溺レる (文春文庫 か 21-2)

著者 :
  • 文藝春秋 (2002年9月3日発売)
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あなたは、いきなり『死んでからもうずいぶんになる』という書き出しの小説に接したとしたら、その先にどんな世界を感じるでしょうか?

どんな小説に於いても冒頭の一文というものはとても大切です。その作品世界に入っていくことができるかどうかを試す試金石とも言えるのがこの冒頭の一文です。私は今までに500冊以上の小説ばかりを読んできましたが、そんな中でも未だに一番強く印象に残っているのが、綿矢りささん「蹴りたい背中」の冒頭の一文です。『さびしさは鳴る』と始まるその一文。そんな一文をもって私の心はすっかり綿矢さんの作品世界に囚われてしまいました。芥川賞を受賞された作家さんの表現の魅力というものをこんなところからも感じます。

そして、同じく芥川賞を受賞された作家さんでもある川上弘美さんもさまざまな文章表現で魅せてくださる作家さんの一人です。そんな川上さんの作品は、冒頭の一文以前に、書名で何かしら引っ掛かりを感じさせるものも多いと思います。私が読んだ作品では「これでよろしくて?」といきなり書名に”?”がつくという、なんとも妙な引っ掛かりを感じさせる作品もありました。そして、本日ご紹介するこの作品もいきなり引っ掛かりを感じさせる書名がつけられています。「溺レる」というその書名。三文字の中に漢字とカタカナとひらがなを使ってしまうというなんとも贅沢なその書名。そんな作品は、書名に感じる不思議感をダイレクトにまとってもいます。

『少し前から、逃げている』、『大きな、七面鳥が、胸の上に乗っかってきた…』、そして『死んでからもうずいぶんになる』と不穏な空気を感じさせるその各短編の冒頭。そんな八つの短編から構成されたこの作品は、短編それぞれに関係性はありませんが、一つの独特な世界観を見事に作り上げているという点で短編集として絶妙なまとまり感を見せてくれます。ただ、あまりにかっ飛んだ物語のオンパレードに、私の読解力が追いついていかないと感じる部分もあり、楽しめる作品とそうでない作品に分かれた印象はあります。そんな中からいつもの さてさて流 でその一編の冒頭をご紹介しましょう。

『死んでからもうずいぶんになる』と思うのは『サカキさんと情死するつもりだった』という主人公の『私』。しかし、『情死』するはずが『サカキさんは死なずに残』り、『私だけ、死んだ』という結果論。『死んでからは、迷ったり、念がこうじて幽霊のかたちであらわれたり』していた『私』ですが、今では『サカキさんのことを、強く思うばかり』となっています。そして、そんなサカキも『せんだって八十七歳で往生し』ました。そんな『サカキさんを知ったのは私が四十歳になってしばらくのころだった』と振り返る『私』は、『逢瀬をかさねた』日々を思い出します。『そのうちにお互いの体が粘るようにな』り、やがて『体だけでなく心根も粘ってきた』と感じた『私』は、『情死しなければいけない』と思い詰めます。そして、『一緒に死のうとサカキさんに言われた』『私』。『サカキさんは会社に退職届けを出し』、『蒸発人となった』サカキは、『私の手を引いて小さな不動産屋に入』りました。そして、『商業学校の前の、日当たりのいい六畳の部屋を借りた』二人。『私が使っていた布団を持ってこようかと言ったら』、『いいよ。新しく買おう』と言うサカキに、『でも、もったいない』と返す『私』。そんな『私』に『すぐにどうせ死ぬからか?』と笑うサカキは、『このまま、ずっとこうしていたいや』と『畳に寝そべって天井を見上げ』ます。『死ぬのは、いやだった』という『私』。『しかし、死なないで生きていくことにも、さほど執着はなかった』という『私』は、『死んでもいいわよ一緒に、と答え』ました。『もう疲れた』としばしば言うサカキは、『もう疲れた。早く死のう』とも言いますが、『疲れた、と言いながら、結局サカキさんは生き残ってしまった』という結果論。そして、『八十七歳の生涯を立派にまっとうした』というサカキに対して『私だけが死んでしまった』という結果論。そんなファンタジー視点で描かれる不思議感極まる〈百年〉というこの短編。冒頭の『私だけ、死んだ』という衝撃的な一文で読者を一瞬にして不思議な世界へ誘ってくれる不思議世界の魅力を堪能できる好編でした。

