを掴むのです。ぬらっとした棒杭ならイワナです。と、言ったのかと、ようやく前文の意味がわかる。
ハウチワカエデは、いったいなんの意味があったのだろうと、ここも理解できなかった。

ハマゴウ
岩陰でイワナじみた男が休んでいる。河童少年はその男の手首を掴む。その男は手首を掴まれるや否や目を丸くして、何呟きながらそのまま細くしゅるんと縮んで魚籠の中にイワナになって入る。そして少年は坂を駆け上がり、数人の手首を次々に掴む。そうすると魚籠にイワナが入っていく。少年はこの魚籠のイワナをイワナ夫婦の宿屋に持っていき、宿賃にしてもらうという。
「イワナの夫婦がイワナを料するのか。」
「共食いも辞さない奴らです。」と少年がいう。少年の名は、牛蔵。河童である。

「共食い?」この意味が初めは分からず流してしまった。

「.…見とれていると、どこからかカワネズミが走ってきて、川縁へ入ろうとした。目ざとくそれを見つけたイワナ女房は、素早く手を伸ばし、あっという間もなく口に入れた。…女房の口の端でネズミの尻尾の先がちょろちょろ動いていたが、それもやがて女房の喉の運動とともに消えるに至って、ようやく事態が正しく把握されてきたのであった。」

ここまできて、ようやくそう言えばイワナだからか…と、ようやくイワナが雑食であったことを思い出す。

ゴローの手がかりはアマゴの宿の近くの滝の裏。女郎上がりの年増のアマゴか一人で宿をしている。ここに南川が通っているという情報をイワナの夫婦から入手する。

ハマゴウの実が入った枕で、眠りについた。
ハマゴウの実は、どこか松の精油を思わせる、清新な海の香りがした。
イワナの女房がイワナの道を通って海に行くという話につながっているのであろう。

オミナエシ
茨川の滝の裏の洞。牛蔵によると竜王の洞のことで、竜宮に続く道である。ゴローはそこで何か仕事をしているのだろうと、ゴローびいきの牛蔵が説明する。
赤竜からイワナの夫婦に会ったら見せるように言われていた銅色の鏡のようなものをみせる。一目見て、イワナ夫婦は踊り上がりばかりに喜ぶ。そしていきなり宿屋家業をおしまいと牛蔵に宿を預けて出ていってしまう。イワナ夫婦を見送り、戻ってくるときにオミナエシに気がつく。オミナエシを採って柱の竹細工に飾る。

「イワナは竜神の眷属ですからね。」の牛蔵の言葉の意味があまり分からない。

オミナエシはイワナ夫婦の牛蔵に対する「親切」という意味なのか?それより漢字で女郎花と書くのでアマゴの宿を思い出してしまう。

「本当に綿貫さんの友人なら、ゴローさんを使って誘い込むことはしないはずです。ゴローさんはきっと、なにか鈴鹿の一大事のために働いているに違いないんだ。天湯河桁命も、最近見ないもの。何か、一大事なんだ。」と、牛蔵はいう。竜の洞には、絶対に入ってはいけないと牛蔵から忠告される。


牛蔵に言われた通りに、竜の洞に向かって歩いていく。やがて視界が開け茅野原にでる。茅の名が示すとおり「神」の聖域という意味なのだろう。

そしてそこにゴローがいた。ゴローと叫ぶと一目散で駆け寄ってくる。

鈴鹿の旅が終わった。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2021年5月30日
読了日 : 2021年5月30日
本棚登録日 : 2021年5月30日

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コメント 2件

いるかさんのコメント
2021/05/30

kurumicookiesさん

すばらしいレビューありがとうございます。
私も この本は大好きです。
なんとも言えない世界観。
何度も何度も読み返したいと思いました。

突然のコメント失礼いたしました。

kurumicookiesさんのコメント
2021/05/30

いるかさん、

こんばんは^_^ 自己満足で、記録的に大量なコメントにメッセージありがとうございます。
きっと何か意味するものがあるのだと、思って読むのですが、私の理解力のなさにところどころわからないところもあり…それでもこの透き通る世界観が好きです。

いるかさんが梨木香歩さんがお好きだと言うことは、存じ上げております!
私は理解できなかったところもちゃんとご理解されていたりと、凄いなぁと、思っていつもコメントを拝見しております。

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