まぶた (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社 (2004年10月28日発売)
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本棚登録 : 2913
感想 : 298
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さて、なぞなぞです。顔の中で鏡を見ても見ることのできない部位はどこでしょうか?

う〜ん、鏡に顔を映せば顔の中は全部見えるし、どこなんだろう…改めて考えるとすぐには思い浮かびません。とはいえ、こんな冒頭で時間を取っていたら長いレビューがさらに長くなってしまうので、とっとと答えにいきましょう(笑)。はい、それは『まぶた』です。この作品の書名でもあるので、ピンときた方も多いと思います。私たちが外の世界を見るのになくてはならない”目”。そんな”目”を守る『まぶた』は、その役割の大きさの割にはあまり注目されることはありません。顔の部位の話をしたとしても、”私は『まぶた』が魅力的なんです”とか、”私は『まぶた』があまり好きではないんです”なんて言い方をすることなどありませんし、そもそも話題に上がることさえないと思います。では、普段はそんな脇役中の脇役とも言える『まぶた』がこんな感じで登場したとしたらどうでしょうか?

『切り離されたまぶたは、銀色のトレイに載せられた。二つきちんと並んで。そう、病んで腐敗してゆく肉片には見えなかったよ』。

げっ、ホラーだ。すぐにそんな感情を抱いた人もいらっしゃるかもしれません。こんな文章の先に”キャー!”と言った悲鳴が聞こえる演出がなされれば間違いなくそれはホラーの世界です。しかし、そんな表現の次に出てくる会話が『来週は水着入れを買いに行こう』、『今日、郵便為替は来るかしら』だとしたらどうでしょう。ホラーだ、ホラーだ、と感情を昂らせた読者はなんだか肩透かしを食らわされた気分で、気まずい気持ちを落ち着かせる他ありません。

さて、この作品は、そんな不思議な気分に読者を誘う物語。どこか違和感のある表現が登場しても、登場人物たちはそのことをごく普通のこととして捉える様が描かれていく物語。そして、それはそんな不思議な世界観の描写を得意とされる小川洋子さんによるリアルとファンタジーが同居する物語です。

“現実と悪夢の間を揺れ動く不思議なリアリティで、読者の心をつかんで離さない8編”と、宣伝文句にうたわれるこの作品。表紙に大きく描かれた目を瞑る黒髪の少女のイラストが読む前から読者にどこか緊張感を強いる薄寒い印象をまず受けます。そんな八つの短編に繋がりは全くありませんが、ホラーの世界に少し足を突っ込んだような独特の世界観で物語は描かれていきます。そんな中から〈飛行機で眠るのは難しい〉の冒頭をいつもの さてさて流 でご紹介しましょう。