八つの短編は雰囲気感を共通としていますが、それぞれの個性は非常に強いものがあります。そんな特徴を言葉の表現と、印象的なシーンからそれぞれ二つずつ見ていきたいと思います。まずは言葉の表現の一つ目です。それは、この作品の「溺レる」という書名からも予想される”カタカナ”の多用です。日本語は言うまでもなく漢字、ひらがな、そして”カタカナ”によって表記される言語です。これら三つの中でも”カタカナ”というものは、意図して用いられる場合が多く、どこか軽やかでリズム感を感じるような軽快さも特徴だと思いますが、この作品では、八つの短編に登場する男性の名前が『メザキ』、『コマキ』、そして『トウタ』というように全員、カタカナで表記されています。私たちは普段の日常生活において氏名は漢字で表記するのが一般的です。”カタカナ”で表記されるのは、その人物の漢字が不詳の場合など意味ある場合のみです。それがこの作品のように全編にわたって”カタカナ”で表記されるとどこか不穏な空気が漂います。また、その名前に不思議と注意がいったりもする一方で決して感情移入の対象となっていかないのも不思議です。また、人の名前だけでなく、漢字で表記されることを期待する熟語が”カタカナ”で表記されてもいます。例えば『リフジンなものから逃げてるということでしょうか』という一文は、普通に『理不尽なものから逃げてるということでしょうか』と表記する以上に、何か皮肉のようなものも感じます。また、『シニタイとかなんとか言いながら』という一文は、『死にたいとかなんとか言いながら』と表記するよりも”カタカナ”の特性が勝ってなんだか深刻さが感じられません。そして、書名にも繋がる『アイヨクにオボレる』という一文も『愛欲に溺れる』と表記するのとは全く別物の感情の表現のようにも感じてしまいます。どちらかと言うと後者のドロドロとした印象が薄まって軽やかさを感じさせるのも不思議です。といったように”カタカナ”使いの絶妙さがこの作品の表現の一番の特徴だと思います。

言葉の表現の二つ目は古語や俗語がいきなりぽんと使われるところです。『「ハシバさん、どっかにしけこもう」いらいらしながら、わたしは言った』と、使われる『しけこむ』という言葉。”遊郭や料理屋などの遊び場にひっそりと入り込むこと”を指す言葉のようですが、続く本文で『しけこむって、トキコさん、古い言葉使うね』と突っ込みが入るように今の世には普通には違和感を感じる言葉だと思います。また、『せんないようなにくたらしいような心もちになって』というひらがながやたらと続くこの文章の『せんない』です。こちらは”何かをしても報いられない”というような意味合いのようですが、読みづらいひらがなの連続と相まってなんとも引っ掛かりを感じる表現です。