『飛行機で眠るのは難しい。そう思いませんか、お嬢さん?』と、『隣の男が話し掛けてきた時』嫌な予感がしたのは主人公の『わたし』。『今回の取材旅行に必要な資料をまとめ』ていたら、『結局徹夜になってしま』い、『ささいなことで喧嘩をし』、『二週間も連絡を取り合』えていない『恋人に電話をする暇もなく』機上の人となった『わたし』。そんな機中で『ウィーンへはご旅行で?』と隣の男に話しかけられ、冒頭の予感へと繋がっていきます。『飛行機の中では仕事をしない主義』だと続ける男は、『飛行機の中でうまく眠れた時』『たとえようのない幸福を感じる』と説明します。一方で『オペラ座の取材』の予定を考えると『どうしてもわたしはここで眠って』おかなければいけないと思うものの、『飛行機で気持ち良く眠れたためし』がないと返す『わたし』に、『とにかく目を閉じ』、『眠りへ導いてくれる物語を』その暗闇に映し出すようにと男は言います。そして、『怯えないで、緊張しないで、さあどうぞ、と言いながら』男は奇妙な話を始めました。『十五年近く前です』と始めた男は、仕事でウィーンへと赴く機内で隣り合わせになった老女のことを語ります。『漠然とした危うさを感じさせる、独特の雰囲気を漂わせてい』たという老女は、自分が『ひどい海老アレルギーなの』とその症状を説明します。そして次に『日本は素晴らしかったわ』と、『三十年も文通していた日本人のペンフレンドが亡くなった』ために墓参りが目的で日本を訪れたことを話します。『実際訪れてみると』、『部屋に飾ってあった写真は、私が送ってもらったのとは別人』であるなど、『半分以上は噓だっ』と語る老女。そんな老女は、『私は三十年間、手紙の送り主に恋をしていたの』とも語ります。そんな老女は『かなり小柄で』、『十二歳の骨格を老女の皮膚で覆ったかのよう』だと感じた男。そんな男は不思議なことを語り出しました。『老女が何かに触れると、その品物もまた小さく見えてしまう』というその現象。『ナイフとフォーク、紙ナプキン… 雑誌、櫛、鏡』と、『彼女にふさわしいサイズに縮小する』というその現象。『自分と彼女のナイフを見比べ』ると、『間違いなく同じナイフ』だというその不思議。そんな老女は、今度は男について知りたがり質問を次々と投げかけてきます。『自分が他人から求められている』と、『だんだん気持ち良くなって』きたというその男。そんな中、『うとうとしかけてすぐのこと』というタイミングで『異変が起』こります。老女は、男は、そして『わたし』は…というその後の物語が描かれていくこの短編。短い物語ながら、伏線をきれいに回収しつつも小気味よく展開する物語は、小川洋子さんらしさ満載の好編でした。

八つの短編から構成されたこの作品はとにかく不思議感の強い物語ばかりで構成されています。その中には上記したように少しホラーを感じさせるものもありますが決して怖い!というものではなく、不思議感が強く印象に残ります。その中から一編をご紹介しましたが、他に気に入った短編についてその概要を簡単にまとめておきたいと思います。

・〈中国野菜の育て方〉: カレンダーの『十二日のところに黒いサインペンで丸がしてあ』るのに気づいた『わたし』は、『丸』をつけた記憶がどうしても思い出せません。そして、そんな日に『見覚えのない…小さなおばあさん』がやってきて『野菜を売りに歩いている』と言いました。そんな『おばあさん』からサービスでもらった『中国の珍しい野菜の種』を育てると、それは芽を出し、『クリーム色の光』を放ちはじめました。

・〈お料理教室〉: 『キャセロール料理教室』『生徒募集』の広告を見て教室を訪れた『わたし』は、先生に案内され、生徒は『わたし』一人という中で指導が始まります。そんな時『排水管の清掃』業者がやってきて『六十年分の汚れ』を綺麗にすることを、先生の代わりに対応した『わたし』に強く進言します。そして『清掃作業はすぐに開始』されたという中、排水溝から『火山のマグマのように』さまざまななものが吹き出し始めました。

・〈バックストローク〉: 『雑誌に連載する長編小説の取材で、東欧の小さな町を訪れた』『わたし』は、『ナチス・ドイツ時代の強制収容所』に『収容所の看守とその家族が』使っていたというプールを見つけます。そんな『わたし』は、『水泳の選手だった』弟のことを思い出します。『地元の新聞に写真が載』るなど活躍する弟。そんな弟はある日『僕はコウモリに襲われて死んだんだ』と前世を語り出しました。

といった感じでそれぞれの短編は、一見普通の日常の物語が描かれているようでいて、そこに何かしら違和感のある事柄が語られ、短編自体が不穏な空気を纏いながら展開していきます。この違和感がどう決着されるのか、そこにはこの短い物語の中でよくこれだけ上手くストーリーをまとめるものだと感心するほどに絶妙な物語が描かれていました。

そんな物語では、小川さんらしさを感じさせる演出がさまざまになされていきます。一つには、”モノ”の名前を淡々と列挙していく表現です。例えば〈飛行機で眠るのは難しい〉で登場する『張り裂けるほどに膨れた』老女のかばんの中身についてです。『虫除けスプレー、ハッカ入りのガム、足のむくみを取るクリーム、皺だらけのスカーフ、お土産に買った匂い袋と塗りの箸と扇子…懐紙にくるまれた羊羹の切れ端…』と次から次へと溢れるように記される”モノ”、”モノ”、”モノ”。自分のかばんの中にも入っているかも(汗)と、焦ってもしまいそうな”モノ”たちをあくまで淡々と列挙する小川さん。この作品では、複数の短編でこの表現が堪能できるのも魅力です。そして二つ目は”ある場所へ辿り着くまでの道筋”に関する表現です。〈お料理教室〉で主人公はその教室のある場所をこんな風に説明されます。『ポイントは皮膚科の病院とアコーディオンなんです』と始まり、『縦書きの看板が出ていますけど、皮膚科の膚の字が消えかけて、腐食の腐の字みたいになっている』、そして『アコーディオンの音色が聞こえる』ので、『そこを通り過ぎた突き当たりが、私の教室です』と説明される主人公。一癖も二癖も感じさせるその説明が目的の場所の不思議感をより醸し出させてもいきます。そして三つ目は、この作品を覆うホラー一歩手前の不思議感です。〈詩人の卵巣〉というタイトル自体が緊張感を醸し出すこの短編では、老婆が『お腹のあたりのボタンを』外してそこから『髪の毛を引っ張り出』すという光景が登場します。お腹にある傷跡から伸びる髪の毛。『蜘蛛が糸を吐くように、するすると切れ目なく髪が出てきた』と表現されるその光景は普通には、ホラーの世界です。しかし、小川さんはあくまで淡々と『彼女はそれを糸巻きに取り、機を織った。痛みはない様子だった』と記すのみならず、そこで語られる会話も『これが完成したら、あなたはどうなさるの?』『私の役目は終わりでございます』とその状況を当たり前の日常の光景の一つとして描いていきます。これに読者だけがホラーだ!と怖がったとしたら、その方が間が抜けているとも言えます。と言った感じで、他の作品にも見られる小川さん独自の世界観の物語がこの短編集ではいつも以上に、如何なく発揮されているのが何よりもの魅力だと思いました。

『切り離されたまぶたは、銀色のトレイに載せられた。二つきちんと並んで。そう、病んで腐敗してゆく肉片には見えなかったよ』。

私たちの身体の中で自分の目で見ることのないものが『まぶた』です。そんな普段、意識しない『まぶた』が、単独で目の前にあるという違和感のある光景が淡々と記されていると、それが自分のものでなくとも恐怖の感情が生まれます。このような表現がホラー小説の中にあっても違和感はないでしょう。しかし、それが淡々とあまりに当たり前に描写されていくとしたら私たち読者も心の中で違和感を感じつつもそれを当たり前のこととして捉えるしかありません。また、そんな『まぶた』は、私たちが”目”を使って見ようとする行為を遮る役割を果たすものでもあります。目の前に見えている世界を一瞬にして暗闇へと変える力を持つ『まぶた』。そんな暗闇の世界では目ではなく想像力が暗闇に世界を描いていきます。そう、『まぶた』とは、目で見るリアルな世界と、想像力が暗闇に描き出すファンタジーの世界を薄皮一枚で切り替える役割を果たしてもいるのです。この短編集では、そんな『まぶた』を閉じた暗闇の世界が見せてくれた、何かおかしい、何か不思議、そして何か違和感のある表現が当たり前のように語られる中で、心が不思議な揺さぶられ方をするのを体験できました。

同じ世界観を感じさせる八つの短編で構成されたこの作品。小川洋子さんの魅力をサクッと堪能できる短編集の傑作だと思いました。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 小川洋子さん
感想投稿日 : 2022年2月14日
読了日 : 2021年12月12日
本棚登録日 : 2022年2月14日

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