次は印象的なシーンを見てみたいと思います。まず一つ目です。それは、『メザキさん、おしっこしたいの』と唐突に登場する主人公・サクラの一言から始まる場面です。『道ばたの草むらに踏みいった』、『スカートを腰までめくりあげ、したばきを下ろした』、そして『目を閉じて、放尿した』と続く一連の場面。私たちの日常における、起きて、食事をして、何か活動をして、性の営みがあって、そして眠るという一連の行動のそれぞれの場面は、数多の小説でさまざまな書きようがなされています。特に多いのは食の場面と性行為の場面だと思います。しかし、私たちの日常で誰もが欠くことがないはずなのに小説に登場することがほぼないのが”用を足す”場面です。そもそもそんな行為を記述してもそこからドラマが生まれることはない、だから記さないのだと一見思われがちです。しかし、そんな場面を意図的に入れている作品も存在します。私が今までに読んできた作品の中では、小川糸さん「さようなら、私」において主人公がモンゴルの大平原で繰り返し”用を足す”場面が描写されます。そこには、傷ついた主人公の心が解きほぐされていく様が同じ”用を足す”という行為の反復の中での微妙な感情の変化によって表されてもいました。また、川上弘美さん「せんせいの鞄」では『わたしは手洗いに行き、勢いよく用を足した』と繰り返し”用を足す”場面が記される中で小川さんの作品と同じような主人公の感情の変化をそこに感じました。一方で、この作品で”用を足す”場面は一度きりです。その効果としては、”用を足す”というある意味での孤独な行為を『さみしいね、おしっこしてても、さみしいよ』という主人公の心持ちを読者にも感覚的に伝える目的で描かれているように感じました。いずれにしても”用を足す”場面の登場はインパクトが非常に大きいものであり、そんな場面を登場させる川上さんの強い意図を感じます。

最後に、印象的なシーンの二つ目です。それが、『ユキヲは黙ったまま私を畳におろし、ていねいに服を脱がせ、乳房の間に鼻をうずめ、ゆっくりと行為におよんだ』と描かれていく性行為の描写です。この作品のレビューで”川上弘美版官能小説”という風に書かれていらっしゃる方もいる通り、八つの短編に性行為を描写するシーンは複数登場します。特に上記の表現の登場する〈亀が鳴く〉や、『執拗に、乳房にくちびるを当てるので、どうしても声が出る』と続く〈可哀想〉、そして『俺が、ほしいか』『いい声だな、おまえの声は』と展開する〈無明〉などそれぞれの短編の雰囲気に絶妙にマッチした性行為の場面がそれぞれの短編に登場します。しかし、それらは決して読者にいやらしい感じを与えないのが不思議です。そういったシーンを文章を通して読者が見るというよりは、どこまでいっても文学作品を読んでいるような印象、もしくは高い位置から俯瞰しているかのような印象も受けます。一方でだからこそ、これぞ”ジ・エロティシズム”と感じる方ももしかしたらいらっしゃるかもしれません。この辺りは、人それぞれだと思いますので、私の見方はこれまでとしたいと思います。

そんな表現の魅力に満ち溢れたこの作品は、全てが男と女の物語という一貫性をもった短編集でもあります。『あんたら、どういうの』と、関係を聞かれて『駆け落ちしてるんですよ』と真面目に男が答える表題作の〈溺レる〉。『ナカザワさんは肌をあわせるときにはたいがいわたしを痛くするのだ』というナカザワとの性行為のあり方を注視する〈可哀相〉。そして、『死んでからもうずいぶんになる』という冒頭の一文から読者を戸惑いの中に突き放す〈百年〉など、男と女の物語といっても、普通ではない状況下の関係性を描いていくこの作品。あまりにつかみ所のない内容が次から次へと読者を襲うその物語世界は読者の想像力を試しているかのようにさえ感じさせるものばかりです。そんなこともあって、好き嫌いがはっきり分かれそうな作品だとも思います。しかし、これこそが万人におもねらない川上弘美さんの作品の何よりもの魅力であり、その作品世界に読者も一緒に「溺レる」ことこそ、この作品を読む醍醐味なのかもしれません。

言葉の表現の魅力と、印象的なシーンの魅力、そしてつかみ所のない場面設定の中にいきなり放り込まれ、作品に「溺レる」ことが一番の魅力のこの作品。その独特な作品世界に一度はどっぷりとハマってみたい、そう感じさせてくれた不思議感漂う作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 川上弘美さん
感想投稿日 : 2022年4月4日
読了日 : 2021年12月23日
本棚登録日 : 2022年4月4日

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